出会って従った
2016年1月17日降誕節第4主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」ヨハネによる福音書 1章35〜51節
▼繰り返し読んでいる箇所ですので、主題を絞りますが、順に読みたいと思います。主題に深く拘わる所を取り上げて読むことに致します。
35節。
『その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた』
ヨハネ、バプテスマのヨハネについては、いろんな機会に何度も取り上げていますので、今回は省略します。
ここで、押さえておきたいのは、『二人の弟子と一緒にいた』この言葉です。ヨハネには弟子がいました。随分大勢だったと推測されています。その内の二人が、いま、先生のヨハネと一緒にいました。何か特別の大事な用事があったとは記されていませんから、唯の散歩なのか雑用なのかも知れません。
しかし、何かしらの理由があって、一緒にいたのに違いありません。
▼それが、
37節。
『二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った』
イエスさまについても、何の用事だったのかは記されていませんが、通りかかりました。
そうしたら、ヨハネの二人の弟子は、イエスさまについて行きました。まるで鞍替えするかのように、ついて行きました。
このことをもって、二人の弟子はバプテスマのヨハネを捨ててイエスさまに走ったなどと言ったら、大袈裟過ぎるかも知れません。しかし、後の方を読みますと、そのような表現もあながち見当違いではないかも知れません。
『イエスに従った』とは、単純に興味を持ってついていったということなのでしょうか。
しかし、彼ら、少なくとも彼らの一人でペテロの兄弟アンデレが結局はイエス様の弟子になるということを連想させられます。そうでなくとも、マルコ福音書では、『イエスに従った』とは、弟子となることを意味しています。
ここでも、矢張り、弟子になったということと、重ねられているのだと考えます。
▼38節。
『イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」
と言われた。彼らが、「ラビ … 『先生』という意味 …
どこに泊まっておられるのですか」と言うと』
これを見ますと、何となく後に従ったのではありません。イエスさまが仰ったように『何かを求めて』の行動と思われます。『どこに泊まっておられるのですか』と聞いたのは、時間をとってじっくり話を聞きたいからに違いありません。
この時点で既に、バプテスマのヨハネから、イエスさまの方に心が動いているのです。
▼39節。
『イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、
彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。
そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである』 表面的には、好奇心を持ったヨハネの弟子たちが、イエス様に宿を訪ねたというだけのことでしょうか。『来なさい。そうすれば分かる』というのも、宿が分かるということに過ぎないのでしょうか。
それはあまりに不自然な読み方です。
もっと、深い意味が隠されていると読むのが普通でしょう。
▼『何を求めているのか』とは、特別の意味合いで用いられる表現です。ヨハネ福音書でも、マルコ福音書でも、福音書に共通して、『何を求めてキリストの前に立つのか』という意味で用いられます。私たち一人ひとりの信仰の姿勢を問う表現です。
『どこに泊まっておられるのですか』とは、矢張り、もっと話を聞きたいということでありましょう。彼らは、ヨハネによってイエス様に興味を持ち、もっと良く知りたいと考えたのであります。
だからこそ、イエスさまは、『来なさい。そうすれば分かる』と仰いました。勿論、宿が何所かが分かりますが、それよりも、もっと話を聞くことが出来るということです。
▼『来なさい。そうすれば分かる』たったこれだけの言葉ですが、何しろイエスさまのお言葉です。内容が内容です。『来なさい。そうすれば分かる』、これは決して軽い言葉ではありません。
イエスさまは私たちにも、常に、このように仰っているのではないでしょうか。『来なさい。そうすれば分かる』、イエスさまの元へです。教会へです。
▼順に読むと言いながら、敢えて、36節を飛ばしました。
ここで読みます。
『そして、歩いておられるイエスを見つめて、
「見よ、神の小羊だ」と言った』
二人をイエスさまへと向かわせたのは、この言葉です。『見よ、神の小羊だ』。
この『神の小羊だ』の意味については、先週読んだばかりですので、詳細を申し上げることは致しません。必要を感じる方には、先週の原稿がありますので、お読みいただければと思います。
肝心な点だけを拾います。
『神の小羊』とは、出エジプト記に記された出来事を起源を持ちます。戸口に羊の血を塗られたユダヤ人の家だけを、災いが過ぎ越して行きました。血の記がないエジプト人の家では、人間も家畜もあらゆる初子が、命を落としました。この出来事を継承するのが、過越の祭りであり、ユダヤ教最大の祭儀です。
そして、この出来事と、イエスさまの十字架の場面が重なります。イエスさまは犠牲の羊であり、十字架は、十字架の血は、戸口に塗られた血です。十字架に与る者だけが、贖われて、災いを免れ、救い出されるのです。
▼つまり、二人の弟子がイエスさまに従って行ったのは、興味本位でないのは勿論、何か向学心のためでも、求道心の故でもありません。彼らは、救い主を求めて、これに従ったのです。
『何を求めているのか』とは、あなた方は救いを求めているのかという意味であり、『来なさい。そうすれば分かる』とは、イエスさまに従う道だけが、
救いに至る道だと言うことです。それは十字架への道だという意味です。
▼40節。
『ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、
シモン・ペトロの兄弟アンデレであった』
『聞いて、イエスに従った』とあります。
彼らはイエスさまにお目に掛かり、イエスさまの言葉を聞きます。
この『聞いて』という表現は、ヨハネ福音書では、大事な局面で繰り返し用いられる表現です。
ヨハネ福音書では、『聞いて』信じるのであり、『聞いて』救われるのです。
▼それでは、イエスさまの方はどうでしょうか。
イエスさまも、人々にあれこれとお尋ねになり、その上で人物を見、弟子にされたり、救われたりするのでしょうか。どうもそうではありません。
42節。
『そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、
「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」と言われた』
