羊の如くに彷徨っていたが

2016年9月4日聖霊降臨節第17主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。  主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
「この方は、罪を犯したことがなく、
その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

ペトロの手紙一 2章11〜25節

▼つい数週間ほど前に、テレビを見ていましたら、種田山頭火という名前が出て来ました。その作品や人生が取り上げられていたということではありません。しかし、妙に心に残って、以来山頭火のものを読み漁りました。と言いましても、せいぜい入り口程度でしょうが、これからも読むことになるかと思います。その次いでみたいに、若山牧水も久し振りに読みました。この人のことは前から大好きですが、初めて日記と言いますか、旅行記を読みました。これも、少しずつ読みたいと思っています。

▼種田山頭火、若山牧水と名前を上げましたら、もうお分かりかと思います。二人とも、漂泊の詩人です。山頭火に至っては、殆ど乞食のような風体で、実際に乞食(こつじき)、これは仏教用語で、綺麗な言葉、有り体に言えば乞食をしながら旅したことが知られています。ワープロで乞食と打っても変換出来ませんでした。同じことですが、乞食は出て来ます。

▼何故急に、種田山頭火、若山牧水という漂泊の詩人に興味が湧いたのか、理由ははっきりしています。数週間前から、一ペトロ2章11節が念頭にあったからです。
 『愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、
仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい』
 私たちは、善し悪しは別として、人生という旅を歩む、旅人です。悲しいかな、今日というこの日に立ち止まることは許されていません。否応なしに今日という日から明日へと旅だって行かなくてはなりません。それは、時に苦痛であり、時に慰めでもあります。

▼この頃、世の人々も、私たちキリスト者もこのことを忘れているのではないでしょうか。旅人だということを忘れているのではないでしょうか。
 ヒィリピ3章20節。
 『しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・
  キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています』
 これは、ほんの一例に過ぎません。旧約聖書のアブラハム以下の族長たちに始まって、使徒言行録に記された伝道旅行、そもそもイエスさまご自身、旅の内に日々を過ごされました。

▼明治期、切支丹禁止令が解かれ、布教が容認された時、そも聖書の教えをどのように言い表すのか、逡巡と議論があったそうです。キリシタンとか耶蘇教は印象が良くなかったと思います。天主教も有力でした。議論の結果、キリスト教と呼ばれるようになりました。もう一つの有力候補は、キリスト道だったそうです。
 聖書の歴史を踏まえますと、キリスト教よりもキリスト道の方が適切だったかも知れません。
 これは言葉の遊びではありません。キリスト教ですと、教えを聞く、学ぶという意味合いが強くなります。キリスト道ですと、実践、修行、そういう響きになろうかと思います。

▼『しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・
  キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています』
 キリスト教がいいか、キリスト道の方が適切か、分かりませんが、私たちの信仰は道であることは確かでしょう。
 ヨハネ福音書14章6節。
 『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』
 イエスさまという道筋を経て、天の本国に辿り着くのが、信仰の道です。私たちの信仰は旅を行くものです。

▼旅を行くとは、現在地は仮に過ぎないということです。現在持っている持ち物全ては、旅を続けるための道具であってそれ以上のものではないということです。
 『魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい』とは、旅にあることを忘れて、持ち物や立場や人間関係などを、絶対のものと思い込むことを『避けなさい』だと思います。要するに旅を続けなさい、道を歩きつづけなさいです。それを立ち止まらせる力こそが、『魂に戦いを挑む肉の欲』です。

▼11節が長くなりました。12節を読みます。
 『また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、
彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、
  あなたがたの立派な行いをよく見て、
  訪れの日に神をあがめるようになります』
 ちょっと見、11節とは無関係のことを言っているようにも思えます。
 旅人なのだから、この世の人々との関わりなどどうでも良いというふうに、続くのが自然ではないでしょうか。しかし、『異教徒の間で立派に生活しなさい』とあります。
 異教徒の間の倫理や道徳は、信仰に基づかない間違ったものかも知れません。しかし、これを糺すこと、改革することが、何よりも大切なことではありません。

▼郷に入らば郷に従えということになるでしょうか。旅人なのです。寄留者なのです。旅人であれば、寄留者であれば、立ち寄った地の法律を守らなければなりません。しかし、その国の国民ではありませんから、とことんこれに染まることはありませんし、染まってはなりません。

▼13節。
 『主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい』
 『人間の立てた制度に』過ぎないことを承知の上で、これに『従いなさい』と言います。それこそ、旅人であれば、寄留者であれば、こそです。

▼13節後半と14節。
 『それが、統治者としての皇帝であろうと、
14:あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、
皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい』
 一応、この権力は善悪を弁え、善のために秩序を守る立場にあるようです。
 しかし、この当時のローマ帝国が、キリスト教に対してどんな姿勢でいたかを考えれば、決して、長いものには巻かれろとか、教会は教会、ローマはローマだから、あまり向きになるなとかという穏健な思想・教えではありません。

