死から命へと

2015年6月14日聖霊降臨節第4主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

ヨハネの手紙一 3章11節〜18節

▼『互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている
  教えだからです』
 聖書の教えの一番最初、一番大事なことは、『互いに愛し合うこと』です。どんなに理屈を付けようとも、言い訳しようとも、『互いに愛し合うこと』のない教会は健全な教会ではありません。まして、互いに憎しみあったり、まして殺し合ったり、そんな教えは聖書の教えではありません。

▼それでは『互いに愛し合うこと』とはどんなことでしょうか。これが簡単ではありません。
 難しい言葉ではありません。小学生だって、もしかしたら幼稚園生だって、愛という言葉を知っています。言葉の意味を知っていても、しかし、『互いに愛し合うこと』は、とても難しいことのようであります。

▼続きを読んでみましょう。12節。
 『カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、
兄弟を殺しました』
 カインとその弟アベルは、人類最初の兄弟でした。この二人はそれこそ、『互いに愛し合う』ために、誕生しました。
 ところが、聖書は、この二人が『互いに愛し合』ったとは、記していません。一緒に仲良く遊んだとも、兄弟らしいことについては、何も書かれていません。
 聖書に記されていることは、カインは『兄弟を殺しました』、これだけです。

▼しばしば兄弟は他人の始まりと言われます。ここでは、兄弟は、他人の始まりどころか、敵の始まりです。

▼人類最初の兄弟、その兄が弟を殺しました。愛はなく、憎しみがあったのです。
 12節の続きを読みます。
 『なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです』 ここには不思議なことが記されています。殺したことが悪いのは勿論ですが、『自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったから』殺したと書いてあります。 殺したことが悪いと言う前に、悪いから、殺すことになってしまったと書いてあります。
 より正確に言えば、『自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったから』憎み、殺したと記されています。何とも恐ろしい表現です。これが、何度も言いますが、人類最初の兄弟であり、最初の殺人事件なのです。『自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったから』この殺人は起きたのです。

▼この物語が残されている創世記そのものを少し読みましょう。
 4章2~5節を読みます。ゆっくり読みますから聞いていて下さい。
 教会学校の子供たちは、昨年読んだところです。
 『2:彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、
カインは土を耕す者となった。
3:時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4:アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
5:カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた』。

▼何故、神さまは、カインの『土の実り』、つまり農作物、これを喜ばれずに、『アベルとその献げ物』、つまり、羊を喜ばれたのでしょうか。
 聖書を読む人々が、2000年以上問い続けてきた疑問です。
 いろんな説が唱えられています。
 一々紹介すると長くなりますので、省きます。10年ほど前の説教では、このことを詳しくお話ししましたが、今日はよろしいでしょう。

▼兎に角。
 『カインは激しく怒って顔を伏せた』
 カインは弟のアベルに嫉妬しました。焼き餅を焼いたのです。これが、地球上で最初の兄弟の関係、気持ちを描いた最初の文章です。地球上で最初の兄弟の関係、気持ちは、愛ではなくて、嫉妬から始まったのです。
 もしかすると、カインだけではなく、兄弟の最初の関係、感情は嫉妬なのかも知れません。

▼続きを読みます。
 『カインは激しく怒って顔を伏せた。
 6:主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。』
  カインは、激しい嫉妬の思いに駆られています。その感情は露骨に顔に出ています。カイン自身がそのことを知っています。だから、『顔を伏せ』ました。つまり、嫉妬していること、それがどんなに醜い感情であるかも、全部知っているのです。
 それでいて、自分の感情をコントロールできません。
 まあ、嫉妬とはそういう感情です。怒りも悲しみも憎しみも、なかなか自分では押さえようのない強い感情だと思いますが、嫉妬こそ、最も御しがたい感情なのです。

▼カインは『顔を伏せ』、つまり、神さまの目を避けようとします。これは、どこかで見た光景です。
 創世記3章8~10節。
 『8:その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
9:主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
 10:彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、
隠れております。わたしは裸ですから。」』
 罪を犯した人間は、神さまの目を直視出来ません。直視したくありません。
 神を見た人間は死ぬと言われているのもそういうことかも知れません。神を見たから死ぬのではありません。罪があるから、滅びるのです。

▼時間的にも逆ですし、因果が逆ですが、これが神さまがアベルの供え物を喜ばれなかった理由でありましょう。兄弟に嫉妬し、神の顔を直視することの出来ないカインの供え物を、神さまは喜ばれないのです。
 もっとはっまりと言うならば、兄弟と自分とを比較し、優越感を持ったり、逆に劣等感を持ったり、自惚れたり、嫉妬したりすることを、神さまは喜ばれないのです。

