古いものは過ぎ去り

2013年7月21日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。
救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

コリントの信徒への手紙 二 5章16節~6章2節

▼6章1節から見ます。
 『神の協力者としてあなたがたに勧めます』
『神の協力者』、口語訳では『神と共に働く者』、聖書を通じてここにしかない、特異な表現が用いられています。『神の協力者』、『神と共に働く者』、敢えて言えば、神の同労者であります。
『神の協力者』と自称するパウロを、傲慢だと感じる人もありますでしょう。パウロは神様と肩を並べる程に偉くなったのか、そんな反感を買いそうであります。
勿論、使徒パウロはそのような、傲慢な思いで言っているのではありません。
全く、逆であります。福音の業に仕える者は、自分の仕事をしているのではない、誰か他の人間のための仕事をしているのでもない、神様の御用をしているのだというのであります。その点を厳密にする表現が、パウロにとっては、『神の協力者』なのであります。

▼今日の箇所の直前、IIコリント4章5節では、このように述べています。
『わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのために
あなたがたに仕える僕なのです』
『神の協力者』、そこには、誇りも勿論ありますが、自分の働きが人間的な思いに基づくものではないということが強調されているのであります。神の同労者という、何だか偉ぶっているように聞こえる表現と、神の僕、神の奴隷とは、意味する所は全く同じなのであります。

▼その一方で、『神の協力者』とは、確かに、他のどんな資格よりも、どんな表現よりも、厳かなものであります。どんな表現よりも、御言葉を取り次ぐ者の権威を強調しています。何故なら、それは、パウロ個人の権威の問題ではなく、神の宣教の権威の問題だからであります。

▼1節の後半部分をご覧下さい。
 『神の恵みを無駄にしてはいけません』
一番簡単に説明致しますと、神の恵みをただで貰っていてはならない、お返しをしなくてはならないということであります。
常に申しますが、この恵みという字は、使命という言葉に置き換えて読んだ方が分かり易い場合が多いようであります。そうしますと、「神から与えられた使命に、しっかりと応答しなくてはならない」こうなります。

▼当然、2節の解釈も、今こそ、神の恵み、神の招きの声に応えて、私たちが果たすべき努めを全うしよう。今こそ、私たちの働きが求められているのだと、こういう意味になります。そして、このように読むと、3節以降とのつながりも良いようであります。

▼5章16節に戻ります。
『それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。
肉に従ってキリストを知っていたとしても、
今はもうそのように知ろうとはしません』
『肉に従って』と訳されている字は、聖書の中で、頻繁に用いられている字と同じであります。聖書中の肉という字の大半は、この字(サルクス)であります。
この語が持つ響きと申しますか、意味合いと申しますか、それは、日本語で肉乃至は肉体と言う時と、あまり変わらないと思います。
それならば、ギリシャ語の意味を厳密にするとか、この言葉の背景になっている旧約聖書的な事柄を厳密にするとかということ必要ありません。

▼『肉に従って』とは、文脈からも明らかなように、人間的な観点でということであります。もっと具体的に言えば、血筋、家柄、さらには民族、そういった事柄であります。まとめていえば、出自であります。
肉という時、他にも、肉欲という表現にあるように、いろんな意味合いが出てまいります。しかし、ここでは、出自、その意味合いで、『肉に従って』と表現されています。

▼16節の後半。
『かつてはキリストを肉に従って知っていたとしても、今はもうそのような
知り方をすまい』
『知る』という字は、知識として知っていることではなく、関係を持つ、つながる、くらいの意味であります。『肉に従ってキリストを知っていたとしても』これは文脈から切り離しても、意味は明瞭だと思います。つまり、地上のイエスを知っていた。何らか関係があった。そして、そのことを決定的に重要だと考えている人が、未だ存命だったのであります。
また、そのような観点から、パウロは直接イエスを知らない、だから大したことはない、12弟子は勿論、エルサレムからやって来た他の弟子に比べたら取るに足りない、こう考えたのであります。
コリント書の最初の方を見ますと、このことはなかなか深刻な問題でありました。

▼しかし、これだけでは、パウロのこの言葉を十分押さえたとは言えません。時代が下るに連れて、地上におられたイエス様を、歴史上のイエス様を直接、知っていたという人は少なくなってきます。
コリント書が記された頃には、未だ未だ現実の問題でしたが、世紀が新しくなる頃には、該当する人は殆どいなくなった筈であります。それから10年20年後には、誰もいません。そうして、コリント書に記された問題は自然消滅したのでしょうか。そうは行きません。むしろ逆であります。

▼現在でも、今日の教会でも、同じような問題が依然として残っているのであります。16節の前半、『わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません』。コリントでも、現実に問題だったのは、前半の方だったかも知れません。
このことは、キリスト者の交わりという観点で考えた方が分かり易いかも知れません。出自、つまり、家柄や民族や社会的階級、こういうことで分け隔てがあるとすれば、それは、教会の本質に拘わる大問題であります。何らかの手当がなされて、教会内の差別的な意識が解消されなければならないでありましょう。少なくとも、その努力が必要でありましょう。
しかし、それ以前に、教会を、そのような人間的な観点で見ていること自体が問題なのであります。教会を、人間的な交わり、いろんな人がいろんな所から集まってきて、仲良く交わりを持っている、そういう所だと考えるから、逆に差別が起こるのであります。
人間的な組織や交わりを重大視するから、躓きが起こるのであります。

