人間をとる漁師に

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

マタイによる福音書第4章18節〜25節

▼何度も読んでいる箇所であります。一番最近に読んだ時には、漁師たちは何故イエス様に従ったのかという点に焦点を当てて読みました。
一番関心が高いことだし、それが普通の読み方だと思います。
その結論部だけを言いますと、弟子たちの置かれていた状況や、心理状態とは関係ない、ただ、『私について来なさい』というイエス様の言葉に従ったのだということを、強調しました。
それは私たち一人ひとりも同じことであって、それぞれが置かれている状況も、気持ちもありますが、しかし、私たちが礼拝を守り、伝道のために働くのは、それがイエス様の御心だからであり、イエス様が私たちを招いておられるからであり、その他のことに根拠は無いし、有ってはならない、このことも強調しました。

▼あまり、自分の気持ちの方を大事に考えるのは危険であります。何故なら、自分の気持ちが決定的なことならば、気持ちが変われば、信仰から、教会から離れてしまうからであります。
何か、特別な体験をきっかけにして、信仰に目覚める場合があります。病気だとか、人間関係の破綻だとか、仕事上の悩みだとか、特別な体験によって信仰に導かれる人は少なくありません。そうして熱心に、信仰生活を始めます。大変素晴らしいことであります。
しかし、あまりに、その気持ちに拘りすぎる人は、また、何かしらのきっかけで、教会から離れてしまうことになります。
本当に大事なのは、自分の状況、気持ちではなくて、イエス様の招きの言葉を聞くかどうかであります。
一番簡単に言えば、何か特別のことがあった時、その逆のことがあった時、特別のことはない日常が続く時、その時々に、イエス様の声に聞くかどうかなのであります。

▼さて、今日は、前回とは別のことに焦点を当てて、読みたいと思います。それは、『人間をとる漁師』という表現であります。既に教会生活を送っている者にとっては、全く違和感のない表現であります。
しかし、耳慣れていない人には、強い違和感を与えるのではないでしょうか。『人間をとる漁師』とは、具体的にはどういうことなのか、改めて読みたいと思います。

▼今日の箇所に登場する4人の弟子、二組の兄弟は、何れも漁師でありました。だから、魚を獲る漁師ではなく、『人間をとる漁師』と、表現されました。それが、伝道者になる、分かり易く言えば、人々をイエス様の弟子とする働きに従事する者になるという意味であります。
信者獲得であります。この点が、違和感を与えると思います。まるで、キャッチセールスのセールスマンみたいな感じであります。
『人間をとる漁師』になる人は、未だ良いとしても、獲られる側は、まるで、獲物にされる、捕まえられるような響きであります。
『人間をとる漁師』になることは、魚を獲るよりも割の良い、儲かる仕事というような響きに聞こえてしまいます。

▼ところが、この表現を直訳しますと、『人間の漁師』でありまして、獲るという言葉は、特にはありません。『人間の漁師』にしようでは、どうも日本語としての完成度が低いからでしょうか。『人間をとる漁師』と補って翻訳しているのであります。
これが、要らぬ誤解を与えているかも知れません。

▼誤解を与えているかも知れませんが、しかし、『人間をとる漁師』は正しい翻訳だと考えます。獲るという言葉はありませんが、明らかに、そのような意味合いだからであります。勿論、魚を獲るよりも割の良い、儲かる仕事というような意味ではありません。
しかし、伝道し、新しい信者を獲得するということには真違いないと思います。それを否定することは出来ません。

▼18節後半。『湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。』『網を打』つは、直訳では、『投げ網を投げる』であります。網を投げるのは、投網と言いますが、厳密にはこの時代、投網はなかったそうであります。ですから、新共同訳聖書では、『湖で網を打っている』という翻訳になったのでありましょうか。むしろ、今日の投網に近いものが有ったと考える方が適切ではないかと思います。
何れにしましても、この網が投網かそうではないかということは、些末なことであります。

▼肝心なことは、『二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった』時に、『「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」』と言葉がかけられ、招かれたということではないでしょうか。
もっと約めて言えば、仕事の最中に、日常生活の真っ直中で、『「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」』と言葉がかけられ、招かれたということではないでしょうか。
このことは、ヤコブとヨハネにも当て嵌まります。『ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった』『網の手入れをしている』のも、矢張り、仕事の最中であります。日常生活の真っ直中の出来事であります。

