贖われ、罪を赦され
2017年6月11日聖霊降臨節第2主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
エフェソの信徒への手紙 1章3〜14節
▼教会学校では、第1日曜日の礼拝の後で、その月に誕生日を迎える方のお祝いをします。お祝いと言っても、ケーキや御馳走を食べるのではありません。お祈りがあり、担任の先生からカードが渡され、そして、讃美歌が歌われます。
こどもさんびか116番が必ず歌われます。
毎月1回歌いますから、最も数繰り返し歌う讃美歌です。子どもたちは、全員暗記しています。
生まれる前から 神さまに
守られて来た 友だちの
たんじょう日です おめでとう
▼毎月歌いますから、みんなにとって当たり前で、特別、不思議にも思わないでしょう。
しかし、今日初めて、この歌を聴いた人があったら、納得がいかないかも知れません。
だって、「生まれる前から」です。「生まれる前」では、どんな声をしているか、どんな顔をしているか、どんな性格か、何一つ分かりません。
怒りんぼかも知れません。泣き虫かも知れません。もっと嫌な奴かも知れません。
それなのに、「生まれる前から 神さまに 守られて来た」と歌っているのです。
▼今日の聖書箇所、エフェソの信徒への手紙1章4節。
『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、
汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました』。
ここに書いてあることは、こどもさんびか116番と同じです。勿論、この聖書の言葉をもとにして、さんびかが誕生したのでしょう。
「生まれる前から」です。『天地創造の前に』です。
▼理屈に合わないでしょうか。そんなことはありません。およそ、母親はみんな、こうして子どもを産むのです。
「生まれる前」では、どんな声をしているか、どんな顔をしているか、どんな性格か、何一つ分かりません。
怒りんぼかも知れません。泣き虫かも知れません。もっと嫌な奴かも知れません。
それなのに、お母さんは「生まれる前から」子どもを愛しているのです。
▼見方を変えれば、人に愛されて当然な、美しい声や顔や性格を持っているから愛されるのではありません。
愛する者の声や顔や性格は、全て美しく映るのです。美しいから愛するのではありません。愛するから美しく見えるのです。
▼さて、こどもさんびか116番の2節はこのように歌います。
生まれて今日まで みんなから
愛されてきた 友だちの
たんじょう日です おめでとう
▼「違う、ぼくは違う」と考えてしまう人がいるかも知れません。
『みんなから 愛されてきた』なんてことはない。愛されて来なかったと考える人がいるかも知れません。悲しいことですが、その人にとっては、事実かも知れません。
もしそんな人がいたとしたら、その人にこそ、「生まれる前から 神さまに 守られて来た」という歌を知って貰いたいし、
『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、
汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました』。
という聖書を知って貰いたいと思います。
『みんなから 愛されてきた』なんてことはない。愛されて来なかったと考える人も、神さまから選ばれて生まれて来たのです。
▼さて、それでは私たちは何のために生まれて来たのでしょう。
今日の聖書箇所、エフェソの信徒への手紙1章5節。
『イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もって
お定めになったのです』。
『神の子にしようと』とはっきり記されています。誰もが父親がいて母親がいて、この世に生まれて来ました。しかし、生まれてきた目的意味は、『神の子にしようと』なのです。
そして、ここでも『御心のままに前もってお定めになったのです』とあります。
▼ここで二つのことをお話ししたいと考えます。最初はあまり聖書に関係ないかも知れません。
一人の人間には二人の親がいます。その前はおじいさんおばあさんで4人になります。その4人のおじいさんおばあさんにも二人の親がいます。こうして計算すると、2.4.8.16.32.64.128.256.512.1024.2048.4096.8192. … ここで私は計算機を使い始めました。
直ぐに万人になり、10万人を超え、100万人だって、たちまちです。
そして、その中のたった一人がいなかったら、その人は生まれて来なかったのです。
つまり、一人の自分が存在する、命を与えられて生まれて来たということは、正に奇跡的なことなのです。
しかも、その都度、お父さんとお母さんには出会いがありました。もし出合わなければ、その人は生まれて来なかったのです。
もし何代か前のご先祖様が、本来右に曲がる筈だったのが、急な雨かそれとも何かの事故が起こって、左に曲がっただけで、その人は生まれて来なかったのです。 … こういうことを天文学的数字、確率というでしょうか。
