ここに水があります

2015年6月21日聖霊降臨節第5主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。
 「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。
  毛を刈る者の前で黙している小羊のように、
    口を開かない。
  卑しめられて、その裁きも行われなかった。
  だれが、その子孫について語れるだろう。
  彼の命は地上から取り去られるからだ。」
 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」† そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。

使徒言行録 8章26節〜38節

▼最初にお断りしますが、今日の説教は、かなりの部分、4年前のものと重なります。説教題がそもそも同じです。前回の説教原稿は読まないで準備を始めました。説教題を決めた段階では、前回と同じ題だと言うことを忘れていました。結果は、とても似通った原稿になってしまいました。肝心な所こそ、似通っています。
 同じ牧師が同じ聖書の箇所を読むのですから、似たようなものになるのは、むしろ当然です。そのことを、予めお断りします。

▼空いている電車の向かい座席に、学生とおぼしき青年が座っていました。間もなく、分厚い文庫本を一冊取り出しました。カバーはしてありません。見るともなく見えたのは、『存在と時間』の題名です。名前も忘れかけていたハイデッガー。とても懐かしい気持ちがしました。本屋さんでも、とんと見かけることがなくなった名前です。小さな本屋さんには置いてないでしょう。

▼今日の聖書日課が、ずっと頭にありましたから、「読んで分かりますか」と声を掛けたくなりましたが、止めました。とても無理です。40年以上前に読んだ時でさえ、所々分かるような気がする箇所があるという程度の理解でした。今では殆ど覚えていません。
 まてよ、『存在と時間』だからハイデッガーだとは限らない。何しろ、男子大学生が読む本だ、同名の推理小説かも知れないと思いまして、家に帰ってからパソコンで検索しました。ハイデッガーしか出て来ません。漫画や推理小説ではないようです。

▼エチオピアの宦官がイザヤ書を朗読しているのを目撃したフィリポは、
 『読んでいることがお分かりになりますか』と、声を掛けました。
 エチオピアの宦官は、『「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ』と記されています。

▼『存在と時間』を学生一人で読むのは至難の業と言えましょう。余程、他の哲学書を読み漁った人でなければ、何が書いてあるかさえ分からないでしょう。私などはそうでした。
 しかし、分からないと言えば、聖書の方が、特に旧約、その中でも特に預言書は、分からないでしょう。何しろ、3000年近く、何千どころか何万何十万、それ以上の人が専門的に読み続けてきて、なお、難しいのが現実です。
 最も『存在と時間』の難解さと、イザヤ書の難解さとは、異質な難解さだと思います。

▼話が飛躍するようですが、関連しますし、直にエチオピアの宦官に戻しますので、少しおつきあい下さい。
 先日、教団の「新任教師オリエンテーション」に出席して参りました。
 そのことは月報にも記してあります。
 さて、その中で、とても驚くべきこと、また悲しむべきことを教えられました。最近、ここ10年ばかりでしょうか。若者の離業率が高いということが指摘されています。会社努めを始めて3年以内に職場を離れてしまう人が、三分の一を超えるそうです。
 驚くべきこと、また悲しむべきことと言いますのは、その後の話です。この傾向が、教会でも進んでいるというのです。つまり、新しく牧師になった人が、3年以内に教会を離れてしまう例が多いというのです。

▼その理由も示されました。説教に対する批判に耐えられないのだそうです。
 神学校で、最短でも4年以上学んで、それなりに確信も持って、説教壇に立ちます。しかし、教会員から、分からない、難しい、間違っている、賛成出来ないと批判され、傷つき、絶えられなくなるのだそうです。
 ここ10年ばかりの世の中の傾向と同じですから、今の青年牧師には、忍耐力が足りないのかも知れません。少子化時代で、何でも自分の望み通りになり、他人に批判される、叱られるというというような経験を、殆ど積んで来なかったというのが、理由かも知れません。