▼漁師という職業そのものはどうでしょうか。漁師とは、当時の最下層の職業の一つであると言われています。そのことに大きな意味がありますでしょうか。
決してエリートではない者から弟子が選ばれたことには意義があります。それは間違いありません。しかし、イエス様がそれを意図して選んだのかどうかは、分かりません。少なくとも断言は出来ません。
一方で魚は、ギリシャ語でイクスースであり、ノアの洪水を生き延びた生物であります。
そこに大きな意味を見出すというのなら否定は出来ません。
しかし、イエス様がそれを意図しておられたかどうかは、分かりません。少なくとも断言は出来ません。

▼元に返って、20節。
『二人はすぐに網を捨てて従った』。既に申しましたように、二人にどんな事情があったのかとか、どのような心理状態だったのかというようなことには、一切触れられていません。ただ、仕事の最中、日常生活の真っ直中で与えられたイエス様の言葉に、躊躇なく従ったのであります。『網を捨てて従った』のであります。これは、仕事を捨てた、平凡な日常生活を捨てたと獲るべきかどうかは分かりません。この後にも、二人が漁をする場面が出て来ますから、あまり誇張してはならないかと思います。しかし、直ちに『網を捨てて従った』のも事実であります。

▼22節。
『この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った』ここも同様であります。『舟と父親とを残して』という表現を、捨ててという意味に取る必要はないかと思います。しかし、直ぐに、迷うことなく従ったということは強調されていると考えます。

▼これは前回の説教でお話ししたことと重なります。猟師は網を用いて、魚を掬い取ります。ここでは、人間の救い取りであります。ここで救いとは、勿論、助けるという意味の救いであります。日本語でもギリシャ語でも、助ける救いも魚を掬い捕る掬いも同じ音であります。

▼今日の箇所に出て来る四人は皆猟師でありました。だから、魚を捕る猟師ではなく、『人間をとる漁師にしよう』という表現になったのであって、それ以下でもそれ以上でもありません。
どうしてもいろんなことを考えてしまう言葉でありますし、それはそれで意味があるとは思いますが、あまり考えすぎるのもどうかと思います。

▼この辺りで、私たちの信仰生活、教会生活と重ねて見なくてはならないように思います。
私たちは何処で、何時、イエス様の招きの言葉を聞くのでしょうか。
そして、何時それに応えるのでしょうか。
特別な場合もありますでしょう。病床とか、山の頂とか。しかし、殆どの場合は、日常生活の場で、或いは仕事の最中に聞くのであります。そして、そこで、お招きに応えるのでなければ、応えることは出来ません。
機会を改めてとか、都合がついたらというようなことでは、何時まで経っても実現はしないでありましょう。

▼洗礼を受けるとか、神学校に入るとかという特別なこともあります。しかし、毎週の礼拝に招かれることもそうであります。
自分の気分だとか都合だかと言い出したら、毎週お休みになってしまうでありましょう。
逆に言えば、自分が何らか決断して、或いは努力して、そうして特別な場所に赴いて、さあ、イエス様お語り下さいということではありません。
日常生活の場に、或いは仕事の最中に、イエス様が語りかけて来るのであります。

▼もう一度19節、前半を読みます。
『わたしについて来なさい』
これはどういう意味でしょうか。一緒に散歩しようという意味である筈がありません。勿論、究極は弟子になるということであります。しかし、今、この時点で言えることは、後ろに従うということであります。後ろに着いて来いが直訳であります。
『そうしたら人間をとる漁師にしよう』であります。
イエス様の後ろに従うこと、後ろに着いて行くことが、『人間をとる漁師にしよう』という言葉に結び着くのであります。
この頃イエス様と共に歩くということが言われます。まあ、その通りかも知れません。インマヌエルの神であります。しかし、厳密に言えば、昔ながらに、キリストに倣いて、後に従うのであります。
イエス様と私たちと同じ方角に歩いていると、結局はなるかも知れませんが、たまたま同じ目的地に歩いているということではありません。
私たちは、イエス様の後に着いていくのであります。イエス様の目的地が、私たちの目的地なのであります。

▼遠藤周作の『お馬鹿さん』などの作品では、人間の後をのこのこと着いて来るのが、キリストであります。
追い払っても追い払っても、とぼとぼと、後を追いかけてくる犬の姿に重ねて描いている箇所さえあります。
他の作家にはない発想で、文学としてはおもしろいのではありますが、しかし、聖書に描かれているキリストではありません。
私たちが、イエス様の後に着いていくのであります。イエス様の目的地が、私たちの目的地なのであります。
むしろ、私たちが、追い払われても追い払われても、着いて行くのが、本当ではないでしょうか。追い払われることはないかも知れませんが。

2013年1月20日

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