▼16節の後半、『肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません』。
この箇所については、既に申し上げた通りであります。しかし、前半と、後半とは、矢張り、一つの事柄なのであります。
神の家の交わりは、『肉に従った』交わりではなく、より信仰的な交わりへと脱皮しなくてはならないのであります。
しかし、ややもすると、私たちは、この逆の順番を辿るのであります。

▼繰り返します。教会の交わりは、イコール人間的な交わりではありません。そこで互いに良く理解しあい、助け合い、楽しい充実した時を過ごすために、私たちは教会に集まっているのではありません。ただ、神様を礼拝しに来ているのであります。イエス・キリストが私たちに下さった福音の言葉を聞くために集まっているのであります。
集まった会衆が互いに他の人の名前も素性も知らないということは、他の多くの宗教で、当たり前のことであります。キリスト教会でも、大きな教会、いろんな意味で力を持った教会ほど、そうであります。
私も何も、教会の所謂交わりを否定するつもりはありませんが、この人間的交わりを、教会の中心だと考えたら、だんだん、教会は堕落して行くのであります。私たちは、むしろ、それを警戒しなければなりません。

▼今一つは、コリント教会に起こった逆行、逆流が、現在の教会の中にも起こっているということであります。
パウロが伝えた福音宣教の言葉では満足せずに、地上のイエス様を直々に知っていなければならないように考えたのが、コリント教会の混乱の始まりでありました。
地上のイエス様を直々に知っているという人々が、教会を混乱させたのであります。福音宣教の言葉では駄目だ、そう言ったのであります。
今も同じことが起こっています。福音宣教の言葉、つまり、聖書では駄目だ、聖書を分析したり、聖書以外の文献を調べたりして、地上のイエス様を直々に知らなければならない、…要するに、コリント教会で起こったパウロ批判と同じであります。

▼さて、今日の箇所で一番肝心なことであります。17節、これは、16節と一緒に読めば、どういうことが分かります。また、18節以下と一緒に読めば、より深い意味が伝わって来ます。
19節を先に読みます。
『つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、
人々の罪の責任を問うことなく、
和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。』
深い意味を持った所ですが、大胆に約めて申します。和解と言うと、互いに争っているものが、お互いに歩み寄って、妥協点を見い出したという意味合いです。しかし、神様と人間の関係はそのようなことでは説明できません。人間も悪かったが、神様にも責任がある、お互いに非を認め合って、…そんなことではありません。
それでは、しばしば親が子供に対してするように、全てを不問にし、親の方から歩み寄って、一切を水に流した、そういうこととも違います。
コリント書では常にそうですが、背後にあるのは、イエス様の十字架であります。
つまり、罪の赦し、罪の贖いであります。和解とは、本来、対等な関係に置かれた両者が、相互の責任でなすべきもの、それぞれがそれぞれの代価を支払って行われるべきことであります。それが、全く、神の一方的な行為、神の恵みとして行われた、これが、ここで言う和解であります。日本語の和解からの類推では限界があります。
これが、パウロの信仰の根本なのであります。

▼18節。
『これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して
わたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を
わたしたちにお授けになりました。』
18節でも、19節でも、『和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました』、『和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです』と、ありますように、これが、教会の福音宣教の根拠であり、福音宣教の内容なのであります。

▼ここで17節を読みます。
『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』
『新しく創造された』、『新しいものが生じた』とは、この人が、新品に作り替えられたという意味ではありません。性格或いは性根を入れ替えたという意味でもありません。道徳的・倫理仰的になったという意味でさえありません。
そうではなくて、『和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました』、『和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです』、つまり、福音宣教に仕え、福音宣教に生きるものになったということであります。

▼20節。
 『ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、
わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。
キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。』
今、パウロは、自分たちの依って立つ所を明らかにしました。人間的なことに捕らわれて、つまらない分派闘争を繰り返し、果ては、パウロ批判に陥った人々に向かって、『神と和解させていただきなさい』と言うのであります。これは、勿論、神の和解案を受諾して、パウロたちとの関係を正常化しましょうと言っているのではありません。
あくまで、『神と和解させていただきなさい』であります。つまり、十字架の出来事を受け入れなさいであります。十字架の出来事の意味を受け入れなさいであります。
彼らも、初めは、他のことではなくイエス様の十字架と復活という教えに惹かれて、キリスト者になった筈であります。しかし、彼らはそこから離れていたのであります。そのことが、パウロの言葉で分かります。
同様に、教会が福音宣教のために、それだけのために存在することを否定する人々も、矢張り、イエス様の十字架と復活という教えから離れているのであります。

▼21節。
『罪と何のかかわりもない方を、
神はわたしたちのために罪となさいました。
わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。』
既に申しましたように、イエス様の十字架であります。これが全ての事柄の前提であります。イエス様の十字架とは、罪の贖いであります。私たちのための罪の贖いであります。
単なる自己犠牲ではないし、まして、階級闘争の結果などはありません。
だからこそ、この贖いを受け入れ、神との和解が与えられる者は、『肉に従って』考え歩むことから、離れて、教会の兄弟姉妹を無条件で受け入れるし、教会にやって来る者を、その人の出自の故に拒むようなことをしないのであります。結果は、教会には平和な楽しい人間的な交わりが形成されるかも知れません。
しかし、絶対に順番を逆にしたらいけないのであります。

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