神が造られた男と女

2013年10月27日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木を善悪の知識の木を生えいでさせられた。

創世記2章4節b〜9節

 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ、
わたしの骨の骨。
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母から離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

創世記2章15節~25節

▼神沢利子という児童文学作家に、『くまの子ウーフ』という名作があります。ロングセラーになっていて、おひさま文庫にもあります。
以前に、CSとの合同礼拝の時にお話ししておりますが、また、取り上げます。
話の効率を上げるために、必ずしも原作に忠実ではありません。

▼『くまの子ウーフ』は、ある朝、大発見をします。鶏を見ていて、どうして鶏は毎日毎日、卵を産むことが出来るのだろう。鶏には一体、幾つの卵が入っているのだろうと考えます。そして、鶏は卵で出来ているという発見をします。
そして、ウーフ自身は、毎日毎日、大好きな蜂蜜を食べます。僕は蜂蜜でできているんだという大発見をします。

▼この話を、友だちの狐のツネ太に教えますと、ツネ太は反論します。そんなことはない、鶏はガラと肉で出来ているんだ。毎日、卵を産む鶏が卵で出来ているのなら、毎日おっしこをするウーフは、おしっこで出来ているんだ。

▼せっかくの大発見をけなされ、しかも、おしっこで出来ていると言われたウーフは、転んで怪我をし、涙を流します。そして、今度こそ、真実を発見します。
僕は、おしっこで出来ているんじゃない、涙と血だって出るんだ。

▼創世記2章7節。
『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の  息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』
創世記に依れば、人は土の塵で出来ています。人間の原材料は、土の塵であります。
聖書の言う通りだろうと思います。人間とは、所詮、土から生まれて土に帰る、そういう儚い存在であります。
しかし、聖書は、同時にもう一つのことを言っています。
土の塵で作られた存在に、『命の息』が、吹き入れられました。
その後に、『人はこうして生きる者となった』とあります。
と言うことは、『命の息』が、吹き入れられるまでは、姿形は整っていても、生きてはいなかったのであります。木偶のようなものであり、或いは、死体のようなものだったのであります。

▼言い方を変えれば、土の塵で作られ、骨と肉と皮で出来ているのは、人間の外見・見た目でしかありません。人が生命を持って本当の人間になるためには、鼻の穴から神さまの息を吹き入れられなければならないということであります。確かにそのように書いてあります。
神さまの息、別の言葉で言えば、聖霊、そして神さまの愛であります。つまり、人間は、神さまの息、神さまの愛を呼吸して初めて本当に人間と呼ばれるのにふさわしい存在となるのであります。

▼この論法は、ウーフとツネ太の議論に重なります。
ツネ太の論理は、何で出来ているか、何を原材料として造られているか、ツネ太は、鶏はガラと肉で出来ていると言いました。これは、鶏だけではなく、ウーフにも、ツネ太自身にも当て嵌まる筈であります。そして、何を原材料として造られているかと突き詰めれば、あらゆる動物は、塵で出来ているのであります。

▼ウーフは、体の中から出て来るもので出来ていると考えました。だから、ツネ太に、それならば、出て来るもの、おしっこでできているとからかわれたのであります。おしっこなら、未だ可愛いものです。
人間は糞の詰まった袋だと言ったのは、誰だったでしょうか。人間即ち糞袋という言葉があります。多分、禅の教えだと思います。

▼また、ウーフは、体の中に入って来るもので出来ていると考えました。これは、原材料を更に遡った考え方であります。
何で出来ているか、体の中から出て来るもので出来ていると逆のようでいて、基本的には、同じ発想方法であります。

▼創世記も、同じ発想で記されています。何で出来ているか、何が入って北紀吉か、そして、何が出て行ったかであります。

▼人はその口から吹入れたもので、そして口から吐き出すもので出来ているのであります。逆に言えば、この人が何を呼吸しているかを見れば、この人の正体が分かるのであります。
イエス様は、こんな風にも仰っています。
『16:あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみ
からいちじくが採れるだろうか。
17:すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
18:良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、
悪い木が良い実を結ぶこともできない。
19:良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
20:このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。』
…マタイ7章16〜20節。

▼以上の事柄が、教会についても、全く当てはまります。聖霊なしには、教会は教会ではないし、教会の形をしていても、似て非なるものなのであります。ホテルの結婚式専門礼拝堂などはその最たるものであります。教会の形をしていても、それは絶対に教会ではありません。
さて、人間の創造の記事との関連は、このことに止どまりません。創世記1章にも、2章とは違った観点から、人間の創造が記されています。
ここでは、人間が神の形に造られたということが強調されています。そして、神の形ということの内容は、1章27・28節に述べられています。
即ち、27節
『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
男と女に創造された』
男と女とに創造されたとは、2章18節以下を読むと良く分かりますように、互いに助け合うもの、互いに愛し合うものとして創造されたという点に強調があります。そも、このこと自体が、聖霊降臨の出来事の主題と相通じるものがあります。
28節
『神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせ  よ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』
ここでは、人間が、一つの目的を持って創造されたこと、特別の役割を担っていることが強調されています。そして、人間がその使命を果たすためには、神の息が、是非とも必要なのであります。
神の息=聖霊なしに、人が『海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配』するならば、つまり、ピラミッドの頂点に立つならば、それは、すなわち、バベルの塔なのであります。

