魔術・迷信を超えて

2013年7月7日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。(使徒言行録19章13~20節)

▼13節。
『各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち』旧約聖書の預言書を読んでも、歴史書を読んでも、『祈祷師たち』、或いは星占い、霊媒、厄払いをする者たちが何度も登場します。
旧約聖書では禁止されていることであり、これを行う者は死罪だと記されているのに、根絶やしになることはありません。祈祷師、星占い、霊媒、厄払い、こういうことを行う人は、現在でも世界中にいます。
どんなに科学が進み、様々な病気の治療法が発見されても、魔術が廃れることはありません。
→ツブァイク、精神による治療の扉
『ユダヤ人の祈祷師たち』は、ローマ世界の『各地を巡り』歩いていたようであります。
パウロの宣教団が、キリストの福音を宣べ伝え、目覚ましい成果を上げていたその一方で、ローマの人々から見れば同じユダヤ人が、魔術師のような業を行ってお金儲けをしている、パウロにとっては、何とも面倒な存在だったともいます。

▼この時代にあって、魔術を退けることを、これ程、明確に禁止している宗教は、ユダヤ教の他にはありません。同じ時代のギリシャ・ローマでは、星占い、霊媒、厄払い、魔術が大変に盛んであります。そもそも、ギリシャの神殿は、巫女の託宣を聞くことが、その宗教の最大の要素であります。
→ラーゲルクヴィスト、巫女

▼ヨシア王の宗教改革、申命記による改革が、魔術の排除を大きな動機としていたということは、言い換えれば、魔術の排除は、ユダヤ教の律法、そもそもユダヤ教そのものの形成と深く関わっているということであります。ユダヤ教にとって、魔術の排除は、それ程に大事にしなければならない事柄であり、厳密にしなければならない事柄だと言うことであります。
一番簡単な言い方をすれば、魔術と戦いこれを退けることは、ユダヤ教の形成そのものと結び付くことだったのであります。
そして、パウロの時代のキリスト教にも同じことが言えるのであります。
▼逆に言えば魔術というものは、それ程までに、人間の心の中に入り込んでいて、正しい信仰を食い荒らす、寄生虫のような存在であります。
キリスト教の歴史を通じても、絶えず、姿を変えて新しい魔術が現れ、退けられても、またどこかで息を吹き返すのであります。
それは、私たちの教会の中にだって、入り込み、寄生しているかも知れないのであります。

▼パウロの宣教団も同様であります。今日の箇所も、魔術を退けることが、主題であって、パウロが持っていた聖霊の力、信仰を持たない人々からみれば、魔術的力を誇示する目的で記されているのではありません。使徒言行録中には、奇跡的な力による癒しや、復活までもが記されています。
今日の箇所の直前、11節にも、『神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた』
と記されています。12節には、その具体的な内容まで述べられています。
こういうことを論拠にして、初代教会の霊的な力を取り戻さなければならないと主張する教派・牧師は必ずしも少数ではありません。
例えば、病の者の上に手を置いて、その病を癒すことの出来ない者は、牧師と呼ばれる資格がないと言う人さえいます。これも、決して少数派ではありません。アメリカ南部では多数派でありましょう。日本でも、そのようなものの考え方をする教会が急速に力を伸ばしています。
病を癒す力が無ければ牧師ではないとすれば、私は残念ながら、牧師ではないことになります。病気を治した実績は有りません。

▼普通の牧師にとっても、この問題は一種コンプレックスとして存在します。つまり、何故、自分には自分の教会には、このような霊力がないのか、あったら良いのにというコンプレックスであります。
『イエス・キリストの名によって命じる、出て行け。』そうしたら、病魔が去る、そんなことを切実に願うことがあります。それが出来ない自分に、無力を感じます。
しかし、使徒言行録は、そのような意図で、この物語を記しているのではありません。信仰者が真剣に祈れば、悪魔も退散する、そのようなことが言いたいのではありません。あくまでも、原始的・迷信的信仰を警戒し、退ける目的で述べられているのであります。

▼それでは何故、真っ向から、霊力の存在を否定しないのか。信仰と魔術とは関係ないと言い切らないのか。理由は二つであります。一つには、キリスト教は、どんな面でも、原始的・迷信的信仰に負けていないと言うことを主張したいがためでありましょう。教会には魔術的な力が無いのではなく、それが忌まわしいものだから退けるのだと、言いたいのであります。

▼今一つの理由は、使徒言行録は、霊的な力の存在を否定していない、それどころか、大いに重んずるからであります。これは、ここ数ヶ月の間にも2章、4章から読んだ通りであります。
唯、パウロやルカは、この力を、宣教へと誘う力、教会を導き建てる力として描くのであって、個々人の健康願望や、まして、金銭欲のために用いるようなことは、全く退けているのであります。
19章を通じて、異教的世界の魔術の力を、その存在を否定するのではなくて、究極に於いて邪悪な力として描いているのであります。その価値観の空しさを、描いているのであります。

▼別な言い方をしますと、パウロの時代、或はパウロ自身の科学的知識では、『異常な力あるわざ』または魔術と考えられていたものを、全く退けることは出来なかったのであります。ですから、その背景には何かしら神秘的な存在がある、悪魔的な力があると、パウロも考えていたのでありましょう。ただ、パウロは、その力を礼賛するのではなくて、それは悪魔的な力だとして退けているのであります。この点は、厳密にしなければならないところであります。

▼民間療法、またキリスト教の中に入り込んでいる奇跡にすがる信仰、これは詰まる所、悪魔的な力にすがる信仰なのであります。警戒しなければならないこと、厳密に退けられなければならないことなのであります。

