豪傑サムソンとキリスト

(2)その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。(3)主の御使いが彼女に現れて言った。「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。(4)今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。(5)あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」(6)女は夫のもとに来て言った。「神の人がわたしのところにおいでになりました。姿は神の御使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのかと尋ねることもできず、その方も名前を明かされませんでした。(7)ただその方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいるときから死ぬ日までナジル人として神にささげられているので、わたしにぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないようにとおっしゃいました。」(8)そこでマノアは、主に向かってこう祈った。「わたしの主よ。お願いいたします。お遣わしになった神の人をもう一度わたしたちのところに来させ、生まれて来る子をどうすればよいのか教えてください。」(9)神はマノアの声をお聞き入れになり、神の御使いが、再びその妻のところに現れた。彼女は畑に座っていて、夫マノアは一緒にいなかった。(10)妻は急いで夫に知らせようとして走り、「この間わたしのところにおいでになった方が、またお見えになっています」と言った。(11)マノアは立ち上がって妻について行き、その人のところに来て言った。「この女に話しかけたのはあなたですか。」その人は、「そうです」と答えた。(12)マノアが、「あなたのお言葉のとおりになるのでしたら、その子のためになすべき決まりとは何でしょうか」と尋ねると、(13)主の御使いはマノアに答えた。「わたしがこの女に言ったことをすべて守りなさい。(14)彼女はぶどう酒を作るぶどうの木からできるものは一切食べてはならず、ぶどう酒や強い飲み物も飲んではならない。また汚れた物を一切食べてはならない。わたしが彼女に戒めたことは、すべて守らなければならない。」

新共同訳 旧約聖書 士師記13章2~14節

▼天使が、マノアという男の妻の前に突然姿を現し、赤ちゃんの誕生を告知しました。
3節、『あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産 むであろう』
この子が、後の豪傑サムソンであります。サムソンとデリラの物語の主人公として良く知られています。
どこかで聞いたような話だと思われますでしょう。クリスマス物語、ザカリヤとエリザ ベトの夫婦に、後にバプテスマとなったヨセフの誕生が告知される場面に、細部まで 似通っています。
もちろん、マリアにイエス様の誕生が告げられる話も、そうであります。 サムソン誕生の物語は、言ってみれば、イエス様誕生の序章なのであります。 1000年以上も前の出来事ではありますが、イエス様誕生、すなわち、クリスマスがここに預言されているのであります。

▼ついでに言いますと、旧約聖書の物語の中には、同じくイエス様誕生の物語と重 なるものが数多くあります。少なくとも、重ねて読むことが出来る物語が少なくありませ ん。
例えば、モーセの誕生、そこには、受胎告知こそありませんが、ユダヤ人の指導者 となり、エジプトでの奴隷的生活から救い出す者と定められて、モーセは誕生します。 彼は赤ちゃんの時に、エジプト王即ちパロの虐殺を逃れるために、川の水に流さ
れそしてそこから救い出されます。 イエス様が、その福音宣教の初めに、ヨルダン川で洗礼を受けられたこと、また、誕
生間もなくエジプトに逃れ、ヘロデ大王の虐殺を免れたことと、微妙に重なるのであります。
単なる偶然の一致とは思われません。

▼さて、サムソン誕生には、条件が一つ付いていました。 4節。『今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気を
つけよ。』 私たちから見れば奇妙な条件、戒めでありますが、それについては後で説明しま
す。このやりとりが、12節以下でもう一度繰り返されています。 『マノアが、「あなたのお言葉のとおりになるのでしたら、その子のためになすべき
決まりとは何でしょうか」と尋ねると、』
13節と14節の、最初と最後を読みます。 『わたしがこの女に言ったことをすべて守りなさい。わたしが彼女に戒めたことは、すべて守らなければならない。』 13節は、4節の繰り返しであります。