▼しかし、それだけではありません。批判する側にも問題があります。特に日本基督教団の場合、旧教派が合同して出来たという歴史があります。それぞれの教会が、教会員が、旧教派の伝統、考え方、説教理解、むしろ説教への期待というものを引きずっています。無意識の内にも、影響を受けています。
 その物差しで測ったならば、まして、裁いたならば、新人教師はひとたまりもありません。例えば、旧日本基督教会と旧ホーリネス教会では、これは簡単には折衷できない違いがあります。それぞれの特徴であり、美徳と言っても良いかも知れませんが、しかし、違いは違いであり、両者の真ん中に、落とし所を見つけるというのは困難でしょう。
 旧日本基督教会的訓練を受けた牧師の説教に、旧ホーリネス教会の人は、霊的な物足りなさを感じるかも知れません。具体的な教訓がないというかも知れません。旧ホーリネス教会的訓練を受けた牧師の説教に、旧日本基督教会の人は、聖書釈義が足りない、牧師の個人的感情が入り込んでいると、批判するかも知れません。

▼しかし、それが、教会論に基づくものならば、耐える意味もありますでしょう。勉強も必要かも知れません。互いの違いを見詰めながら、新しい教会の形成を目指すことが大事だし、不可能な業ではないかも知れません。
 しかし、語るということに、聞くということに、何の共通認識もなかったならば、不毛に終わるかも知れません。
 そもそも、新任教師ですから、経験が不足なのは当たり前です。牧師としても、一人の社会人としても。しかし、教会員が、自分の人生経験が豊富だからこそ、説教する者を単に未熟者としてしか見ないならば、これでは、牧師は勤まらないでしょう。

▼初代教会と言うのも未だ早い時期に、熱心に聖書を読む人がいました。声に出して朗読していた、つまり、聞いていました。エチオピア人の宦官と表現されています。
 宦官とは女帝に仕えるために、去勢された人のことです。何かしらの刑罰の結果そうされることが多いでしょう。宮刑、去勢は、この上ない恥辱です。しかし、これがために、日本で言えば大奥に出入り出来ますから、却って大きな権力を持つ場合があります。

▼このエチオピア人の宦官は、女帝の下で出世し、『女王の全財産の管理を』する程の地位にありました。
 その彼が『エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった』とあります。
 これが、何とも不思議です。エチオピア人の宦官が、しかも、『女王の全財産の管理を』する程の高官が、どうして『エルサレムに礼拝に来』るのだろうと思います。
 このことについては、説明可能です。当時ユダヤ教はエチオピアに伝わっていました。更に、キリスト教は、エチオピアに伝道しました。今日でも、エチオピア人にはキリスト者が大変多く、またユダヤ教徒も存在します。

▼もっと不思議なのは、この点です。宦官、つまり、肉体に重大な欠損を持った人は、エルサレム神殿に入ることを禁じられている筈です。そのために、例えば後で少し触れますが、使徒言行録で言えば3章の、所謂『うるわしの門』の前で乞食をさせられていた男は、この門を潜って宮の中に入ることは許されませんでした。
 申命記23章2節。
 『睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は、主の会衆に加わわることはできない』
 他にも、たくさん該当箇所を上げることが出来ますが、ここだけで十分だと思います。
 エチオピア人の宦官が、長い苦しい旅をしてまで、エルサレム神殿を詣でた理由が分かりません。エチオピア人の宦官が、『エルサレムに礼拝に来』ることは、実に不思議なむしろ不可解なことです。

▼エルサレム神殿から、距離的にも立場的にも、最も遠い所にいる人間が、『エルサレムに礼拝に来』たのです。
 別の言い方をすれば、遠いから来ることが出来ないという言い訳は通用しません。
 まして、教会に来ても歓迎されていないとか、教会は冷たいとか、おもしろくないとか、そんな言い分は通用しません。
 使徒言行録の3章に登場する乞食は、エルサレム神殿に一番近い所に、毎日置かれていたのに、エルサレム神殿から一番遠い人間でした。
 これらのことは、決して偶然ではありません。
 誰が、神さまから一番近いのか、一番遠いのか、そういう主題を持っているのです。

▼一方伝える側、語る側のフィリポを見ます。
 ステファノ、フィリポ他計7人は、食糧の配給という具体的な任務のために執事に選任されました。
 しかし、聖書には、彼らがそのような実務に就いたという記録は一切ありません。存在するのは、彼らが伝道し、説教したということです。

