イエスを誘惑する

2017年3月5日受難節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
言った。
 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
  『神があなたのために天使たちに命じると、
  あなたの足が石に打ち当たることのないように、
  天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
  『あなたの神である主を拝み、
  ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

マタイによる福音書 4章1〜11節

▼この箇所は、過去4回も読んでいます。新しい観点から読み直したいと思います。
 新しい観点とは、誰の立場になって読むのか、ということです。登場人物は二人だけですが、普通は、ここに登場しない一人ひとりの人間の立場になって読むのではないかと考えます。
 

▼先ず、3~4節の問答。
 『「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 4:イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある』。
 私たち現代の日本人ならば、ここで躓くことはないかも知れません。しかし、アフリカや中南米や、多くの国の人々は、『石がパンになる』なら、全ての苦難は終わるのにと思うのではないでしょうか。
 それどころか、現代の日本でも、3度3度ご飯が食べられない子どもたちが少なくないと言われています。

▼この問題に聖書的に答えるならば、出エジプト記に聞くのが良いでしょう。モーセに率いられてエジブトを脱出したユダヤの民は、餓えの危機が迫った時に、モーセと神さまにつぶやきを言いました。
 マナという不思議な食べ物が点から与えられて、饑餓は去りました。すると人々は、エジブトにいる時は、肉が食べられたのにと、不満を言います。うずらが与えられました。次は葡萄酒を求めるのでしょうか。
 決して満足することはない人々に、十戒という形で、神さまの言葉が与えられます。しかし、人々はこれにも満足することはありませんでした。

▼マタイ福音書4章からイエスさまの伝道が始まります。そして5章から、主の山上の説教が語られます。正に、イエスさまの言葉が人々に与えられました。
 『石がパンになる』奇跡を求め続けているならば、絶対に満足はありません。
 主の山上の説教の一部を引用します。7章7節以下です。
 『「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 8:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
 9:あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
 10:魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
 11:このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には
良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、
求める者に良い物をくださるにちがいない』。
 マタイ4章と7章と、二つの箇所を重ねて読めば、イエスさまの仰っていることが分かります。私たちに、パンよりも先ず、御言葉を求めなさいと、言っておられるのです。

▼この箇所を、サタンの観点から、自分をサタンの立場に置いて考えたらどうなるでしょうか。
 『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』。
 厳密には、ここではサタンとは記されていません。誘惑する者です。
 つまり、人間は、『石がパンになるように』と願い祈っているのではなく、『石がパンになるように命じたらどうだ』と、イエスさまを誘惑しているのです。
 『石がパンになるように』と真剣に祈り、願うならば、聞き入れて貰えるかも知れません。しかし、そうではなくて、『石がパンになるように命じたらどうだ』と、誘惑しているのです。
 
▼餓えた子どもたちのことを、真剣に思いやるならば、『石がパンになるように命じたらどうだ』とは言わないでしょう。
 むしろ、このパンを子どもたちに与えて下さいと、持ってくるでしょう。献金するでしょう。決してそれをしない人が、『石がパンになるように命じたらどうだ』と言うのです。
 ヨハネ福音書12章3~6節。
 『そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、
  イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
 4:弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
 5:「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
 6:彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。
   彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである』。
 お金があっても、決して『貧しい人々のことを心にかけてい』ないユダが、だからこそ、『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか』と、結構なことを言うのです。

▼5000人のパンのことを、4000人のパンのことを、連想させられます。
 14章14節。
 『イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ』。
 15章32節。
 『イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。
もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない』。
 5000人のパン、4000人のパンの奇跡はここから始まりました。イエスさまは、人々の食べ物の心配をされています。人々の貧しさに同情されています。

▼14章16節。
 『イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」』。
 何が与えられたか、パン5個と魚2匹です。しかし、『すべての人が食べて満腹した』。
 神さまのご用に当たって、人々に配り与えるならば、『すべての人が食べて満腹』するのです。
 弟子たちが配ったものは、パンであり、それ以上にイエスさまのお言葉、イエスさまの愛なのです。
 『石がパンになるように命じたらどうだ』と言う人は、このご用に当たることは出来ません。
 もしこの人がパンを配ったとしても、それは人々のお腹の中で石に変わってしまうかも知れません。彼らが配っているものは、石だからです。

