父と子と聖霊の名によって

2015年5月17日復活節第7主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

マタイによる福音書28章16節〜20節

▼4年前にも全く同じ箇所を読んでおります。その際には17節の『疑う者もいた』という表現を重視して、これを手がかりに読みました。今回も、この点には注目したいと考えますが、中心は少しずれることになります。とにかく順に読みます。

▼16節。『十一人の弟子たちは』
 この表現は何事もなかったように読み過ごしてはならない表現であります。
『12弟子』ではありません。『十一人の弟子たちは』であります。11人になったのは、ご存じのように、イスカリオテのユダがイエスさまを裏切った結果であります。
 マタイ福音書に従えば、彼は銀30枚でイエスさまを売り、後、これを悔いて自殺しました。
 『そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを
知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
4:「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5:そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ』。
 
▼この点にご注意頂きたいと思います。
 ユタが『首をつって死んだ』のは、イエスさまが十字架に架けられる前であります。自分がしたことの結果を見ずに、或いは見たくなかったのでしょうか。彼は自分で自分を裁き、罰しました。この点に、大いに関心・興味が惹かれるのでありますが、本日の主題からは外れますので、省略します。
 肝心なことは、『十一人の弟子たちは』、つまり、裏切りによって一人欠けた状態で、初代教会の歩みは始まったのであります。初めから、欠けがありました。

▼しかも、17節を見ますと、『疑う者もいた』。
 『疑う者』とは、『十一人の弟子たち』の一人であります。イエスさまの福音を伝えるべく召し出された弟子たちは、決して精鋭ではありません。決して、かつては何千人何万人いた弟子たちの中から選りすぐられた精鋭ではありません。裏切り者がおり、『疑う者もいた』のであります。

▼順に読みたいと思いますので、16節に戻ります。
 『十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った』
 『ガリラヤ』は、イエスさまの宣教活動が始められた土地であります。イエスさまの活動期間は、福音書から推し量って、長くとも3年半であります。もっと短い可能性の方が高いでしょう。その内の大半の期間、イエスさまは『ガリラヤ』におられたようであります。
 その場所に帰ることになります。弟子たちの宣教活動は、今、原点の原点に立ち帰ったのであります。

▼その『ガリラヤ』で、『十一人の弟子たちは』、17節。
 『イエスに会い、ひれ伏した』とあります。これ以前には、弟子たちがイエスさまの前に『ひれ伏した』という表現はありません。12弟子ではなく、他の者がひれ伏した場面はありますが、12弟子がイエスさまの前に『ひれ伏した』という表現はありません。
 イエスさまは十字架に架けられたことにより、イスラエルの王として即位されました。ですから、ここで初めて、『ひれ伏した』という表現になるのだろうと思います。
 原点の原点に立ち帰るとは、イスラエルの王として即位され方の前に『ひれ伏した』ことなのであります。

▼他の福音書に触れていると話がややこしくなりますので、マタイに限ってお話しします。マタイで、弟子たちがイエスさまの前に『ひれ伏した』のは、17章の山上の変容の物語においてであります。
 『ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、
  「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が
  雲の中から聞こえた。
6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた』
 説明していると長くなりますので結論だけ申します。この場面は、イエスさまが十字架への道を経て神の国に入れられることの、預言的な出来事であります。
 つまり、この場面でのイエスさまは、十字架と復活のイエスさまであります。

▼その意味で、28章の17節と重なります。
 弟子たちは、十字架と復活のイエスさまの前にひれ伏したのであります。
 『しかし、疑う者もいた』。
 ここに至って未だ『疑う者』がいました。11人の中にであります。
 諄く言いますが、十字架と復活の後であります。それなのに、未だ『疑う者』がいました。
 何をどう疑ったのかは記されていません。
 ここにいるのはイエスではないと考えたのでしょうか。幻か幽霊か、とにかく実際のイエスさまではないと考えたのでしょうか。
 どうも、そういうことではないように思います。
 
