飢えた者への誘惑

2016年2月14日受難節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。  「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

マタイによる福音書 4章1〜11節

▼【おひさまぶんこ】にリンドグレーンの作品が何点か収蔵されています。その中に、『ミオよ、私のミオ』があります。リンドグレーンの最高傑作と言われています。【おひさまぶんこ】のお薦めコーナーにありましたので、つい先月、ほぼ半世紀ぶりに読み返しました。
 話の内容は、正直殆ど忘れておりました。がっかりするくらい、覚えていません。それは、『長靴下のピッピ』なども同様です。しかし、逆に言えば、新鮮な気持ちで楽しむことが出来ました。
 
▼さて、『ミオよ、私のミオ』の一場面ですが、主人公のミオは、敵の騎士カトー、おそらくは悪魔を象徴しているのでしょう、悪の騎士カトーの城に迫った時に、凄まじいばかりのひもじさ・餓えに襲われます。まさしく食べ物の飢えなのですが、それだけではありません。魂そのものの飢え、存在そのものの飢えです。
 もっと正確に引用出来ればよろしいのですが、確認しようと思ったら、どなたかに借り出されていました。借りたのは子どもでしょうか。そうだとしたら、とても素晴らしい本を手に取ったことになります。少し難しいかも知れませんが、最後まで読んでいただきたいものです。

▼今日の聖書の箇所は、繰り返し読んでいる所です。私のパソコンにも、3通りの説教が入っていました。しかし、『ミオよ、私のミオ』によって、新しい観点を与えられたように思います。 4章1~2節。
 『さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、
“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
2:そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。』
 この誘惑とは、この空腹とは、単にパンのことではないでしょう。凄まじいばかりのひもじさ・餓えであり、魂そのものの飢え、存在そのものの飢えでしょう。
 子どもたちと一緒の礼拝なのに、難しい言葉を使って済みませんが、魂そのものの飢え、存在そのものの飢えであり、魂そのものの危機、存在そのものの危機でありましょう。
 イエスさまは、そういう、人間の究極の苦悩を味あわれたのです。

▼今日は子どもたちと一緒の礼拝ですし、礼拝後には『おひさま文庫20年』の特別な企画がありますので、もう少し、児童文学を話題にします。
 小学校の低学年の時に、国語の受業で聞いた話ではないかなと思います。題名も作者も知りません。随分調べましたが未だに分かりません。何しろ半世紀も前のことですから、正確な引用は出来ません。おおよそ、こんな話でした。
 ブタとヒヨコはとても仲良しです。何時も二人で一緒に楽しく遊んでいます。でも、ブタには、大きな悩みがありました。イヌのことです。意地の悪いイヌが、毎日のように、ひどくヒヨコを虐めるのです。ブタは力が弱くてヒヨコを守ってあげることができません。それがブタの悩みでした。

▼その日も、イヌがヒヨコをひどい目に遭わせました。ブタはただ黙って見ていることしかできません。とてもイヌと闘う力も勇気もありません。
 その夜、ブタはお月様に願い事をしました。ぼくを強くして下さい。イヌをやっつけられるくらい強くして下さい。
 朝、目が覚めるとブタは自分の体に不思議な力がみなぎっているのを感じました。とても強くなったような気がするのです。

▼いつものようにヒヨコのところに行くと、イヌがいました。いつもなら直ぐに逃げ出したくなるのですが、ブタはイヌに真っ正面から向き合いました。イヌはおびえたような顔をしています。ブタが一撃するとイヌは突き飛ばされ、たちまち逃げ出してしまいました。
 ブタは得意げにヒヨコを振り返ります。ところが、喜んでくれると思ったのに、ヒヨコはイヌと同じようにおびえた表情をしています。
 ブタの体には、ごわごわに硬い毛が生え、口からは大きな牙が突き出ていました。ブタはもうブタではなくて、イノシシに変身していたのでした。
 野生に目覚めたブタは、気持ちが荒々しくなり、やがてお腹が空き、… そして、大好きな友だちのヒヨコを、一口に食べてしまいました。