▼そもそも、イエスさまは、『人を裁くな』と仰いました。
 マタイ福音書7章1~2節です。
 『 1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、
  自分の量る秤で量り与えられる』
 この裁くという字は、重さを量るという字から生まれました。何とも不思議なことに、ギリシャ語でも、漢字でも日本語でも、全く同じです。裁くという字の語源は、重さを量るにあります。
 ですから、『人を裁くな』とは、人の重さを量るな、つまりは、人と人とを或いは自分とを比較するなということです。
 何故比較してはならないのでしょう。
 理由の一つは、人の値打ちは簡単には解らないということでしょう。だから、人間の秤で量って、その人のことを決めつけてはならないということでしょう。
 そして、もう一つの理由が、嫉妬するから、逆にうぬぼれるからではないでしょうか。

▼『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、
隠れております。わたしは裸ですから』
 自分で解っています。裸だと言うことは勿論ですが、自分が罪を犯したということも解っています。
 つまり、自分で自分を量り、裁き、罪に定め、その結果、神さまの目を逃れたいと考えたのです。

▼一ヨハネの方に戻って、14節を読みます。
 『わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。
兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、
  死にとどまったままです』
 人間は、生まれて来る前は暗闇の中にいます。何も見えません。目も見えませんが、そもそも光がありません。同じように、人間は、生まれて来る前は暗闇の中にいます。そこには愛はありません。
 おぎゃーと生まれ出て来ることで、暗闇は光に変わります。直ぐに見える訳ではありません。一週間ぐらいでしょうか、もっとでしょうか。見えるようになります。

▼同じように、おぎゃーと生まれ出て来ることで、赤ちゃんは母親の愛に触れます。まあ、お腹の中にいる時から感じているのかも知れません。だんだんに、愛を体験し、愛を育てられていきます。
 最初は、目に見た人間の区別も出来ません。だんだんに見分けられるようになり、自分を可愛がってくれる人が解るようになります。そうやって、愛を学ぶ、愛を育んで行きます。

▼このことが、14節の意味ではないでしょうか。もう一度読みます。
 『わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。
兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、
  死にとどまったままです』
 人間は、何時までも赤ちゃんのままに止まっていることは出来ません。体験しなくてはなりません。いろんなことを学ばなくてはなりません。その中で一番大切なものが、愛です。他のことは学んでも、愛を学ぶことの出来ない人が増えているように思います。

▼15節は後にして、先に16節を読みます。
 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました』
 聖書の通りです。私たちは生まれながらに愛を知っているのではありません。
 『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました』

▼一ヨハネの先の方に、こういう言葉が記されています。
 4章10節。
 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります』
 4章19節。
 『わたしたちが愛するのは、
  神がまずわたしたちを愛してくださったからです』
 これは人間の場合も同じことでしょう。
 
▼創世記のカインとアベルの物語の末尾の部分を見ますと、神さまは、カインに刑罰を与えますが、しかし、同時に、カインの命・安全を保証されます。
 神さまは、決してカインの存在を忌み嫌っているのではありません。むしろ、神さまに向かい合うことを求めておられます。
 自分の命の危険を感じて、カインは初めて、正面から神さまに向かい合います。13節。
 『カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
14:今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、
わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、
  さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、
  わたしを殺すでしょう。」』
 ここで、何とも皮肉にも、カインは、『わたしが御顔から隠されて』と言っています。カインが今、神さまに対して、私を見て下さい。お顔を隠さないで下さいと懇願しているのです。

▼このことは、人間同士の関係にも当て嵌まると考えます。
 嫉妬する者は、悪意を抱く者は、相手を本当には見ていません。逆に言えば、本当に見えていれば、嫉妬したり、悪意を抱いたり出来なくなります。

▼それならば、人間同士互いを良く見、知り、共感することこそが愛を産むことであり、憎しみや嫉妬を取り除くことになりますでしょうか。
 その通りだと思います。
 良く、愛の反対は憎しみではなく、無関心だと言われます。マザー・テレサの言葉として伝えられていますが、シモーヌ・ヴェーユの方が先の筈です。マザー・テレサはシモーヌ・ヴェーユを知っていると思いますが、シモーヌ・ヴェーユはマザー・テレサを知らないと思います。
 まあ、それはどちらでもかまいません。
 愛の反対は憎しみではなく、無関心、そこには一つの真理があると思います。互いを良く見、知り、共感することこそが大事です。

▼しかし、聖書的には、それ以前に、神さまを知ることです。神さまの愛を知ることです。先程引用した言葉をもう一度言います。
 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります』
 『わたしたちが愛するのは、
  神がまずわたしたちを愛してくださったからです』

▼親が、幼い弟を可愛がるのを見て、健全ならば、兄は、ああ、自分もあんな風に可愛がって貰ったのだなと思うはずであります。しかし、歪んでいると、嫉妬することになります。弟を邪魔に思います。
これは人間の普通の家族関係ですが、神さまの家族関係にも全く当て嵌まると思います。
 嫉妬や憎しみのような感情が生まれてくるのは、つまりは、神さまの愛が見えていないのではないでしょうか。

▼この教えは、家族に対する教えでは必ずしもありません。教会に対する教えです。人の人のと神さまの関係が損なわれていれば、兄弟の間が平和でいられる筈がありません。
 逆に言えば、兄弟間の平和を取り戻す術は、神さまの関係を取り戻すことによるのです。

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