▼これは私見でしかないかも知れませんが、疑ったのは、この後の自分たちの生き方についてではないでしょうか。
 弟子たちは、一度は十字架への道から逃げ出しました。そして、ヨハネ福音書が一番明確に記していますが、逮捕を恐れて隠れていたようであります。
 それが、復活のニュースに接して、『ガリラヤ』にやって来ました。
 このことだって、本当にイエスさまの約束の言葉を思い出して、『ガリラヤ』にやって来たのか、それとも、逃亡犯が故郷に帰るように、『ガリラヤ』に逃げ帰ったのか、はっきりしません。

▼まあ、聖書に明確に記されていないことについて、思い巡らしても、正解は出ないでしょう。
 確かなことは、18節に記されていることであります。
 『イエスは、近寄って来て言われた』
 これは、ぼんやりした幻のような姿ではないということの強調でしょう。復活のイエスさまは、幻でも、幽霊でもありません。『近寄って来て』近くで見ても、以前のイエスさまそのものであります。
 『近寄って来て言われた』声も同じであります。

▼もっと重要なことは、18節の後半部以降であります。順に読みます。
 『わたしは天と地の一切の権能を授かっている』
 この言葉は、先程引用した17章の直前、16章の、所謂ヒィリポ・カイザリヤの告白を連想されられます。長くなりますが、引用します。
16:シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
17:すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
陰府の力もこれに対抗できない。
19:わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。
あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
20:それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、
と弟子たちに命じられた。

▼『疑う者』つまり、道を疑う者に、この言葉が与えられたのであります。
 『疑う者』に対して、何かしら、確信が得られるような証拠を示すのではなくて、使命を与えられたのであります。
 
▼19節。
 『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい』
 『疑う者』迷う者に、この重大な使命が与えられたのであります。
 これは、二重の教訓を持っていると思います。
 一つは、『疑う者』迷う者も、主のご用に用いられるということであります。
 『疑う者』迷う者とは、ちょっと角度を変えて見れば、自分の気持ちに正直で、慎重、考え深い人かも知れません。そのような者をも、主は用いられるのであります。

▼先程引用した箇所、マタイ16章17節をもう一度読みます。
 『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、
  人間ではなく、わたしの天の父なのだ』
 これは、ペトロが信仰告白をしたのは、彼の知識や体験に基づくことではなく、主の御心だという意味であります。
 同様に、『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい』、この業も、人間の知識や体験に基づくことではなく、主の御心だという意味であります。

▼二重の教訓を持っていると申しました。
 もう一つは、こういうことであります。疑いながらも、迷いながらも働くこと、働き続けること、これによってしか、確信は得られません。
 道に迷った時には、立ち止まることも、引き返すことも必要かも知れません。自分で始めたことならば、そうした方がよろしいでありましょう。
 しかし、『あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』、この場合には、立ち止まることよりも、引き返すことよりも、歩き続けることが大事であります。

▼蛇足かもしれませんが、このタイミングでお話しした方がよろしいでありましょう。
 震災後のことであります。毎週利用する地下鉄に、節電のために止められているエスカレーターがありました。止まったままに、階段として用いられていました。
 最初の時のことです。一歩踏み出して、たたらを踏むというのでしょうか、転びそうになりました。エスカレーターは全く動いていません。もう一度やり直しましたが、違和感は残りました。その後は、普通の階段を上るのと変わらず、頂上まで辿り着きました。そこから床に足を踏み出して、また戸惑います。前のめりになったのです。
 多くの人が同様の経験をしたと思います。エスカレーターが停止していることは、目で見て、頭では承知しています。しかし、足の方に思い込みがあります。無意識のうちに、エスカレーターの慣れた動きに歩幅をそろえてしまうです。
 運動会でお父さんが転げるのも、同じ理屈だと聞いたことがあります。若かった時のスピードが、体の内に、記憶として残っています。しかし、運動不足の足がついて行かないから転ぶのだそうです。
 数日後、またこのエスカレーターに乗りました。矢張り最初の一歩に戸惑います。

▼今お話ししていることを、なんでこんな話に脱線したのだと思い聞いておられる方もあるかも知れません。しかし、このことは、教会に、教会の伝道に重なると考えます。
 かつての経験があります。教会が右肩上がりだった時代、多くの青年が教会を目指した時代がありました。その時の、伝道論、その時のスピードが、今の時代には当て嵌まらないかも知れません。
 教会の体力が違っています。
 自分の力を超えて走ったら危ない、走っているつもりでは危険なのであります。
 肝心なことは、自分の体力、自分の体験を絶対視しないことであります。