『イエスは彼を見つめて』、イエスさまは、私たちをご覧になります。見詰められます。
▼41節。
『彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア
… 『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った』
バブテスマのヨハネが、イエスさまについて証しします。
それを聞いた弟子二人が、イエスさまについて行き、お言葉を貰います。
この言葉を、アンデレは、自分の兄弟ペテロに告げます。見聞きしたことを伝えるのですが、その見聞きしたことを、彼は、
『わたしたちはメシアに出会った』と表現します。これは、アンデレによる証です。
四つの福音書を重ね合わせて見ますと、これが、イエスさまに出会った人間による最初のキリスト告白です。
ルカのクリスマス記事という例外はありますが、最初の信仰告白と言えます。
▼42節。
『そして、シモンをイエスのところに連れて行った』
アンデレはペトロを、イエスさまの元に連れて行きます。これは、最初の伝道です。決して大袈裟な言い方ではありません。最初の伝道です。
『わたしたちはメシアに出会った』と信仰告白したアンデレは、自分にとって最も親しい者、愛する者に、伝道しました。
これが伝道の、基本の基本ではないでしょうか。
素晴らしいことに出遭ったならば、それを誰かに伝えないではいられません。大事なこと程、親しい者に、愛する者に伝えたいのではないでしょうか。それが、伝道の基本です。
▼以前にもお話ししましたが、何十年も教会に通っていた人が、パタリと姿を見せなくなった、そこで、牧師が訪ねて行ったら、もう亡くなっていて、葬儀も済んでいた。それどころか、家族は誰も、この人が教会に通っていたことを知らなかったというのです。日曜日毎にいなくなる、しかしゴルフの道具も見たことがないから、碁会所にでも出掛けているのだろうと思っていたのだそうです。
これは私が体験したことではなく、先輩牧師の体験談ですが、実話です。私も、ここまで劇的でなくとも、似たようなことなら、体験しています。
家族に、愛する者にイエスさまの話を伝えなかったこの人は、本当にイエスさまに出会っていたのでしょうか。疑問になります。
▼42節。
『シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見
つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ … 『岩』
という意味 … と呼ぶことにする」と言われた』
ペトロを、イエスさまは、この瞬間に、弟子として召し出され、その生涯にわたる伝道の使命を与えられました。『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする』とは、明らかにそのような意味です。
▼出会いと証によって、福音は宣べ伝えられて行きます。
その出会いと証は、主の言葉に基づく出来事です。
主の言葉に出会い、心を動かされた者が、その感動を、他の者に伝える、それが、証であり、伝道です。
人間と人間との出会いではありません。人間の言葉との出会いではありません。神の言葉との出会いだけが、本当に人の心を突き動かし、伝道が起こるのです。
▼43節以降でも、この順番が繰り返されます。端折って読みます。
43節。
『フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた』
いきなりです。しかし、これは他の福音書の漁師の召命や取税人の召命に酷似しています。基本全く同じです。『わたしに従いなさい』この言葉が、人を動かすのです。この言葉を聞いた者だけが、心を動かし、そして従うという行動を起こします。
▼45節。
『フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、
モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。
それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ』
なぞったようにそっくりですが、『モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方』と表現が変わり、内容が深められています。
『モーセが律法に記し』これは、殆ど『神の子羊』と重なります。『預言者たちも書いている方』これは、預言書諸書に記されたキリスト預言でしょうが、同時にイザヤの苦難の僕の預言でもありましょう。矢張り、『神の子羊』です。
ここでも出会いから、それを伝えること、即ち伝道です。
▼46節。
『するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」
と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った』。
ここでも、『来て、見なさい』です。ナタナエルのように理屈をこねていては先に進みません。
▼47節。
『イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、
彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。
この人には偽りがない』。
『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と失礼なことを言ったナタナエルが、こんなに評価されています。そして、イエスさまに、出遭いました。
それも、イエスさまに会いに出掛けたからです。
▼49節。
『ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。
あなたはイスラエルの王です』。
『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言っていたその舌も渇かない内に、『あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』。
何がそのように変えたのでしょうか、48節と50節では説明しきれません。矢張り出会いです。何があったからとか、どんな根拠に基づくからということではありません。
イエスさまに出遭ったからです。
▼51節。
『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが
人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』。
イエスさまの言葉に出会い、イエスさまに会いに出かけた人は、このように、神秘を体験することが出来ます。
否、イエスさまの言葉に出会い、イエスさまに会うことこそが、神秘体験だと考えます。