究極の律法とは

2017年2月12日降誕節第8主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

マタイによる福音書 5章17〜20節

▼先週水曜日の聖書研究祈祷会の聖書箇所はコリントの信徒への手紙一の15章50節以下でした。
 56節にこうあります。『死のとげは罪であり、罪の力は律法です』。
その際に、ローマの信徒への手紙5章12~13節を引用しました。
 『このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、
死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
  13:律法が与えられる前にも罪は世にあったが、
  律法がなければ、罪は罪と認められないわけです』。

▼パウロ書簡だけではありません。福音書のイエスさまのお言葉にも、多数、律法を批判、むしろ否定していると受け取られるものがあります。一々例を挙げたら切りがないくらいです。
 今日の箇所のように、律法を重んじなさいという箇所を挙げる方が遥かに困難です。
 律法の意味・価値を巡って、どうしてこんなにも評価が分かれるのでしょうか。

▼一番簡単な説明はTPO=時間、場所、目的の違いということでしょう。その時・タイミング、相手、話の流れでは、全く矛盾していると聞こえる場合があります。これは、どんなことにも当て嵌まります。矛盾しているようでも、嘘ではありませんし、どちらが大事で、どちらは些末なことという訳でもありません。これは、どなたも体験すること、知っていることであって、説明するまでもないでしょう。

▼ですから、他の箇所と響きが違うと言って、嫌ったり、警戒したりしないで、何しろイエスさまのお言葉には違いありませんから、一語一語、謙虚に聞くことから読み始めたいと思います。

▼17節。
 『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない』。
 『律法』を省略して、
 『わたしが来たのは預言者を廃止するためだ、と思ってはならない』と読んだら、何の抵抗もありません。イエスさまのお言葉には、しばしば預言者の言葉が引用されますし、預言の成就こそがイエスさまの生涯なのだと、私たちは教えられています。
 しかし、『わたしが来たのは律法を廃止するためだ、と思ってはならない』だと、どうでしょうか。先程触れましたように、おや?と思ってしまいます。
 
▼17節後半。
 『廃止するためではなく、完成するためである』。これはもう、預言者のことと言うよりも、律法のことです。預言者を廃止するということはありませんから、律法のことです。
 18節。
 『はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、
律法の文字から一点一画も消え去ることはない。』
 全く解釈の余地がない言い方で、つまり逃げ道のない言い方で、断言されています。『律法の文字から一点一画も消え去ることはない』、『廃止するためではなく、完成するためである』。

▼私たちは、漠然とでも、ユダヤ教の律法は時代錯誤的なもので、今日では全く通用しない、イエスさまの時代に既に色褪せたのだと、考えています。
 しかし、今日のマタイ5章では、そんなことは言われていません。全く逆、律法は廃れることはありません。つまり、今日でも、有効であり、今日の私たちキリスト者も、これを重んじ守らなければならないということになります。

▼19節。
 『だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと
人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる』。
 全く明瞭です。『これらの最も小さな掟を一つでも破ってはならない、まして律法無視・廃棄を人に勧めたら大変なことになると断言されています。
 逆に、
 『しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる』。
 これも明瞭です。今日の私たちキリスト者も、これを重んじ守らなければならないし、それを人に教え勧めることこそ、キリスト者の任務だということになります。

▼更に20節。
 『言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義に
まさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない』。
 これは大変なことになりました。
 私たちの感覚から言えば、『律法学者やファリサイ派』は、教条的な律法主義者で、極端も極端、実社会の生活には適応しないと、考えています。
 何度も紹介しましたように、今日のしかもニューヨークやロサンゼルスのような大都会、現代文明の中心地にも、オーソドックスと言いますか、極端な律法主義者が存在し、神学校もあります。彼らは例えば、律法の規定にあるように、頭髪や髭に剃刀を当てることをしません。その服装といい、一目で、オーソドックスのユダヤ人だと分かります。
 私たちの目から見たら、その姿形も、生活様式も、奇矯としか映りません。
 そんなことが私たちにも要求されるのでしょうか。

▼『あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ』。
 これが天国に入る条件だとすれば、正にオーソドックスのユダヤ人以外は全員失格、不合格です。

▼さて読み始める前よりも難解になったかも知れません。どこに手がかりを求めたら良いだろうと思い悩みました。そんな時には、前後を読むに限ります。今日の箇所は所謂「主の山上の説教」の一部です。そのことを考慮して読むべきですが、話が大きくなり過ぎるかも知りません。
 直後の箇所が大いに参考になります。
 21~26節の箇所です。
 大事ですから、全部読みます。
 『21:「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は
『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
 22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、
『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 23:だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、
兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
 24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、
  それから帰って来て、供え物を献げなさい。
 25:あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。
さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、
裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
 26:はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、
決してそこから出ることはできない。」』

