霊が語らせるままに

2015年5月24日聖霊降臨節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

使徒言行録2章1節〜13節

▼繰り返し読んでいる箇所であります。クリスマスならば、例えばマタイとルカの福音書で、新共同訳聖書の小見出しで数えれば9つの段落があります。ヨハネの1章が取り上げられることもあります。イザヤ書の幾つかの章が、クリスマスに読まれます。
 しかし、ペンテコステの礼拝で読むべき聖書箇所となりますと、使徒言行録2章、ここしかありません。ここで引用されている旧約預言書ヨエル書は、全く同じでありますから、ペンテコステの礼拝で読まれることは先ずありません。
 勿論、ペンテコステに拘らず、聖霊という主題ならば、旧約聖書にも、新約聖書にも、無数に該当箇所があります。

▼過去のことを調べて見ましたら、ペンテコステの礼拝で3年に2回見当で、使徒言行録2章を読んでいます。それを比べて見ますと、大体3パターンくらいに分けられます。似たような説教内容になっていました。別に手抜きした結果ではありません。どうしてもそうなります。
 
▼今年は使徒言行録ではなく、全然別の箇所、例えばエレミア書を読みたいと考えましたが、結局、聖書日課に従いました。
 それは、改めて読んでみて、1節について、新たな思いで、読まされたからであります。
 1節。
 『五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると』
 これは決定的に大事な表現ではないでしょうか。決定的に大事なのに、案外見過ごされているのではないでしょうか。

▼『一同が一つになって集まっていると』
 文字通りに読みます。『一同が一つになって集まっていると』そこに聖霊降臨の出来事が起こったのであります。
 普通、逆に考えられているのではないでしょうか。聖霊が降ることによって、いろんな国に住み、いろんな言葉を話す者が一つに結び合わされる。ペンテコステは、そんな風に理解されていると思います。
 多分その解釈に間違いはないと思います。

▼しかし、そのまま素直に読めば、聖霊が降る前に、弟子たちが『一つになって集まっていると』、そこに聖霊が降ったのであります。
 弟子たちは、この時、既に『一つになって集まってい』たのであります。
 イエスさまが捕らえられ、十字架に架けられるに際して、逃げ出していた弟子たちが、まあ、ヨハネ福音書によりますと、一緒になって逃げ隠れていたのかも知れませんが。逃げ出し散らされていた弟子たちが、少なくとも、心がバラバラになっていた弟子たちが、この時には『一つになって集まってい』たのであります。

▼それをもたらした力は、復活の出来事であります。復活の出来事によって、弟子たちはもう一度集められたのであります。復活のイエスさまに出遭ったのであります。そこに、聖霊が降ったのであります。
 諄いようですが、聖霊が降ったことにより、弟子たちはもう一度集められたのではありません。
 集まっている弟子たちに聖霊が降されたのであります。

▼使徒言行録1章を見ますと、弟子たちは集められており、その弟子たちに聖霊降臨が約束されます。
 1章8節。
 『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、
エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
  また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』
 そして、この言葉を残して、イエスさまは天に昇られます。

▼この出来事の後に続くのは、12弟子の補充、マティアの選出であります。
 矢張り、弟子たちは集められ、組織を持ち、働き始めようとしていたのであります。大胆に言い切れば、既に教会は教会として誕生、機能していたのであります。そこに、宣教の使命と共に、聖霊が降されたのであります。

▼2章2節を見ます。
 『突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
  彼らが座っていた家中に響いた』
 特に、『彼らが座っていた家中に響いた』
 ペンテコステの出来事の最初は、家の中だったのでしょうか。
 どうも、弟子たちは家の中にいて、『激しい風が吹いて来るような音』を聞いたようであります。
 これは、ペンテコステを描く様々な宗教画とは、全然様子が違います。
 まあ結論に走らないで、順に読んでまいります。

▼3節。
『そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった』
 ここだけを読みますと、彼らは、屋内ではなく、屋外にいるようであります。
 2節と3節と、整合性がないようにも思えます。
 無理矢理につじつまを合わせると、弟子たちは、家の中で異様な音を聞き、外に飛び出して、『炎のような舌』に打たれたのでありましょうか。

▼読み方によっては、こんな解釈も出てくるかも知れません。弟子たちは、復活のイエスさまに出会っても、未だ、逮捕を恐れて家の中に閉じこもっていた、そこに『激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ』、結果彼らは、家を飛び出した、そうして、『炎のような舌』に打たれた。
 無理やりにつじつまを合わせてもあまりピンとは来ません。
 既に申しましたように、使徒言行録1章に依れば、教会は機能し始めていました。

▼4節。
 『すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、
ほかの国々の言葉で話しだした』
 ここも厳密に読めば、聖霊語で話し始めたということではなくて、『ほかの国々の言葉』であります。いろんな外国語であります。
 言葉を超えて、何かテレパシーのようなものだったと考える人がいます。そういう解釈は、正に聖霊語であります。言葉は通じなくとも、気持ちが、心が、信仰が相通じるという解釈であります。それで間違いないと思いますが、厳密には、『ほかの国々の言葉』、いろんな外国語であります。
 つまり、弟子たちには、本来持っている筈のない伝道の武器、道具が与えられたのであります。そういう解釈の方が正しいかも知れません。
 伝道に必要なものは、必ず与えられるという解釈であります。

