イエスさまの昇天と臨在

2017年5月28日復活節第7主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

ルカによる福音書 24章44〜53節

▼取り敢えず順に読みます。44節。
 『イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。
  これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」』。 私たちには分かり難い表現ですが、なるべく簡単に置き換えれば、『モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある』通りに、イエスはメシア・キリストであり、そのことは既に、十字架の死の前に『あなたがた』つまり弟子たちに知らせていた、となります。
 この時にこそ、イエスさまは、ご自分がキリストであることを、全く明確に宣言されたということです。

▼『まだあなたがたと一緒にいたころ』という言葉は、なかなか難しい表現です。今この時、弟子たちを前にして、『まだあなたがたと一緒にいたころ』と言っています。そうしますと、イエスさまは、今ここにはおられないのでしょうか。おられないのに、弟子たちに語っているのでしょうか。
 このことは、後で重要になって来ます。今は、これだけで止めておきます。  
▼45節。
 『そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて』。
 『聖書を悟』るためには、『心の目を開いて』貰わなくてはなりません。『心の目を』閉じていては、『聖書を悟』ることは出来ないのです。
 逆に言えば、『聖書を悟』るために必要なことは、予備的な知識、つまり、ユダヤ教の教えとか、歴史とか、或いは哲学的素養とか、そういったものが必要なのではありません。
 それでは『心の目を開』九為には、『心の目を開いて』貰うためにはどうしたら良いのでしょうか。
 『イエスは、聖書を悟らせるために』とありますから、『心の目を開いて』下さるのはイエスさまです。私たちが努力して『心の目を開』くのではありません。
 このことも、後で重要になって来ます。今は、これだけで止めておきます。
 
▼46節。
 『「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』。
 これは44節の『まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと』の内容です。イエスさまは3年以上にわたって、弟子たちにいろいろと諭されましたし、教えられました。しかし、最重要なことは、『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』ということ、そして、復活のイエスこそがメシア・キリストだということです。
 これは勿論、私たちにとっても最重要なことです。私たちも、聖書を通じて、いろいろと諭されますし、教えられますが、最重要なことは『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』ということ、そして、復活のイエスこそがメシア・キリストだということです。このことが疎かにされるならば、聖書からどんなことを学んだとしても、ほぼ無意味なのです。

▼47節。
 『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、
  その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。
 これは46節に付け加えられたことではなくて、46節と切り離すことの出来ないものです。復活のイエスこそがメシア・キリストだということは、『あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』べきことであり、イエスこそがメシア・キリストだということを受け入れることが、即ち『罪の赦しを得させる悔い改め』なのです。
 教会は、復活のイエスの『その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝え』るのです。それが教会の存在理由です。他にはありません。

▼47節後半から48節。
 『エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』。
 『あなたがた』とは、勿論、今、復活のイエスさまの言葉を聞いている弟子たちのことですが、同時に今日の私たちのことでもあります。
 私たちは、『エルサレムから始』った宣教をそのままに引き継ぐ者であり、十字架の出来事と復活の出来事との『証人となる』べく召され、キリスト者、教会員となったのです。他の目的のためではありません。

▼49節前半。
 『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る』。
 これはズバリ、ペンテコステ=聖霊降臨の出来事を指しています。ルカ福音書が今日の箇所で終わり、付きに続くのは同じ著者による使徒言行録であり、その2章にペンテコステ=聖霊降臨の出来事が描かれています。
 今日の箇所、つまりイエスさまの最後の教えと昇天は、ペンテコステ=聖霊降臨の出来事に直結するのです。

▼49節後半。
 『高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい』。
 ペンテコステの出来事が起こるまでは、エルサレムに留まっていなさいと言われています。一番単純に解釈すれば、ペンテコステの出来事はエルサレムで起こるから、そこにいて、目撃体験し、証言者となりなさいということでしょう。それと共に、『エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』。『エルサレムから始』まることが強調されています。エルサレムが十字架と復活の舞台だからです。
 教会は、十字架と復活に始まるのです。
 私たちも、常に、ここから始めなくてはなりません。あらゆる学び、活動、発想そのものが、十字架と復活に始まるのです。