▼簡単に引用の意図を申します。
 イエスさまは、律法を100%守りなさいと言っているのではありません。100点取りなさいと言っているのではありません。
 敢えて言えば、100%でも100点でも、尚、神の国に入るには足りないのです。
 『殺すな』という律法は守ることが出来ます。戦争時には、この律法を守ることが出来ずに苦悩したキリスト者がいましたが、幸い、今、私たちに「殺せ」と命じる悪は存在しません。この先は分かりませんが。

▼しかし、それだけでは不十分だとイエスさまは言います。
 『兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける』。
 『兄弟に腹を立てる』ことが既にして罪ならば、誰もこの罪を免れることは出来ません。
 誰も、100%、100点を取って、神の国に入ることは出来ないのです。

▼そんなことはありません。私は兄弟を愛しています。兄弟に腹を立てたことなどありません。と言うことが出来る人がもしいたら、その人は、何という幸福な人でしょう。でもいるでしょうか。
 私などは、幼い時から、自分の不幸の原因は、重大な障害を持っていた兄だと考え、兄を憎んでいました。そんな昔の自分を、今も赦すことが出来ません。兄は30年以上前に亡くなりましたから、詫びることも出来ません。
 逆に愛する弟がいました。しかし、弟が亡くなる前の半年ばかり、あることで弟に腹を立てており、電話で話すことも殆どありませんでした。ですから、10年前、弟が自死した時にも、その事情が分かりませんでした。
 後で事情を聞くと、それを知っていたなら、せめて弟の愚痴を聞いていたら、自死を防ぐことが出来たのではないかと悔やまれます。しかし、その機会はありません。

▼本当に仲の良い兄弟もありますでしょうから、今申しましたようなことは当て嵌まらないかも知れません。
 しかし、ここでイエスさまが仰る兄弟とは、同じ親を持つ血肉による兄弟のことではありません。むしろ、隣人、同胞のことです。隣人、同胞、会者の同僚、その『兄弟に腹を立てる』ことが一度もなかったという人は、いないだろうと思います。

▼『それでは、だれが救われるのだろうか』。
 マタイ19章16節です。
 最近の説教で毎回のように触れている『富める青年』の物語の中に、この言葉が出て来ます。
 一人の青年がイエスさまに、『遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか』と問います。
 イエスさまは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19:父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』と答えます。
 すると青年は、『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか』と言います。つまり、彼は100%、100点だったのです。
 『まだ何か欠けているでしょうか』、100%、100点の上にもっと加点が必要ですかと聞いたのです。
 イエスさまはなおも仰います。
 『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
  そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。
 青年には出来ませんでした。
 『青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。
  たくさんの財産を持っていたからである』。
 マタイもマルコも、このように記しています。
 
▼もう少しだけ続けます。
 『イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
 24:重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
25:弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。』

▼『隣人を自分のように愛しなさい』、これを100%守るならば、『悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである』これとは矛盾します。結局青年は100点ではありませんでした。それは施しを躊躇ったからではありません。『隣人を自分のように愛しなさい』、これを100%守ることが出来なかったからです。
 そして弟子たちがつぶやいたように、「それでは、だれが救われるのだろうか」。
 これが人間の現実です。
 誰も、律法を全う出来ないのです。

▼私たちは兄弟を愛する根拠を挙げることが出来ますし、実際にその根拠に依って、兄弟を愛しています。
 しかし、兄弟を憎む根拠ならば、愛する根拠の10倍も数えることが出来ます。そして、兄弟を憎んでいます。これが人間の現実です。
 誰も、律法を全う出来ないのです。

▼未だ続きがあります。
『26:イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、
神は何でもできる」と言われた』。
 今日はあくまでも、マタイ5章の説教ですから、19章については、簡単に結論だけ言います。『人間にできることではないが、神は何でもできる』とは、十字架の死のことです。
 私たち人間だって、愛する者のためなら、全財産だって費やしますし、命を賭することもします。しかし、愛することの出来ない者のために、そんなことはしません。『人間にできることではないが、神は何でもできる』とは、十字架の死のことです。その値打ちのない者のために、イエスさまの十字架の死という犠牲、愛の犠牲が支払われたのです。

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