▼話を元に戻します。
 『彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け』
 ここも解釈が分かれる所であります。洗礼を否定する人々、軽視する人々にとっては、甚だ都合の悪い表現だからであります。
 しかし、実に明瞭だと私には思えるのでありますが。
 復活のイエスさまは、このように命じられたのであります。しかも、疑ったり、迷ったりしていた人に対してであります。
 必ずしも、熱心な信仰に燃えている人に言ったのではありません。
疑ったり、迷ったりしていた人に対して、命じられたのであります。

▼『洗礼を授け』ることは、主の命令であります。
 教会に通い始めた人に洗礼を勧めることには、躊躇いを覚える場合があります。勧めると、それを重荷に感じて教会から遠ざかる人が少なくありません。多くの人がここで躓き、信仰から離れるのであります。
 しかし、『洗礼を授け』ることは、主の命令であります。私が薦めるのではありません。このことをしっかりと踏まえて、主の言葉を伝え、受洗を勧めることが大事であります。私が勧めるのではありません。これを間違えると、失敗するのであります。

▼逆に新来会者に受洗を勧める人がいます。今日初めて見えた方に勧めるという人もいます。些か乱暴だとは思いますが、『洗礼を授け』ることが、主の命令であるならば、考えられないことではありません。しかし、この場合こそ、私が勧めるのではありません。これを間違えると、失敗するのであります。
 まして、一人の教会員が新しい人を審査して、この人には勧めるが、この人には勧められないと判断するようなことではありません。
 『父と子と聖霊の名によって』
 誰の判断によってでも、権威によってでもありません。ただ、『父と子と聖霊の名によって』洗礼は授けられるのであります。

▼20節。
 『命じておいたことをすべて守るように』
 『命じておいたことをすべて』とは、勿論、聖書特に福音書の中に記されているイエスさまの言葉ということでありましょうが、これにとどまるものではありません。そもそも、イエスさまがこの言葉を仰った時点では、福音書は一つも記されていません。パウロ書簡もそうです。パウロは、未だ信仰を持っていないのであります。むしろこの後、迫害者となるのであります。
 『命じておいたことをすべて』とは、教会の教え全てであります。伝える福音そのものであります。これと関係ない所で、まして、これに反する仕方で、主のご用に当たることは出来ません。

▼更に、20節前半。
 『あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』
 ここも、これは律法ではないのかといった批判があります。
 しかし、一つ一つについて議論があったとしても、三つのことを並べて見れば、何が主題となっているかは明確だと考えます。
 つまり、『すべての民をわたしの弟子にしなさい』、『彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け』、『あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』となります。

▼この三つは教会での信仰生活の柱であります。
『すべての民をわたしの弟子にしなさい』、伝道すること、『彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け』、伝道の結果として聖礼典を執行すること、『あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』、教会生活を構えること、であります。信仰の共同体を形成することであります。
 復活のイエス様が仰ったことは、つまりは、疑ったり、迷ったり、つぶやいたりしないで、教会生活を守りなさいということなのであります。
 そうではないかも知れません。疑ったり、迷ったり、つぶやいたりしながらも、教会生活を守りなさいということかも知れません。
 そこにだけ、真の確信が生まれるのであります。
 そこでだけ、真に、復活のイエスさまに出会うことが出来るのであります。

▼20節の後半。
 『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』
 この言葉が、私たちの信仰の根拠であります。イエスさまと一緒にいること、教会で生活すること、ここでしか、信仰の確信は得られません。
 最後に、もう一度18節。
 『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている』
 イエスさまが疑い、迷い、信じられない私たちに、近寄って来て、仰ったのであります。イエスさまは私たちと共におられるのであります。そして、イエスさまには、『天と地の一切の権能』があります。
 私たちは、この地上に於ける信仰生活と、来るべき天上の国への望と、全てを、イエスさまに委ねることが出来るのであります。

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