▼待望の子どもが恵まれるための条件、もしくは、子どもを与えていただいた者に課 せられる戒め、それが、4節と13節に繰り返される、『ぶどう酒や強い飲み物を飲』む な、『汚れた物も一切食べ』るなであります。
マノアは『何をなすべきか』と問うています。それに答えが与えられました。 『ぶどう酒や強い飲み物を飲』むな、『汚れた物も一切食べ』るな この戒めは、決して難しい課題ではないようにも見えます。しかし、実は、大変です。『ぶどう酒や強い飲み物を飲』むな、『汚れた物も一切食べ』るな、二つとも、これ を果たすためには命がけというような性質のものではありません。しかし、これをずっと 続けていくことは、なかなかに困難なことであります。
何故困難なのか、難しくはないからこそ、困難なのであります。何も、この通り100 %守らなくても大丈夫なような気がするから、困難なのであります。ちょっとなら食べて も飲んでもかまわないという気持ちになりそうであります。常に、誘惑にさらされているのであります。

▼諄くなるかも知れませんが、わかりやすい例で説明致します。
十戒があります。 後半部の具体的な戒め、先ず、第6戒=出エジプト20章13節、『殺してはならな
い』、毎日毎日、殺人事件が起こっています。戦争が耐えることもありません。 しかし、大多数の人間にとっては、無縁のことであり、この戒めを守ることに困難を
覚える人はありません。 第7戒=出エジプト20章14節、『姦淫してはならない』。『殺してはならない』ほどには、無縁ではないかも知れません。しかし、普通のキリスト者にとっては、当たり前 のことであります。
以下、
第8戒『盗んではならない』、第9戒『隣人に関して偽証してはならない』、第10戒 『隣人の家を欲してはならない』、一番簡単に言えば、人の財産を羨むなということで あります。これはなかなか難しいかも知れません。
しかし、成る程と受け止め、自分を戒めることが出来ます。

▼本当に難しいのは、さかのぼって、第5戒『あなたの父母を敬え』であります。 当たり前のことであります。これを否定する宗教や文化があるとは、あまり聞きませ ん。しかし、これを本当に行うことは、簡単なことではありません。当たり前のことが出
来ないのであります。当たり前だから、出来ないのであります。 他人の悪口を言うことには慎重になります。そういう思いを抱くこと自体を、自分で
警戒します。しかし、相手が身内だからこそ、軽々しく批判し、罵る言葉を吐きます。

▼もっと遡って、
『安息日を心に留め、これを聖別せよ』
これはもう解説する必要もありません。

▼今日の教会も、教団も、一人ひとりも『何をなすべきか』と問うています。なかなか答 えを見つけ出せずに、意見が分かれています。
しかし、実は、答えは全く明確であります。ただ、その答えを、素直に受け入れないだけであります。
その答えとは、先ず、マルコ福音書12章を上げることが出来ますでしょう。 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。』 そして、『隣人を自分のように愛しなさい。』
『この二つにまさる掟はほかにない。』というのですから、実に明確に、答えは与え られているのであります。
ただ、今日の教会が、教団が、一人ひとりが、本当には納得せず、これを行おうとし ないだけであります。

▼マタイ福音書の末尾の言葉を上げることも出来るかも知れません。 『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』
これも、実に明確であります。真剣になってこれを行おうとしないだけであります。
主の言葉を行おうとせずに、伝道の是非を、洗礼や聖餐という聖礼典の是非を論じているのであります。

▼さて、『ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べない』という不可解な 戒めが、何故、与えられたのかという所に帰ります。
7節に出てまいりますナジル人という言葉が、問題であります。
ナジル人とは、特別な誓願によって「神にささげられ、聖別された人」の意味であり ます。その誓願の継続中は、酒を断ち、頭髪を刈らず、死体に触れなかったそうであ ります。サムソン、預言者サムエルのように、母親によって神にささげられ、生涯ナジ ル人とされた者もいます。新約では、洗礼者ヨハネがそのような生活を守り、また使徒 パウロも誓願を立ててそれを守ったことが伝えられています。

▼ちょっと付け加えますと、ぶどう酒は、イスラエルにとって敵性の食べ物であります。 葡萄を栽培し、葡萄酒を製造して広く地中海世界で交易をしたペリシテ人は、葡萄の畑を広げるべく、イスラエルに進出して来ました。
特に、この士師記を見ますと、イスラエルにとってペリシテ人が如何に脅威であったかが分かります。
憎い敵ペリシテを象徴するのが、葡萄酒なのであります。