▼皆さんは、スーパーマンになりたいと思ったことはありませんか。スーパーマンになれたら何をするか…そんな空想をしたことがありませんか。
 私は65歳を越えましたが、未だにそんな空想をして、電車を乗り過ごすことがあります。
 人は、何故スーパーマンになりたいのか、強くなって、自分の愛する者を守ってやりたいからです。悪い奴をやっつけてやりたいからです。弱い者を守ってやれない、自分の弱さが恥ずかしいからです。強いけれども悪い奴に頭を下げなければならないのが悔しいからです。少なくとも、この物語のブタはそう考えました。
 強く変身したブタは何をしたか、確かに、愛する弱いヒヨコのために闘い、イヌをやっつけました。ところが、結局は、ヒヨコを食べてしまいました。

▼実際に力を手にした人間は何をするか。変身した人間は何をするのか、どうも本当には弱い人の助けにはならないようです。そのことは、歴史に学ぶことが出来ます。弱い貧しい人間を救うためにと闘った筈の英雄が、結局は、多くの弱い貧しい人間を地獄の苦しみに追いやった、それは、歴史の事実です。
 弱い者を守るのは強さではなく、弱い者の心に共感すること、弱い人の心と同じ心を持っていることのようです。
 大抵、自分が強くなった結果、その瞬間に弱い貧しい人間のことを、忘れてしまうのです。見えなくなってしまうのです。

▼聖書に弱さと強さのことについて述べている箇所が幾つかあります。
 Ⅱコリント12章5節。
 『自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません』
 同じくⅡコリント12章9~10節。
 『「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るよ  うに、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』
 Ⅱコリント13章4節。及び9節。
 『キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によ
って生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者と
して弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によっ
てキリストと共に生きています。』
 『わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あ
なたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。』
 ヘブル人への手紙5章2節。
 『大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷
っている人を思いやることができるのです。』
 他にもいくらでも引用出来ます。

▼聖書は、普通の人が考える強さを、本当の強さとは認めません。逆に、普通の人が考える弱さを、むしろ、強さとするのです。
 イエスさまは、荒野の誘惑を受け、空腹になられました。飢えを感じました。その飢えは、単なるひもじさではありません。人間の一番弱い所、それをイエスさまは体験されたのです。

▼さて、肝心のマタイによる福音書4章の話を、殆どしていませんでした。
 先ずパンのことです。この当時のイスラエルでは、パンを食べることの出来ない人が少なくありませんでした。貧しい人々は、飢えていたのです。その中で、イエスさまは、『人はパンだけで生きるものではない。』と仰ったのです。貧しい人々にとって先ず必要なのはパンじゃないか、食べる物があれば人は平和に、幸せになれる。そう言う考え方があると思います。
 では、このことをお考え下さい。
 阪神大震災での死者は、6433人です。東日本大震災は死者1万5890人、行方不明者は2589人です。
 ところで、昨年の交通事故の死者は、4千人以上です。4千人でも、以前よりは大分減りました。一番酷かった時の3分の1でしょうか。しかしこの数字は毎年です。
 4千人以上の人々が、毎年交通事故で亡くなっているのです。その数は、やがて、第2次世界大戦に於ける戦死者の数を越えるでしょう。そして、その又4倍、3万人を越える人々が、毎年自殺しています。信じられないような数字ですが、本当のことです。2003年がピークでその数、34427人です。その後はやや減少傾向にあるそうです。
 食べるものには全く困らない日本の国には、平和でも幸せでもない人がたくさんいるのです。
 イエスさまは、『人はパンだけで生きるものではない』。食べ物が有っても人は幸せにはなれないと仰っているのです。

▼二つ目の話は簡単に言いますと、イエスさまが直接国を治めたら、つまり、政治が良くなれば、軍隊を押さえたら、人は幸せになれるじゃないかというのが、悪魔の誘惑です。
 このことについては、ブタとヒヨコの話で充分だと思います。飢えた子どもたちがかわいそうだからから始まって、悪い指導者をやっつけるために、爆撃したら、結局飢えた子供が増えるだけでしょう。そんな政治や軍事では、永遠に本当の平和は来ないのです。政治や軍事では人間は幸せにも、平和にもなれません。