▼3章14~15節。
 『しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。
人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
15:心の中でキリストを主とあがめなさい。
  あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、
  いつでも弁明できるように備えていなさい』
 3章18節。
 『キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、
正しくない者たちのために苦しまれたのです。
  あなたがたを神のもとへ導くためです』
 4章12節。
 『愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる
火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、
  驚き怪しんではなりません』
 4章14節。
 『あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。
栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださる
からです』
 決して安穏な時代ではありません。ローマはキリスト教の庇護者ではありません。全く逆です。
 そのことを前提に、躓くな、倒れるな、どんな場合でも、ただ、信じる道を歩きつづけなさいと説いているのです。
 穏健な思想・教えではありません。むしろ、過激な思想なのです。戦いなのです。ただ、その武器が違います。

▼3章15~17節。
 『心の中でキリストを主とあがめなさい。
あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、
  いつでも弁明できるように備えていなさい。
16:それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するように
しなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活を
ののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
17:神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、
  悪を行って苦しむよりはよい』
 4章7~9節。
 『万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、
  身を慎んで、よく祈りなさい。
8:何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
9:不平を言わずにもてなし合いなさい』
 穏健な思想・教えではありません。むしろ、過激な思想なのです。戦いなのです。ただ、その武器は、イエスさまが十字架をもって授けてくれた愛の言葉なのです。

▼2章15節に戻ります。
 『善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、
神の御心だからです』 
 『善を行』うことこそが、悪と戦う武器なのです。『善を行』うことによって、『愚かな者たちの無知な発言を封じることが』出来るのです。声高に悪を責め立てたところで、何の効果もありません。じっと耐えて、『善を行』うことこそが、悪と戦う方法なのです。
 かなり過激な思想です。穏健な思想・教えではありません。

▼16節。
 『自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す
手だてとせず、神の僕として行動しなさい』
 ここにはパウロに通じる思想があります。自由とは、自由気ままに振る舞うことではありません。自由とは、自分の思い通りに事を運ぶ事ではありません。そうではなくて、『神の僕として行動』することこそが、自由なのです。
 これも、かなり過激な思想です。穏健な思想・教えではありません。

▼17節。
 『すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい』
 『皇帝を敬いなさい』だけに注目して、ペトロ書は、体制迎合的だとか、当時の社会矛盾不正に目を瞑っているとかと、批判する人がいます。
 これに対して、全く逆の立場、キリスト教国家の歴史を見ても、ダビデを初めとする旧約聖書の王の存在を鑑みても、王は神の立てられた存在であり、キリスト者といえども、むしろキリスト者だからこそ、王に、国家に忠実であれと言う人がいます。

▼どちらの人も、次の18節を読んでいないようです。
 『召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。
善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい』
 主人は主人だから正しいなどとは言っていません。王は王だから正しいなどとは言っていません。
 しかし、これに『心からおそれ敬って』従うことが、即ち、『善を行』うことこそが、悪と戦う武器なのです。『善を行』うことによって、『愚かな者たちの無知な発言を封じることが』出来るのです。
 かなり過激な思想です。穏健な思想・教えではありません。

▼19節。
 『不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて
苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです』
 20節。
 『罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。
しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、
これこそ神の御心に適うことです』
 これがキリスト者の戦いなのです。

▼21節。
 『あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストも
あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、
模範を残されたからです』
 やはりキリスト教、それを否定する必要はありませんが、キリスト道だと思います。私たちは、イエス・キリストの十字架の道をこそ、歩むのです。

▼23~24節をこそ丁寧に読むべきでしょうが、時間のこともありますし、むしろ、主題を別にして読むべきだと考えますので、次の機会に譲ります。
 最後の25節。
 『あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、
監督者である方のところへ戻って来たのです』
 若山牧水の歌の中でも、最も愛されている歌、
 白鳥はかなしからずや 空の青海のあをにも 染まずただよふ
 これは漂泊の者の定めでしょう。そして、キリスト者の生き方にも通じるものがあります。
 山頭火 … 分け入って分け入っても青い山 笠にとんぼをとまらせてあるく
 まっすぐな道でさみしい ぶらさがってゐる烏瓜は二つ
 すべってころんで山がひっそり 雨の山茶花の散るでもなく
 秋となった雑草にすわる 笠も漏りだしたか 
 
 まっすぐな道でさみしい この一節が心に染みます。

▼そして、次いでながら、芭蕉 … この道や行く人なしに秋の暮れ
 何だか、身につまされます。この句はおそらくは、俳諧の道を真に継承する人はいないのかという意味が込められていると思います。私たちの道はどうでしょうか。
 『あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、
監督者である方のところへ戻って来たのです』
 私たちには確かに道があります。この道はイエスさまが歩いた道であり、代々の聖徒たちが歩いた道です。
 私たちは決して孤独ではありません。

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