愛に根ざし、愛に立つ

2016年9月11日聖霊降臨節第18主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

エフェソの信徒への手紙 3章14〜21節

▼『わたしは御父の前にひざまずいて祈ります』
 この箇所は、全体が祈りです。使徒パウロの祈りです。何しろパウロの祈りですから、大変に重要なものです。ですから『ひざまずいて祈ります』という祈りの形、形式も重要でしょう。
 私たちは、本当に『ひざまずいて祈』っているのか。ひれ伏す姿勢、仕える姿勢であるのか、祈りの場に導かれたことが、どんなに感謝すべきことであり、畏れ多いことであるのか、そういう思いをもって祈っているのかが、問われます。一番簡単に言えば、祈りとは『御父の前にひざまず』くことから始まります。神さまの前に立つのです。そういう自覚があるのかと、問われます。

▼お祈り上手と評価される牧師や信徒がいます。多分、今お話ししたような姿勢が整っているから、他の人にも、上手と聞こえるのでしょう。それはそれで素晴らしいことです。
 しかし、お祈りは上手下手ではありません。肝心なことは『ひざまずいて祈』っているのか。そういうひれ伏す姿勢、仕える姿勢が有るかどうかではないでしょうか。人様の祈りについてとかく言うことは憚られますが、もし、舞台の上に立ったような気持ちで、上手に祈り、人々から賞賛されて満足しているようだったら、それは祈りではないかも知れません。

▼何回もふれたことがありますが、詩人金子光晴にこんな言葉があります。
 「詩を書こうと思ったら、良い詩を書いてはならない。間違っても、人を感動させる詩を書いてはならない」
 この言葉は、説教、祈りにこそ当て嵌まると考えます。
 「祈りたいと思ったら、良い祈りをしようとしてはならない。間違っても、人を感動させるために祈ってはならない」
 祈りについて、私が今、詩人金子光晴の言葉を借りて表現したことに反対だと言う人も有るかも知れません。しかし、この言葉には反対出来ないと思います。マタイ福音書6章、主の山上の説教の一部です。
 『「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。
偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って
祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、
隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
7:また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べて
はならない。
  異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる』
 『わたしは御父の前にひざまずいて祈ります』このパウロの言葉は、深い教えだと考えます。

▼さて、祈りの姿勢以上に肝心なのは、その内容でしょう。
 先ず前提となる15節です。
 『御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています』
 ちょっと分かりにくい、意味を取りづらいところです。こういうときは、なるべく単純に読むのが良いでしょう。
 『その名を与えられています』、名とは聖書世界では命そのものです。かつては日本でもそうでした。『その名を与えられています』とは、神さまから命を与えられ、信仰を与えられ、神の国の市民として国籍登録されているということでしょう。

▼ここで、文言に拘れば、『天と地にあるすべての家族』、屁理屈的に読めば、信仰者もそうでない者も、他の宗教を信じている者もとなります。天地創造の神、全てをお作りになられた神ですから、この通りで間違いないでょう。
 しかし、パウロはそのことを強調しているのではありません。ここでは、矢張りごく素直に、神さまから命を信仰を与えられ、神の国の市民として国籍登録されている『すべての家族』と読むべきでしょう。

▼16節。
 『どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、
力をもってあなたがたの内なる人を強めて』
 先ず『内なる人』という言葉・表現が難しいのですが、パウロ自身がどんなところでこの言葉を用いているかを見ます。
 Ⅱコリント4章。16~18節。
 『だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」
は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たに
されていきます。
17:わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある
永遠の栄光をもたらしてくれます。
18:わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです』
 
▼今引用したのは、かの有名な『土の器』の話の直後です。『「内なる人」は日々新たにされていきます』。魂でしょうか、信仰でしょうか。命そのものでしょうか。
 何れにしろ、人間自分の力や努力で創り出すことの出来ないものです。また、その人の魂命に直結するものであって、表面的な姿のことではありません。

▼17節。
 『信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ』
 この箇所は主語と述語の関係が分かり難いところです。難しく考えても仕方がありません。『信仰によって』とは、人間一人ひとりの信仰のことでしょう。『あなたがたの心の内に』も勿論、人間一人ひとりの心のことでしょう。そこに、『キリストを住まわせ』て下さるのは神さまです。
 まあ、一番簡単に言えば、本当に信じるならば、人間一人ひとりの心の中に、キリストが共に居て下さるということです。
 キリストが心の内に共に居て下さる人間が、だからこそ、『御父の前にひざまずいて祈』るのだし、祈ることが出来るのです。
 キリストが心の内に共に居て下さらなければ、本当には祈ることは出来ません。

