キリストを生きる

2016年10月2日聖霊降臨節第21主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共に
そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

フィリピの信徒への手紙 1章12〜30節

▼12節。
 『わたしの身に起こったことが、
  かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい』
 何とも大胆な言葉です。『かえって』と言われていることからも分かりますように、『わたしの身に起こったこと』とは、大成功を収めたとか、まして表彰を受けたというようなことではありません。
 全く逆で、13節『わたしが監禁されているのは』、14節『わたしの捕らわれているのを見て』、パウロが捕らえられ、牢屋に入れられたことを指しています。
 普通なら、本人にとっては挫折、従う者にとっては躓きの筈です。それをパウロは『かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい』と言っています。
 『役立ったと知ってほしい』と言うのですから、コリント教会員には矢張り躓きだったようです。当然です。それをパウロは敢えて、『かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい』と言うのです。

▼どんなふうに『福音の前進に役立った』のでしょうか。
 13~14節。
 『わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、
その他のすべての人々に知れ渡り、14:主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、
  わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、
  御言葉を語るようになったのです』
 13節はまあ簡単に言えば、宣伝になった、評判になったということでしょう。14節は、パウロが福音のために捕らえられたのを見て、自分たちも頑張らなくてはと、むしろ張り切ったということでしょう。あまり具体的には記されていません。

▼実は、なる程、これが『福音の前進に役立った』のだと納得できるようなことは起こっていません。使徒言行録の5章にはペトロたちが捕らえられ牢屋に入れられた時に地震が起こり、牢獄が破壊されたにも拘わらず、ペトロは逃げたりせず、このことで、守衛長がキリストの働きを信じたという奇蹟が記されています。
 これこそ、迫害があったけれども『かえって福音の前進に役立った』出来事でしょう。しかし、ここでは特別不思議なことが起こってはいません。『かえって福音の前進に役立った』のは、あくまでも弟子たちの気概の問題です。パウロ先生がひどいことになっている、その分自分たちが頑張ろうと考えた、それが『かえって福音の前進に役立った』ということでしょう。

▼16節で、この様子を説明しています。15から続けて読みます。
 『キリストを宣べ伝えるのに、善意でする者もいます。
 わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのです』
 パウロが投獄されたことを『福音を弁明するために捕らわれている』と受け止めて、自分たちもと、パウロの後に続くのです。

▼これとは逆のことが15節に記されています。
 『キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば』
 こんなことがあるのです。『ねたみと争いの念にかられて』『キリストを宣べ伝える』とは、何とも奇妙なことで、そんなことがあるのかと疑うのですが、パウロは間違いなく、あると言っています。『キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者』がいるのです。
 17節で同じ主旨のことが繰り返されています。
 『他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという
不純な動機からキリストを告げ知らせているのです』
 何らかの理由でパウロに反感を持つ人たちがいました。この人々が、パウロの投獄を奇貨として、反パウロ主義と福音とを一緒に伝えていると言うのです。
 どんな内容の福音宣教だったのかは、具体的には記されていませんが、おそらくは、パウロは間違った福音を宣べ伝えたからこそ投獄されたのだ、神の愛、神の恵みを失ったからこそ投獄されたのだと主張したのでしょう。

▼この悪意に対してパウロはどのように反応したでしょうか。
 18節。
 『だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、
キリストが告げ知らされているのですから、
  わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます』
 何と大胆な思考でしょう。なかなか、こんな風には考えられないものです。
 同じ福音を宣べ伝えているとしたって、いろいろな違いを見つけては、互いに非難し合うのが、2000年の教会の歴史的現実です。パウロに反感を持ち、パウロの足を引っ張るために宣べ伝えている、そんな人たちの業を、パウロは非難しないどころか、容認しているのです。

▼どうしてこんな考えを持つことができるのでしょう。やはり信仰でしょう。 19節。
 『というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助け
とによって、このことがわたしの救いになると知っているからです』。
 パウロは表面的なことで、事柄を見ません。人を見ません。
 そして、『イエス・キリストの霊の助け』と『あなたがたの祈りと』を、信じています。『あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助け』が、最後には『救いになると知っている』のです。『救いになると知っている』です。『救いになると』信じているとは言いません。『知っている』と言います。これは確信です。

▼先日若い牧師が、わざわざ夏休みを取って、玉川教会の礼拝に出席してくれました。人に勧められて、先輩牧師の説教を聞くために、玉川教会を選び、やって来てくれたものです。嬉しいことです。
 実は私も、夏休みの度毎に、他教会に出席します。特に若い牧師を選んで、予告なしに出席します。自分の勉強のためです。
 若い人は気を遣って、先生がおいで下さると知っていたら説教をお願いしましたのに、と言いますが、それでは駄目で、話すためではなく、聞くために出かけます。予告したら、私を意識して説教原稿を書くかも知れませんから、大抵予告なしで出ます。

▼わざわざ出掛けて行きながら、つい、欠点が見えて、あれはちょっとまずいなとか、こうすれば良いのにとかと、考えてしまいます。勿論、いろいろと教えられることもあります。
 ある程度分かっているからこそ、謙虚に聞くことは難しいものです。
 しかし、パウロはそんな域の話ではありません。パウロの足を引っ張ることを目的として伝道する人を、それでも、イエス・キリストを伝えているのなら結構だと言うのです。
 人の話を聞けなくなってしまうのは、自分の体験や知識への拘泥があるからです。パウロが拘泥するのは、唯一、キリストが伝えられているか、キリストが語られているかだけなのです。

