人生のゴールと賞

2016年10月16日降誕前第9主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

フィリピの信徒への手紙 3章12〜16節

▼『わたしは、既にそれを得たというわけではなく、
  既に完全な者となっているわけでもありません。
  何とかして捕らえようと努めているのです』。
 12節は、要するに、道の途上だということです。『自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです』、つまりイエスの道を歩いているということです。イエスの道、イエスへの道、イエスとの道、いろいろと表現できるかも知れませんが、とにかく、イエスの道を歩いているということです。
 その道で、パウロは道半ばです。未だ目的地には着いていません。しかし、目的地が見えないわけではありません。少なくとも、目的地を持っています。
 この道は、単に道路ではなく、日本語で言う、道(どう)に近いと考えます。剣道、柔道、茶道、その道(どう)です。
 剣道でいうならば、未だ免許皆伝ではないけれども、その道を志し、精進しているということです。

▼13節で、『わたし自身は既に捕らえたとは思っていません』と、同じことをもう一度繰り返し言い、更に『なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ』、つまり、前進あるのみだと言います。
 と言いますと、何か猪突猛進に聞こえます。確かに使徒パウロには、常人がついていけないようなひたむきさがあります。

▼ここまでの所を、人生に準えて考えたらどうでしょうか。実は、パウロは人生そのものを、語っているのです。
 人生は、一本の、一本だけの道を歩くものだということは、誰も否定出来ません。曲がりくねっているように見えようとも、実は、一本道です。様々な別れ道があって、いろんな道筋がありそうだけれども、実は、一本道です。

▼問題は、その道が何処につながっているかです。私たちには、おうおう、それが分かりません。分かっていれば、いろいろと対処し、備えをし、もっと豊かに、もっと幸福に歩むことが出来そうですが、それはかないません。
 不思議なものです。高村光太郎の有名な詩を持ち出すでもありませんでしょう。私たちの歩む道は、一歩先が見えません。常に、奈落に踏み出すようにして歩いているのです。このことは、現代でこそ、全く妥当します。
 銭形平次とかの時代劇では、家を出る時に、おかみさんが火打ち石を打ちます。これは安全祈願です。無事に帰宅できますように。銭形平次は60分のあいだに、いろいろと危険な目にも遭いますが、60分後には、ちゃんとおかみさんのところに帰って来ます。
 怪しいのは現代です。現代こそ、朝出掛けて、夕に無事帰ってくることができるかどうか不安な時代なのです。

▼私たちが歩いて来た道を振り返ることは出来ます。振り返れば、見えます。しかし、悲しいかな、これは絶対に引き返すことの出来ない道です。
 このことは、現在、重篤な病を得ている人には身につまされることですが、健康な者だって、何も変わりません。何一つ変わりません。多少の予測を立てることは出来ましょうが、当たるかどうかは、分かりません。

▼この前提で、14節を読みます。
 『神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、
  目標を目指してひたすら走ることです』
 いろいろと考えを巡らしたり、場合によっては批評出来る余地があるかも知れません。しかし。肝心なことは、パウロは自分が歩むべき道を見出し、それも一本道であって、パウロに選択の余地はないけれども、その道を神によって与えられた道として選び取り、そして、歩くということです。
 このことも、現在、重篤な病を得ている人には親身なことですが、健康なものだって、何も変わりません。何一つ変わりません。多少の予測を立てることは出来ましょうが、当たるかどうかは、分かりません。

▼フィィリピ3章を読み、昔の超人気アニメ『巨人の星』を連想させられました。主題歌「思い込んだら、試練の道を~」、私の年代なら、特にアニメ好きでなくとも誰もが暗唱しています。所謂スポ根アニメが花咲いた時代で、その頂点が『巨人の星』だったと思います。主人公・飛雄馬の父の名は一徹。一徹、一途、ひたすら、現代日本人には、遠い遠い言葉になってしまいました。

▼つい最近、新大久保で用事を済ませた後、徒歩、電車、バス、徒歩で出版局に向かうよりも、歩いて行こうと思いました。所要時間はほぼ変わりません。途中、やや回り道になりますが、戸山公園の中を通った方が気持ちがいいと、そのコースを取りました。戸山公園は随分久しぶりだったので、紅葉を楽しみ、何より、ぶらり散歩の贅沢を味わうことにしました。
 一徹、一途でなくとも、ゆっくり行くのもいいじゃないか。のんびりが一番 … と言って、パウロさんに逆らったらいけないでしょうか。

▼ふと気付いたら現在地が分からなくなっていました。何時の間にか公園内にはいません。引き返すのもしゃくだし、そのまま進みました。おおよその見当は付く筈ですが、だんだん公園から遠ざかります。まあどこかに出るだろう、まさか上野までは行かないだろうと、なお30分。馴染みのある場所に出ました。出版局から遠くはありませんでした。20分くらいでしょうか。
 結局予定より1時間遅れで着きました。
 時々似たようなことがあります。と言うか、します。迷子になるのは渡しの趣味、楽しみです。

▼人生も迷子でかまわないじゃないかと思うこともあります。しかし、目的、約束があったら話が違います。寄り道は駄目だし、妙に近道をとったら取り返しのつかないことになります。一徹、一途、これしかありません。
 天国は、神の国は、遊園地でしょうか、それとも目的地でしょうか。人生は散歩道でしょうか、それとも。門限は?遅刻はどこまで大目に見て貰えるのでしょうか?、そんなことを考えたら、また迷子になりそうです。
 
▼もう一度14節を見ます。
 『神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、
目標を目指してひたすら走ることです』。
 私たちはどうしても、1着になる人がいれば、その分、誰かがビリになってしまう。そういう競争を連想しますが、パウロが言いたいのはそんなことではありません。
 
▼今日の箇所より少し後になります。4章11節の後半から、13節まで引用します。
 『わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
12:貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、
空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、
いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
13:わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です』。
 この言葉と、一所懸命に働いて、勝利を得ましょうというのは、とても一つにはなりません。
 『なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
 ~賞を得るために、目標を目指してひたすら走る』
 自分歩いている道が、神さまが用意して下さった道だと信じ、迷ったり、悔やんだり、まして不運・不幸を呪ったりしないということです。

▼得られる賞とは何かは、きょうの箇所の直前に記されています。
 3章9~11節を見ます。
 『わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
 10:わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
 11:何とかして死者の中からの復活に達したいのです』。
 ここを読みますと、『賞を得るために、目標を目指してひたすら走る』とは、自分の力で努力で、何物かを獲得することではないとはっきり記されています。
 むしろ、『神から与えられる義』を信じることが、強調されています。
 『キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、
  その死の姿にあやかりながら』
 つまりは、キリストの道を歩き続けるということです。今歩いている道が、キリストの道だと信じて歩き続けるということです。

▼『何とかして死者の中からの復活に達したいのです』。
 これがパウロの考える賞です。
 人間だから、人生だから、絶対に免れ得ない心の苦悩、体の痛みも、今歩いている道が、キリストの道だと信じて歩き続けるならば、耐えられるとパウロは言うのです。

▼15~16節は、改めて読みません。何だかとても難しいことをいっているうにも聞こえますが、単純に言えば、道を逸れてはならない、信じて歩き続けなさいということでしょう。

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