▼さて、これも未だ、祈りの姿勢のことかも知れません。誰が誰に向かって祈るのかということが述べられています。
 17節で、祈りの内容になるでしょうか。
 『あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように』
 これがパウロの祈りです。『愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださ』いと祈っているのです。
 パウロもその時々に、いろいろなことを祈っていますから、ここで言葉に出して祈っていないことに注目しても仕方がないかも知れません。しかし、それにしても、パウロは他のことをではなく、『愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださ』いと祈っているのです。何よりも先にこのことを、他のことは省略しても、このことを祈っているのです。

▼パウロのこの心境は良く分かります。そんなふうに言うとおこがましいと思われるかも知れませんが、良く分かります。
 私も赴任した先々の教会で、このことで苦しめられたからです。過去のこととはいえ、具体的な人間の登場する話ですから、あまり詳細には言えませんが、押さえて話します。
 大曲教会では、二人の代表的な長老が、全く対立していました。片方が先に来て教会にいると後に来た方は帰ってしまう程でした。青年たちもこの二人の系列下に入れられて、何々派何々派に分けられてしまいます。対立した原因きっかけは何であったのか、誰も知りません。少なくとも、青年たちは知りませんでした。しかし、深刻でした。この二人共が、私を仲間に入れようとしますから、私は身が引き裂かれる思いでした。

▼或る時、荒井源三郎牧師に呼び出されました。叱られるのかと思いましたら、荒井牧師が私に謝るのです。あの二人のことは、申し訳ない。荒井源三郎の力の足りなさだ、許してくれと言うのです。
 そして、「二人とも、出来が悪いがぼくの息子なのだ」。
 注釈する迄もありませんが、勿論実の息子ではありません。

▼或る時、対立する長老の一人がやって来まして、私に謝るのです。竹澤先生が苦労しているのは分かる、申し訳ない、昔はあんなではなかった。年には勝てない。しかし、俺の親父なのだから、許してくれ。
 二人の対立で私を苦しめている、許して欲しいではなくて、荒井牧師が年取って伝道師にいろいろと面倒くさいことを言う、それを許して欲しいという話だったのです。

▼白河でも、松江北堀でも、教会員同士の対立には苦しめられました。これ以上例を挙げる必要はありませんでしょう。人間とはそんなものです。教会もそんなものです。
 しかし、対立していても、その結果、教会に害をなしていても、その根底に愛があるならば、神さまは赦して下さるかも知れません。
 もし、愛ではなく、他のことで動かされているのなら、これは、救いようがないでしょうか。

▼18節、後半から19節前半。
 『キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
  人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり』
 『キリストの愛』は人間の物差しでは測りきれるものではありません。そうでなかったなら、私たちはとても赦しと救いに与ることは出来なかったでしょう。それなのに自分の物差しで他人を裁き、憎み、退けるのが人間の現実です。
 卑近な具体例を示すまでもありません。
 マタイ18章21節以下の譬え話があります。長いので省略します。後でご覧下さい。末尾部分だけ引用します。
 32~35節。
 『32:そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。
お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
33:わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんで
やるべきではなかったか。』
34:そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、
  家来を牢役人に引き渡した。
35:あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、
わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう』
 
▼19節。
 『そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように』
 『神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずか』る道は、神の赦しを感じ取り、罪を告白して、兄弟を赦すことにしかありません。
 祈りによって、他の人を赦し受け入れるなら結構です。しかし、祈りによって逆のことをする人もいます。
 これも卑近な具体例を示すまでもありません。
 ルカ18章9節以下の譬え話があります。
 『ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、
わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者
でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
12:わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13:ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、
胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
14:言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、
  へりくだる者は高められる』

▼20節。
 『わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、
思ったりすることすべてを、
  はるかに超えてかなえることのおできになる方に』
 ここについては、先週の箇所が全く当て嵌まると思います。
 神さまは、私たちが祈っても祈っても願いを叶えて下さらない方ではありません。一つの願いを叶えて貰うためには、100度祈らなければならない方ではありません。しかし、私たちの欲望に仕えるランプの精でもありません。神さまは、『わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえる』方なのです。

▼最後に、18節の前半と、21節。
 『また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に』
 教会のことは、『すべての聖なる者たちと共に』です。一人ひとりの勝手な願望、欲望は、祈りではありません。
 『教会により、また、キリスト・イエスによって、
  栄光が世々限りなくありますように、アーメン』
 このように、個人的な願望、欲望を超えて、初めて公同の祈りなのです。

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