▼5節。
 『さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、
信心深いユダヤ人が住んでいたが』
 最低限の説明をします。この当時、ユダヤ人の多くは、ローマ帝国の各地、特に地中海沿岸世界に散らばって住んでいました。
 戦争で捕虜とされたり、生活苦からイスラエルを逃れたために、各地に散り、いろんな街にユダヤ人街を作っていました。
 しかし、それでは、厳密にユダヤ教の律法を全うすることが出来ません。何より、エルサレム神殿で祭儀を守ることが出来ません。
 そこで、信心深く、かつ経済的に可能になった者は、エルサレムに帰って来たのであります。

▼6節。
 『この物音に大勢の人が集まって来た』
 ここも見逃される表現であります。
 それこそ、絵画でも、物語でも、『大勢の人が集まって』いた場所に、弟子たちが出掛け、そうしてペンテコステの出来事が起こったということになっています。
 しかし、聖書はそのようには記していません。
 家の中で一緒に集まっていた弟子たちの上に、不思議な出来事が起こり、『この物音に大勢の人が集まって来た』のであります。

▼その上で、同じ6節。
 『だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった』のであります。
 この時点では、出来事は屋外かと思われます。
 家の中にいた弟子たちが、霊に打たれて外に出た、そして『一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした』
 聖書に記されているのは、そういう順番であります。

▼7節。
 『人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、
皆ガリラヤの人ではないか』
 どうして、『皆ガリラヤの人』だと分かったのか、不思議です。ガリラヤ訛りがあったのでしょうか。それはちょっと無理な解釈でしょう。それとも、外国から帰って来た人々が、イエスさまの弟子の顔まで知っていたのでしょうか。これもちょっと無理な解釈でしょう。
 結局分かりませんが、しかし、拘るべき問題ではないでしょう。

▼8節。
 『どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか』
 『めいめいが生まれた故郷の言葉』、彼らは、外国人ではありません。外国で生まれ育ったユダヤ人であります。
 散らされていた者が、ここに集まって来ていたのであります。
 そして、既に申しましたように、ここに登場する弟子たちも、散らされ集められ、そしてまた、散らされて行くのであります。

▼11~12節は後回しにします。
 13節。
 『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、
あざける者もいた』
 『ぶどう酒に酔って』、外国語が話せるようになるのなら、こんな良いことはありません。最早外国語の勉強は必要なくなります。
 しかし、そんな風に言って、目の前に起きたことを否定する人はいます。

▼一方『新しいぶどう酒に酔っているのだ』という説明は、案外に正しいかも知れません。聖霊に酔っているのであります。
 酔うとは、お酒を口から取り入れて、そのアルコール成分、スピリッツが体に染み渡り、酩酊状態になることであります。
 音楽に酔うも、同様に説明できます。
 そして、信仰も、聖霊も、酔うことかも知れません。

▼些か脱線気味になりますが、酔うということについて考えさせられました。酔うの反対語は何でしょうか。正しくは素面でありましょう。しかし、白けるかも知れません。
 どこか夢中になれない、距離が残る、そういうことであります。
 もっと単純には、熱心と不熱心かも知れません。
 お酒を飲んだ場合でも、反応は一人ひとり違います。気持ちよく酔う人もあれば、悪酔いする人もあるし、お酒を受け付けない体質の人もいます。聖霊はどうでしょうか。矢張り、一人ひとり反応に差が出るのではないでしょうか。
 他の人が楽しく酔っている時に、しらける人、腹を立てる人だっています。

▼12節。
 『人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」
と互いに言った』
 十二弟子たちが聖霊に打たれて語った言葉は、この人々の心を激しく刺激したのであります。
 彼らの心は、揺り動かされたのであります。
 しかし、彼らは、頑なに、その心の扉を閉じて、己を守ろうとしました。酔うまいとしたのであります。聖霊を拒否したのであります。
 そして、既に読んだ13節、もう一度読みます。
 『しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」
と言って、あざける者もいた』
 確かにこんなことがあります。
 強い魅力を感じていながら、むしろ、魅力を憶えるからこそ、屁理屈を捏ねてでも、退け、自分を守ろうとするのであります。
 自分を守ろうとすることで、イエス様の福音を拒否し、救いを拒否するのであります。

▼その一方、大分先になりますが、2章40節以下。
 『ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、
 「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
41:ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、
その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42:彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに
熱心であった。』 
 ペトロの説教で心を揺り動かされ、決断して、洗礼を請け、教会に加わった者が多かったのであります。
 『激しい風が吹いて来るような音』を聞いたのであります。
 この風に、心を揺り動かされたのであります。

▼私たちの教会は、一年に一回、このペンテコステ礼拝を守ります。それは、単に教会の誕生記念日祝いではありません。
 聖霊を浴び、伝道への幻を与えられる時であります。そして、そのための力を頂く時であります。

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