▼既に申しましたように、旧約聖書では、魔術、占い、口寄せという行為が邪悪なものとして禁止されています。違反に対する刑罰は、このように記されています。
一例、申命記18章10~11節には、このようにあります。
『あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。』
占いと言う行為は、『自分の息子、娘に火の中を通らせる』つまり、『自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる』ことに匹敵する、背徳行為、野蛮な行為なのであります。
また、レビ記20章27節。
『占いをする者は、必ず殺されなければならない。』
占いに対する刑罰は、死刑なのであります。

▼要は、魔術的なことに関心のある人も、無い人も、霊的なことに関心のある人も、無い人も、この問題もっと慎重に、そしてもっと重要なものとして考えておかなくてはならないと言うことであります。
間違っても、両者を混同してはならないのであります。混同してはならないと言うことは、霊的なことに関心のある人にも、無い人にも、申し上げなければならないことであります。
霊的なことに関心のある人は、おうおう、魔術的なこと、占いのような迷信的なことにも寛容になる傾向が見られます。しかし、それらは、信仰とは何の関係も無いことなのであります。関係ないばかりか、聖書で禁じられている行為なのであります。違反者は、殺されなければならないと、はっきり記されているのであります。

▼一方、霊的なことに関心の無い人は、聖書に描かれる聖霊の働きについても、無関心であったり、懐疑的であったりします。そうして、冷静に客観的に聖書を読んでいるつもりでいます。しかし、それは、聖書の読みが足りないだけであります。
本当に聖書を読んでいれば、聖霊の働きというものを考えないで、宣教も教会も、そもそも聖書も、あり得ないことが分かるのであります。

▼今日読まなかった21節以下について、簡単に申します。
エペソスのアルテミスは、昔から市の主要神であり、その神殿は市の主要聖所でありました。
この女神は、東西混交主義と、所謂「ギリシア的解釈」との一つの典型であります。それによってギリシア人は、世界中の他の民族の神々を、何か少しでも共通の特徴がありますと、自国の神々と同一視して、他民族をその祭儀と崇拝者もろともその配下に置いたのであります。そして彼らはここでは、極めてアジア的な神をオリンピアの神々のひとり、アルテミス(ラテン語ではディアナ)と、たぶん自然を支配する、という共通点ゆえに同一視しました。しかし、両者の本質は根本的に相異なっていたのであります。ギリシアのアルテミスは狩の処女神であり、エペソスのアルテミスはきわめて女性的な豊能神、あらゆる生命あるものの養母でありました。何よりもその神像の違いは一目瞭然であります。
世界の七つの謎の一つに数えられる、その有名な神殿、いわゆるアルテミシオンは、市の中心部から少し離れた北東部にあります。これは120メートルと70メートルの長方形をなしており、高さ19メートルの128本の柱に囲まれています。アデュトンと呼ばれる、聖所の最奥部に、有名な神像が置かれています。
今日の箇所に触れられていますように、この壮麗な神殿のミニチュア=模型が、お守り、観光土産となっておりました。

▼ここでも、少し諄いことを申し上げたかも知れません。要点は、アルテミス=ディアナ=ダイアナへの信仰は、異教の信仰であるという肝腎な点は別にしましても、およそ商業主義にまみれ、また、政治利用されていたのであります。そういう意味で不純な信仰であったのですが、信仰の内容もまた、様々な宗教の要素を混ぜ合わせたご都合主義だったのであります。およそ、不純なものだったのであります。
パウロが頑なに拒むことをしなければ、キリスト教信仰もまたこの何もかも飲み込んでしまう怪物に飲み込まれてしまったのに違いないのであります。
アルテミス信仰だけではありません。一体に、当時の宗教は、東西の文化の出会い、所謂ヘレニズムの影響下にあり、更に、ヘレニズムと深く結び付いたグノーシスの影響も相まって、混交的だったのであります。
この箇所に描かれるパウロの頑ななまでの、アルテミス信仰批判には、そのような背景が存在したのであります。

▼言うまでもなく、日本の古来からの宗教は、神道にしても、仏教にしても、既にその本来の姿が全く覆い隠されてしまっている程に、混交宗教であります。また、神道、仏教から派生した新興宗教は、キリスト教と言う借り物の衣装さえ纏って、更に更に、混交的であります。
いや、余程、注意して見張っていなければ、私達の教会にさえ、異なる価値観、異教的な要素が、入り込んで来るのであります。
パウロがそうしたように、私達は、絶えず、このアルテミス的信仰を警戒していなければなりません。純粋さを保つには、不断の努力が要るのであります。

▼18節、19節は、特別に1節づつ読みましょう。
『また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。』
魔術に関係したことを、職業としていたり、この虜となっていた者が、自ら、その罪を告白したのであります。魔術や混交的な宗教が、当時のギリシャ人にとっては、常識的なことだったのであります。にも拘わらず、彼らは、その罪を告白して、パウロの元に依ったのであります。罪の告白なしには、キリスト者として生まれ変わることは出来ないのであります。
このことは、私達日本人にも、全く当てはまることでありましょう。しかし、私達が、キリスト者として生まれ変わる時に、過去の信仰、むしろ、過去の不信仰をを真に告白したかが、問われるのであります。未だに、これらの異教的な要素、異教的な考え方を引きずって生きていないかが、問われるのであります。
そうして、19節。
『それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。』
過去の価値観を捨てなければならないのであります。引きずって生きてはならないのであります。
そうしなければ、過去の価値観にキリスト教という新しい価値観を加えたに過ぎないのであって、それは、パウロが批判する混交なのであります。

この記事のpdfファイルはこちらから

主日礼拝説教

前の記事

人間をとる漁師に
主日礼拝説教

次の記事

憐れみの器として