▼さて、こういう考え方、説明だと、全ては偶然ということになるかも知れません。偶然に偶然が積み重なって、今がある、宇宙も一個一個の人間の存在も、偶然の積み重ねに過ぎないと。
聖書は、そんな風には考えません。
『イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もって
お定めになったのです』。
聖書は、偶然ではなく、神さまの御心だと言うのです。
▼11節を読みましょう。
『キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行わ
れる方の御計画によって前もって定められ、
約束されたものの相続者とされました』。
偶然ではなく、全ては神さまのご計画だと言うのです。
▼今日は大人と子どもの合同礼拝です。大人向けの話も省略は出来ません。
子どもたちには少し難しいかも知れませんが、しかし、子どもたちにとっても大事な話です。7節。
『わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、
罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです』。
『御子において、その血によって』とは、イエスさまが十字架に架けられたことです。イエスさまが十字架に架けられ殺されたこと、つまり、血を流されたのは、人間が『その血によって贖われ、罪を赦され』るためだということです。
▼十字架の死の意味、贖い、こういうことを話し始めたら、聖書全体を話すことにさえなります。
今回はぐっと絞って、イエスさまは、はっきりと計画を持ち、犠牲を払ってまで、血の犠牲を払ってまで、人間を救い出されようとなさったのだということに止めます。言い換えれば、全てはイエスさまの救いのご計画だということです。
▼人はたまたま生まれて来たのではありません。ひとり一人に人生の意味があります。そんな風にして下さったのもイエス・キリストなのであり、十字架の死なのです。
これを否定することは、十字架の出来事の意味、罪の贖いということを否定する者は、世界も人間も偶然の積み重ねでしかないという人であり、結局は、無意味だと言う人なのです。
▼それでは私たちは、何のために生まれてきたのか、その意味を、使徒パウロは、12節以下で述べています。
順に読みます。子供さんも一緒ですから、なるべく簡単にお話しします。
『それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、
神の栄光をたたえるためです』。
『神の栄光をたたえるため』、何だか難しいですか。賛美を歌ったり祈ったりするのでしょうか。そうかも知れません。しかし、一番は、神さまから与えられた世界を命を人生を、感謝し喜ぶということではないでしょうか。
『神の栄光をたたえるため』、とは神さまの道具として使われるということではありません。『神の栄光をたたえる』、たたえることの出来る人生こそ、平和で豊かな人生なのです。喜びに溢れた人生なのです。
▼13節。
『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす
福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです』。
命・生命力が与えられて人生が始まるように、『真理の言葉、救いをもたらす福音』が私たちの心の中にみなぎる時に、『神の栄光をたたえる』、素晴らしい喜びに満ちた人生が始まるのです。
これでは合同礼拝にふさわしくない難しい表現でしょうか。
一番簡単に言えば、神さまを信じて、守られている、愛されていると感じることが、聖霊の働きなのです。
もっと簡単に言えば、教会学校の礼拝で讃美歌を歌っているときお祈りしている時に、イエスさまは、それを見守っていて下さるということでしょうか。
▼『約束された聖霊で証印を押された』。
これも言葉はとても難しい気がしますが、礼拝信仰の喜びこそが、聖霊の印、一番確かな印だということでしょう。
▼14節。
『この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、
こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、
神の栄光をたたえることになるのです』。
これも大胆に約めて申しましょう。
私たちは、「生まれる前から 守られて来」ました。そもそもお母さんのお腹の中で、そして見守る家族に。
私たちは、「生まれて今日まで みんなから 愛されてき」ました。家族や親戚やご近所の人や、友だちから。
▼このことは、全部神さまと教会にも当て嵌まります。
私たちは、「生まれる前から 守られて来」ました。イエスさまに。
私たちは、「生まれて今日まで みんなから 愛されてき」ました。教会のみんなから。
それが難しくいえば、『御国を受け継ぐための保証であり』、そもそも私たちがそのようになっているのは、イエスさまの十字架の出来事によって『贖われて神のものとな』ったからです。