▼20節。
 『そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、
生きるにも死ぬにも、わたしの身によって
  キリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています』
 パウロにとって『キリストが公然とあがめられる』ことが大事であって、他のことは絶対に大事なことではありません。『キリストが公然とあがめられる』ならばパウロが恥をかくことなど些末なことなのです。
 これは、なかなかです。私たちの現実はこのようにはいきません。ややもすれば、キリストを宣べ伝えることに熱心である以上に、自分を宣べ伝えることに熱心だったり、キリスト・教会のことよりも自分の面目の方が大事だったりするのです。そして、そのことこそが、分派分裂の原因になります。

▼21節。
 『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです』
 禅問答じみた言葉で、分かり難いのですが、その意味は22節以下がに記されています。

▼22節。
 『けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、
どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません』
 多くの人間にとって『肉において生き続け』ることが、最大の関心、目標です。新聞、テレビ、週刊誌、健康に関することで溢れています。アレが体に良い、ナニが体に悪い、そんな話題で一杯です。5分でできる健康体操、1分で充分健康トレーニング、そんなものが無数にあります。5分体操、1分トレーニング、これをこなすためには、一日10時間は必要ではないでしょうか。
 健康に良い食べ物、悪い飲み物、こういう記事を見ておりますと、私なりに出した結論は、あらゆるものが健康に効く、そしてあらゆるものが、健康を損ねる、水も空気も例外ではない。こういうことではないでしょうか。
 まあ、こんなことを言うと、健康熱心、健康教徒には嫌われるでしょう。健康教徒は、健康のためならば命も要らないそうですから。

▼脱線から戻ります。
 パウロには『肉において生き続け』ることが、最大の関心、目標ではありません。パウロの関心、目標は、福音宣教のために『実り多い働きができ』るかどうかだけです。これが、難解な、『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです』という表現の意味でしょう。

▼23節。
 『この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、
キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい』。
 『この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい』これだけ聞きますと、パウロは厭世家のようです。自殺願望さえ疑います。しかし、そんな話ではありません。長生きや健康や、この世での成功には関心がないということです・むしろ、拘泥しないということです。

▼単なる厭世家ではないということは、24節を読めば分かります。
 『だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
  肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です』
 パウロにとって大事なのは、教会です。教会が未だパウロを必要としているから去ることはできないと言っています。
 今日、私たちはフィリピ書を読んでいます。一方、聖書研究祈祷会ではⅠコリントを読み続けています。この説教原稿の前に、2回分の聖書研究祈祷会原稿を書きました。頭の中で、フィリピ書とⅠコリントとが重なってしまいます。
 コリント教会には、激しいパウロ排撃運動が起こっていました。今日のフィリピ書に描かれることとが混同してしまいます。
 特に17節、『他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです』。これはⅠコリントと同じではないでしょうか。
 もし同じだとするならば、『肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です』とは、フィリピ教会員が、パウロを慕っていて、自分たちの教会を指導して貰いたいということではなくて、真逆かも知れません。まあ、断定的なことは言えません。

▼25節。
 『こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、
  いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう』
 まあ、これを読みますと、フィリピ教会員はコリント教会員とは違うかも知れません。

▼26節。
 『そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、
キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、
わたしゆえに増し加わることになります』。
  分かり難い表現です。
  他の翻訳を参照します。
  2018年に発行される予定で未刊行の、新翻訳事業パイロット版が手元にあります。
  『そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くことによって、
キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、
わたしによって満ちあふれるでしょう』。
 少し分かり易くなったでしょうか。全然でしょうか。
 
▼先を読みます。27節。
 『ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、
そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、
わたしは次のことを聞けるでしょう』。
 26節の続きだということは分かります。
 『あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、
  心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
  28:どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと』。
 少し見えて来ました。 
 『反対者たちに脅されてたじろぐことはない』ここから考えた方が良いようです。そして『一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており』、
 だからこそ、『わたしが再びあなたがたのところに行くことによって、
キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、
  わたしによって満ちあふれるでしょう』
 パウロと自分たちが一緒だった、同労者として戦っていたことを確認し、慰められ励まされ、力づけられ、喜びに溢れるということです。

▼28節後半。
 『このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。
これは神によることです』
 先程、パウロに反対する者をも、彼らがキリストを宣べ伝えているのなら、結構ではないかと言っていると解説しました。その通りなのですが、ことは単純ではありません。彼らは、結局、キリストを宣べ伝えていないのです。だから『滅び』が見えています。
 だから、パウロは彼らの評価に熱心ではありません。キリストを宣べ伝えていないのなら『滅び』が見えているからです。パウロが裁くまでもないのです。

▼29節。
 『つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、
キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです』。
 『キリストのために苦しむこと』こそがキリストと共にあることの証であり、正しい道を歩いていることの証拠です。くじけるどころか、大いに喜ぶべきことなのです。これが、パウロの大胆な信仰です。

▼30節。
 『あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いていま
す。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです』。
 パウロと同じ戦いをすること、パウロと同じ苦労を味わうこと、パウロと同じ迫害を受けることこそが、キリストと共にあることの証であり、正しい道を歩いていることの証拠です。くじけるどころか、大いに喜ぶべきことなのです。
 これは、現代の私たちの教会にも全く妥当することなのです。

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