▼4章6節。
 『「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
  『神があなたのために天使たちに命じると、
  あなたの足が石に打ち当たることのないように、
  天使たちは手であなたを支える』と書いてある」』。
 これも、私たちが普段に問うていることでしょう。 
 人間にはいろんな心配ごとがあります。備えもしますが、守りきれるものではありません。
 不幸な出来事に遭った時に、備えがなかったことを悔やむか、それとも、守ってくれなかった神さまを呪うか。

▼このことについても、主の山上の説教が答えてくれます。
 6章34節。
 『だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
  その日の苦労は、その日だけで十分である』。
 思い悩んでも、解決しないこと、解決出来ない事があります。それを、神さまに委ねることが出来るのかが、問われています。
  6章33節。
 『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』。
 これが前提です。『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい』、そうすれば、『明日のことまで思い悩む』必要はなくなります。

▼しかし、誘惑する者は、『神の子なら、飛び降りたらどうだ』と言います。
 逆転しています。『思い悩む』ことから『飛び降り』、神の手に委ねることが出来ずに、『神の子なら、飛び降りたらどうだ』と言っている、それが『誘惑する者』であり、それは人間そのものなのです。

▼8~9節。
 『更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、
  世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った』
 これこそが、逆転しています。
 聖書の神さまは、創造主なる神さまです。この世界の全てを作られた方です。その方に向かって、『これをみんな与えよう」と言った』。まるで逆転しています。
 
▼何かを神さまに与える、それが先ず間違いです。
 しばしばお賽銭のことがお笑いのネタにされます。
 100円玉一つで、家内安全、良縁、それどころか世界平和まで願う。滑稽でしかありません。では、どれだけ捧げたら、神さまを使うことが出来るのか。神さまに命令出来るのか。
 笑ってはいられません。これが人間の発想だからです。普通の人間の発想だからです。
 もしかしたら、私たちも同じことをしているのです。
 献金の時に、戴いた物の一部をお返ししますと祈る人がいます。その通りでしょう。お返ししているのです。献金で神さまを雇うことは出来ません。

▼しかし、大いなる誘惑ではあります。
 『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』。
 これが現実になったら、イエスさまが地上の王となったなら。
 もしかすると、この誘惑者の誘いに乗った人がいたのかも知れません。
 しかし、そのような人が王になったら。恐ろしいことです。

▼10節。
 『すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
  あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ と書いてある」』。
 イエスさまが、権力を与えてくれるサタンを拝んだならば、その瞬間、イエスさまは神の子ではありません。
 つまり、『ひれ伏してわたしを拝むなら』とは、神の子であることを否定しなさいと言うことです。
 
▼『退け、サタン』この言葉を、どこかで聞かなかったでしょうか。
 マタイ福音書16章23節です。
 『イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。
あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」』。
 これがどのような文脈で言われたのかが大事です。
 ペトロが、イエスさまの問いかけに、『「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え』ました。するとイエスさまは言います。
 『あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
  陰府の力もこれに対抗できない。
 19:わたしはあなたに天の国の鍵を授ける』。
 詳しくお話ししている暇はありませんが、結論だけ言うならば、弟子たちを代表したペトロの信仰告白の上に教会が立てられるという約束がなされました。
 その信仰告白する教会に対して、
 『御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、
  律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、
三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた』。神の国の秘密が告げられたのです。
 これに対して、ペトロは、
 『イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
  「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』。
 ペトロにはイエスさまへの強い思いがありました。しかし、それ故に、結局、十字架を否定し、復活を否定したのです。 
 『イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。
あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」』。

▼イエスさまを愛していると言いながら、十字架を否定し、復活を否定し、要は神の子であることを否定してしまう、教会も、そのようになってしまうかも知れません。
 それが、誘惑者の罠なのです。

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