▼このペリシテ人と戦い、イスラエルを守るのが、サムソンを初めとする士師であります。
つまり、今、サムソンが、イスラエル救国のために、神によって与えられたのであります。
この天使の名前は、18節に依りますと、『不思議』だそうであります。この物語全体が、神さまの不思議、奇跡なのであります。

▼サムソンには、不思議な力、つまり神さまの力が宿っておりました。そして、その力 と、髪の毛が結びついています。
サムソンがこの秘密を、妻としたペリシテの女に明かしたために、その力は喪失し、 ついに彼の死につながる悲劇が起こったのであります。この辺りは、オペラや映画で も知られている所であります。
髪の毛が、神の力を受けとめるアンテナのような役割を果たしていたかのようであります。
しかし、肝心なことはそんなことではありません。
サムソンが、母から伝えられた天使の戒めを破った時に、彼の力は奪われれたのであります。
事柄の本質は、髪の毛ではなくて、神の言葉にあります。預言者エリシャなどは、禿頭であります。列王記下2章23~25節には、彼の禿頭をからかった子どもたちが、熊に悔い殺されるという、不可解な話が出て来ます。

▼私たちの教会も教団もそして、一人ひとりも、全く同様であります。 私たちの教会に与えられている神の言葉、これが私たちの力の源であります。この言葉から離れてしまう時に、教会はその力を失うのであります。 神の言葉によって、私たちの教会に約束が与えられています。そして、約束と戒め=義務は、同じことであります。 『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』
これは、私たちがなすべき務めであります。戒めであります。そして、『すべての民 を弟子に』し、『洗礼を授け』『教え』るという教会の素晴らしい未来を約束しているのであります。
▼6節をご覧下さい。
『神の人がわたしのところにおいでになりました。姿は神の御使いのようで、 非常に恐ろしく、どこからおいでになったのかと尋ねることもできず、 その方も名前を明かされませんでした』
最初、神の御使いは、その名前を明かしません。18節で、『不思議』という名が示されますが、あくまでも『不思議』であります。
他の誰も知らないような神秘に与ることが、信仰の奥義ではありません。奇跡に与るでも、サムソンのような超能力を与えられることでもありません。
そういうことでは無く、御言葉に生きることが、教会の一人ひとりの信仰の命なのであります。

▼日々の歩み、日々戒めを守り歩むことが、教会の命の源なのであります。 もう一度、13節と14節の、最初と最後を読みます。『13.主の御使いはマノアに答 えた。「わたしがこの女に言ったことをすべて守りなさい。わたしが彼女に戒めたことは、すべて守らなければならない。」』

▼最初に申しましたように、サムソンの誕生物語とバプテスマのヨハネの誕生物語と、 大変に似通っています。
偶然ではありません。また、物真似でもありません。
両者の時代には1000年以上の開きがあります。逆に言えば、1000年以上の歴 史を貫いて、神の言葉、神の戒めが、存在したのであります。
これに教会の2000年が加えられます。3000年を超える歴史を貫いて、教会は、 そして私たち一人ひとりが、神の言葉によって、導かれ、日々を生きるのであります。 神の御旨によって命を授けられ、母親が愛と信仰とをもって慈しみ育て、そして、 神のご用を果たすべく任務が与えられ、それを果たすべく力が授けられました。サム ソンも、バプテスマのヨハネも、特別の人かも知れません。しかし、そのことは、教会にも当てはまるし、そこで信仰生活を送る者にも当てはまるのであります。

▼教会は私たち一人ひとりは、今、何をなすべきか、それは明白であります。神の戒 め、むしろ福音と言った方が良いかも知れません。これを守り伝え、正しい聖礼典を 執り行うのであります。
もっと簡単に言えば、日曜日毎の礼拝を守り続けるのであります。
この答えではあまりに当たり前すぎるかも知れません。しかし、この当たり前のこと を、3000年し続けるのは至難の業であります。それがなし続けられて来たことこそが、奇跡なのであります。神さまの御心なのであります。
私たち一人ひとりも、今、何をなすべきか、30年40年50年、それ以上、日曜日毎 の礼拝を守り続けるのであります。
どうか守り続けることが出来ますように、平凡、当たり前どころではありません。必死 の祈りがなければ果たせない至難の業なのであります。

2012年12月16日

主日礼拝説教

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