▼三つ目の話は、もし、病気や怪我がなければ人間は幸せになれるのに、ということではないかと思います。
 日本は世界一の長寿国です。世界一長生きです。しかし、それで幸せかと言うと、どうも、そうではないようです。

▼マタイ4章は、イエスさまの伝道の生涯の出発点です。ですから、一番基本的な姿勢が述べられています。悪魔はイエスさまにスーパーマンになりなさいと迫っています。しかし、イエスさまは、スーパーマンではなくて、私たち人間と同じ姿になられ、同じ苦しみを味わうという道を選ばれたのです。
 そこにだけ救いの道を見ておられるのです。

▼イエスさまがスーパーマンになろうとはなさっておられないのに、どうして私たちがスーパーマンになれましょうか。なる必要なんかありません。大事なことは、ヒヨコを思う心を捨てないことなのです。

▼罪の言葉、誘惑の言葉は、しかし、『石がパンになるように命じたら』よりも、その前提に存在すると思います。
 『神の子なら』これこそが、誘惑者の罠です。
 マタイ福音書27章39~40節。
 『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
 40:言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、
自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い』
 『神の子なら、自分を救ってみろ』
 誘惑の言葉と、イエスさまを信じようとしない民衆の声は、全く重なります。
 その続き、42節。
 『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。
今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』
 「石をパンに変えるのを見せたら、信じてやろう」こう言うのす。 

▼誘惑者も、民衆も、全く同じことを言います。
 そして、ややもすれば、私たちキリスト者も同じことを言ってしまうのです。同じことを、考えてしまうのです。
 「石をパンに変わるのを見たら」こう考えるのです。
 それは、イエスさまを十字架から、引きずり下ろす行為です。そして、常に申しますように、十字架こそが、「イスラエルの王キリスト」の玉座でありますから、それはまた、イエスさまが、キリストであることを否定する考えです。
 「石をパンに変えるのを見せたら、信じてやろう」これは、イエスさまが、キリストであることを否定する言葉なのです。
 
▼マタイ福音書4章4節。
 『イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。』
 イエスさまは、悪魔の誘惑を退けられました。
 悪魔の誘惑の言葉もまた一つの見解である。とか、また一つの真理であるとか、そんな風に曖昧にはなさらなかったのです。

▼マタイ福音書4章5~6節。
 『次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
6:言った「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために
天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』/と書いてある』
 何故こんなことをするのでしょうか。もう一行補えば分かり易いと思います。 … 本当にそうかどうか、試してご覧なさい。

▼だからこそ、イエスさまは、これを7節の言葉で退けられます。
 『あなたの神である主を試してはならない』
 誘惑者は、イエスさまに対して、イエスさま自身が誘惑者になることを勧めているのです。
 神を試みる者、神を誘惑する者、神を否定する者になることを勧めているのです。
 
▼3番目の誘惑は、9節、
 『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』です。
 ここでも、『拝むなら』「何々ならば」と言われています。
 悪魔にそのような権限があるのかとか、イエスさまは、初めから、この地上の権力の全てを持っておられるではないかとか、考えても仕方がないでしょう。
 肝心なことは、ここでも、『拝むなら』「何々ならば」「みんな与えよう」と述べられているけれども、実際には、もし、『拝むなら』、その瞬間に、イエスさまは、最早神の子・キリストではありません。
 十字架から下りてしまったのです。

▼最後に、このことをお話ししなければなりません。ここまでに記されていることは、全て教会そのものに当て嵌まるということです。
 教会もまた、悪魔から誘惑されて、荒野を行く時があります。試練に会います。そのこと自体は、罪でも、恥でもありません。もし、悪魔の誘惑を退けることが出来るならば、です。
 悪魔の誘惑の内容も同じでありましょう。
 もし、何々を拝むならば、こういう誘惑は耐えずありました。
 神を試みる思いを吹き込まれたこともありました。これも、耐えることなく続いています。
 そして最大の誘惑は、パンが石になることです。この誘惑と戦わなくてはなりません。善と悪とをはっきりさせなくてはなりません。善も良し、悪もまた良しでは、駄目なのです。
 私たちは、ただ、神の言葉に生きるのです。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』のです。

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