▼30~31節は、特別に、注目に値します。
 『宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」
と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ』
 フィリポは、馬車に併走しながら、宦官の朗読を聞いて、それがイザヤ書だと分かりました。おそらく何章何節かも。それ程に、聖書に通じていました。
 最初に申しましたように、エルサレム教会員の食事の世話など実務のために選出された筈の執事たちは、実は、聖書に通じた伝道者なのです。
 エチオピアの宦官は、逆境から這い上がった権力者です。実力のある政治家、もしかしたら実業家です。
 一方フィリポは、新人です。伝道経験だって、この使徒言行録8章に記されていることが全てでしょう。
 しかし、
 『宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」
と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ』
 このように記されています。
 社会的地位があり、聖書にも通じている人が、とてもそれだけの知識・経験を持たない、まして社会的地位を持たないフィリポに、『手引き』を頼んだのです。それが、熱心ということです。

▼『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』
 こうした謙虚さは、真に聖書に親しみ、そして、真摯に聞いているからこそのものであります。
 こういう姿勢で、新任教師の説教に聞くならば、確かに、信徒が説教者を育てるということにもなりますでしょう。
 
▼更に、34節。
 『宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、
だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。
だれかほかの人についてですか。」』
 何を質問するかによって、その人の理解度が分かります。全然分からないと、何を質問して良いのかさえ分かりません。聞いても、ピントのずれたことを聞いてしまいます。
 何が大事、何が要点で、何が些末なことなのか、その区別が付かないということが、理解出来ないということです。
 宦官は、一番大事なことに迫っています。
 
▼しかし、理解出来ないと言えば理解出来ません。
 殆どを理解出来ても、肝心なことが分からないのです。
 『預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。』
 この質問は、既にキリストに肉薄しています。しかし、理解出来ないと言えば理解出来ません。宦官はキリストを知りません。未だ、イエス・キリストに出会ってはいないのです。

▼35節。
 『そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、
イエスについて福音を告げ知らせた。』
 イザヤが預言したメシア・キリストは、あの十字架に架けられたイエスだということです。
 これが、旧約聖書全体の到達点だと言うのです。
 イエスはキリストだということに辿り着かないならば、聖書の知識は、完結しません。
 『聖書のこの個所から説きおこして』
 イザヤ書の、しかも、ここに引用されている箇所の前後こそが、キリスト預言の頂点だということです。そして、イエスはキリストだという、確信に導いてくれるものは、聖書しかないということです。

▼36節。
 『道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。
「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」』
 思いつきに聞こえるかも知れません。たった一日の出来事です。本当に、信仰が分かったのか、そも洗礼とは何かが分かっているのか、そんな疑問もあります。
 しかし、『洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』
 ありません。イエスはキリストだということが分かれば、それが信じられるならば、他に条件などはありません。
 逆に言えば、どんなに聖書の知識が豊富で、それどころか教会に通じていても、イエスはキリストだということが分からなければ、洗礼は受けられません。

▼見方を変えれば、宦官は、既に聖書を読み親しんでいました、自分なりに思いを巡らせていたのであります。だからこその、決断だとも言えましょう。
 また、こういう受け止め方も出来ますでしょう。
 洗礼を受けなくてはならないのです。そうしませんと、信仰は完結しない、と言うよりも、本当の意味で出発しないのです。

▼新共同訳聖書では、37節が欠落しています。口語訳にはあります。
 使徒言行録の巻末に付録の形で記されてあります。
 『フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」
と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」
と答えた』
 信仰告白こそが、決定的です。信仰告白以外に、洗礼に可否を決定するものはありません。宦官は、『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』と言いましたが、決定的なものは、勿論、水ではありません。信仰告白であります。

▼38節。
 『そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、
フィリポは宦官に洗礼を授けた』
 決定的なものは水ではありませんが、この水は単なる水ではありません。
 水は、聖書の中でしばしば、聖霊と重ねられています。
 信仰告白が、洗礼を受ける者の心の決断だとすれば、聖霊が与えられることは、神さまの御旨です。『水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた』とは、フィリポの指導によって、宦官が決断したけれども、全ては、神さまの御旨の中の出来事だということです。

▼39節。
 『彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。
宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた』
 新任教師オリエンテーションに出席した教師たちが、熱心に聖書を読む、謙虚に説教に聞く教会員を与えられて、御言葉の役者として働き、力を蓄える、そんな風に育つことを願うばかりでした。

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