▼50節。
 『イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、
手を上げて祝福された』。
 何故ベタニアなのでしょうか。決定的には、マルタ、マリア、ラザロの兄弟姉妹が暮らしていた町、ラザロの復活の奇跡が起こった町ということだろうと思います。
 ラザロの復活の奇跡は、終わりが始まりになった奇跡です。絶望が歓喜に変えられた出来事です。
 イエスさまの十字架と復活もそうです。
 そして、ここに描かれる昇天と臨在も同じなのです。

▼先を急がず順に読みます。
 51節。
 『そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた』。
 『祝福しながら彼らを離れ』、その様子を思い描いてますと、不思議な景色になります。名画にあるような構図です。
 祝福しつつ、彼らを離れ、つまり離れても祝福は残ります。
 私たちの教会には、イエスさまの祝福が与えられているのです。

▼52節。
 『彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り』。
 天に上げられていくイエスさまを、仰ぎ拝みではありません。『伏し拝んだ』とあります。不思議です。
 天にあるものを見上げる時、不思議な力を仰ぎ見る時に、人の心は、伏し拝むのではないでしょうか。祈りの形式のことではありません。姿のことではなく、気持ち・心のことです。

▼52節。
 『大喜びでエルサレムに帰り』。
 『大喜び』の根拠は、復活のイエスさまに出会ったからですが、同時に、『彼らを離れ、天に上げられた』のを見たからであり、祝福を受けたからであり、更には、『伏し拝んだ』からです。
 これ全て、教会の礼拝と同じことです。私たちは礼拝でこそ、復活のイエスさまに出会い、『天に上げられた』イエスさまを『伏し拝』み、イエスさまが離れて行かれたこと、つまり天に帰られたことをも、『大喜び』するのです。

▼53節。
 『絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた』。
 復活のイエスさまに出会い、『天に上げられた』イエスさまを『伏し拝』んだ者は、『絶えず神殿の境内にいて』、絶えず教会の中にいて、『神をほめたたえ』るのです。
 私たちの教会には、イエス様の祝福によって、喜びが、そして讃美が与えられているのであります。 
 『神をほめたたえ』る者こそが、復活のイエスさまに出会い、『天に上げられた』イエスさまを『伏し拝』む者だと言い換えることも出来ますでしょう。
 
▼さて、肝心なことを振り返ります。
 イエスさまは、この二人の弟子に、45節、『聖書を悟らせるために彼らの心を開いて』とあります。聖書を神の言葉として受け止め正しく理解するには、心が神さまへと開かれていなければならなりません。一番簡単な言い方をすれば、信仰をもって聖書に聞くのでなければ、本当には理解出来ないのです。
 46~47も繰り返します。ここは、聖霊と結びつけられて語られています。48節。『あなたがたは、これらの事の証人である』。ここまでが復活のイエスさまの顕現なのです。
全部をまとめれば、私たちは礼拝の中で、信仰をもって聖書に聞く時に、その罪を赦され、復活のイエスさまに出会い、聖霊を与えられ、そして復活の出来事の証し人として、遣わされていくのです。ここまでが、1セットなのです。

▼最後にこのことをお話ししなければなりません。
 私たちの信仰にとって、大きな問題があります。それは、イエスさまは、今、この世界におられるのか、教会におられるのか、それとも天に帰ったために、地上を留守にしているのか。
 今日の出来事には、この問に答えているように思います。
 繰り返しますが、私たちは礼拝でこそ、復活のイエスさまに出会い、『天に上げられた』イエスさまを『伏し拝』み、イエスさまが離れて行かれたこと、つまり天に帰られたことをも、『大喜び』するのです。

▼マタイ福音書の末尾、28章、19~20節。
 『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
  わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』。
 マタイ福音書でも、天に昇られたイエスさまが、同時に『いつもあなたがたと共にいる』と言われたのです。

▼マルコ福音書はこのように記しています。16章19~20節。
 『主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
 20:一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。
  主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、
  それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった』。
 『天に上げられ、神の右の座に着かれた』イエスさまが、同時に『主は彼らと共に働き』とあります。『彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった』ともあります。
 御言葉を語り伝え、主のご用のために働く者と、『天に上げられ、神の右の座に着かれた』方が一緒に居て下さるのです。

▼私たちはやがて来たる主を待ち望んでいます。しかし、御言葉を語り伝え、主のご用のために働く時に、既に、この方と一緒に居るのです。

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