▼ここでも、教会とピッタリ重なります。神は或る目的の下に、教会を創造されたのであります。この目的を果たすために、教会に聖霊が注がれたのであります。教会は、その使命を果たすためには、聖霊に満たされていなければならないのであります。
その目的とは、例えば、マタイ福音書28章19〜20節であります。
『19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』
その目的とは、例えば、使徒言行録2章32〜33節であります。
『32:神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、
そのことの証人です。
33:それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を
御父から受けて注いでくださいました。』
主イエス・キリストの十字架と復活の出来事の証人となって、この出来事、福音を全世界に述べ伝える、そのことのために、教会は創造されたのであり、そのことのために、教会に聖霊が注がれたのであります。
聖霊を受けるとは、何か超能力のようなものを得て、他の人問より、一段高い所に座るというようなことではありません。

▼言い換えれば、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事の証人となって、この出来事、福音を全世界に述べ伝えることをしていなければ、教会は教会ではないのであります。どんなに、貧しい隣人を助ける愛の業が行われていても、それだけでは、教会ではないのであります。孤独な現代人を慰め得るような、楽しい交わりを形成していても、それだけでは教会ではないのであります。また、どんなに学問的に高度な聖書の勉強をしていても、それだけでは教会ではないのであります。

▼さて、神の息という点に拘って読みましたが、今日の箇所では、もう一つの焦点が存在するようであります。
先ず、2章18節であります。
『主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者  を造ろう。」』
これは、男女の結婚のことと重ねなられて描かれているのは間違いありません。しかし、勿論、だから人は皆結婚しなくてはならないという狭い解釈をする必要はありません。
もっと広く、愛のことを言っているのであり、昔も今も、男女の愛、結婚こそ、その愛の最も代表的なものであります。当たり前のことです。

▼また、ここで、女が男の一部から作られたということに、悪く拘って、本当は女から男が産まれるのであって、ここに記されていることは、その逆であり、男女差別を反映しているという人があります。
とんでもありません。
先程読みましたように、男は、地の塵から作られたと書いてあります。少しも、男性優位ではありません。むしろ逆かも知れません。
どちらが先かなどと言うことに、聖書そのものが関心を持っていません。
大事なことは、23節であります。
『人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』
肝心なことは、男女が、まあ夫婦が、一心同体だと言う点であります。そこに強調があるので、他のことにあるのではありません。

▼24節も読んでしまいます。
『こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる』
私は、ここを読みますと、本当に不思議な気持ちになります。聖書のこの箇所が記されたのは、いつ頃でしょうか。紀元前500年代でしょうか。
日本で、このように夫婦の関係を、舅姑、親戚縁者を含めた家よりも大切なものとして考えるようになったのは、いつ頃からでしょうか。
戦後ではないでしょうか。

▼さて、教会が神さまからその存在の根拠を与えられ、そして存在の目的を与えられて、真に教会になるように、人間もまた、夫婦もまた、存在の目的を与えられるのであります。
創世記1章27節。
『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
男と女に創造された。』
ここを素直に読みますと、神が『御自分にかたどって人を創造された』ことと、『男と女に創造された』こととが一つことのように表現されています。
勿論、これは、神もまた、男女の神だと言うことではありません。
互いに愛し合うと言うことであり、つまり、神の本質は愛だということであります。また、その後に、直結する言葉は、以下のようであります。
28節。
『神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を
従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』
これを嫌う人があります。キリスト者の中にさえであります。
支配という言葉は、響きが良くないかも知れませんが、むしろ、監督すると言うことであり、責任を持つと言うことであり、愛すると言うことであります。

▼同じように、2章19〜20節。
『主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、
人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。
人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。』
この箇所を読めば分かります。1章の28節と同じなのであります。名前を与えるということは、日本語でも命名と言いますが、命を与えることと結び付いています。愛すると言うことと、重なっているのであります。
この自然界のいろいろな生き物に対して、人間は管理者としての責任・義務を持つのであります。彼らを神さまから委ねられているからであります。

▼しかし、その一方、20節。
『20:人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、
自分に合う助ける者は見つけることができなかった』
動物の中には、真に愛し合う対象を見出すことは出来ないのであります。
神の息を吹き入れられた者の中に探さなければならないのであります。

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