人生の分かれ道

2016年11月6日降誕前第7(永眠者記念)主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。
アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。
アブラムはロトに言った。
「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。
主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。
「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」
アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。

創世記 13章1〜18節

▼人生では何度か別れ道に差し掛かります。右を選ぶことも出来るし左に折れることも出来る、そういう局面があります。或いは、別れ道であっても、否応なしに決められた道を強いられることもあります。自分で選んでであれ、強いられて仕方なしにであれ、人は一本の別れ道に足を踏み出します。
 それが正しい選択であったのか、間違っていたのか、誰にも分かりません。本人にも分かりません。
 この道を選んで良かった、上手く行ったと思うことがあります。しかし、本当に正解だったかどうかは、分かりません。選ばなかったもう一本の方が、もっと良かったかも知れません。一度選んでしまえば、引き返して試してみることは出来ません。引き返して試してみたとしても、それはかつて選ばなかった道、捨てた道ではなく、新しい別れ道に過ぎません。
 本人にも分かりません。
 この道を選んで良かった、大失敗だったと思うことがあります。しかし、本当に失敗だったのかは、分かりません。選ばなかったもう一本の方が、もっとひどかったかも知れません。

▼今日の聖書箇所の主人公アブラハムも、何度か、 … 何度も、別れ道に差し掛かりました。最初の大きな別れ道は、創世記12章に描かれる場面です。75歳になったアブラハム、この時には未だアブラムという名前ですが、彼は、主の言葉に従って、故郷を離れ旅立ちました。
 12章5節。
 『アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、
ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った』
 もう少し詳しく描かれていますが、何故神さまの言葉に従ったのかという肝心な点、私たちにとって一番関心が深い点については、何も記されていません。このことはいろいろな機会にお話ししますが、福音書における弟子の召命に引き継がれています。何人もの弟子たちがイエスさまの言葉に応えて後に従います。しかし、そこには何故、どんな思いで、ということは全く記されていません。
 アブラハムの場合も、イエスさまの弟子たちの場合にも、人間の側の思いは描かれていないのです。肝心なことは、人間の思いではなくて、神さまの思い、神さまの言葉だからです。

▼人間は、人生で何度か別れ道に差し掛かります。右を選ぶことも出来るし左に折れることも出来ます。だからこそ大いに迷い、立ち止まって一歩も進めなくなり、引き返したいと思います。しかし、人生には、正確には時間には、後戻りということはありません。
 ゲーテの『ファウスト』の最後は、『止まれお前は美しい』です。真理の追求・遍歴の果てに、人生の美しさを発見した時、『止まれお前は美しい』と言っても、時間は止まりません。
 数回前の説教で触れましたように、人生は、実は一本道です。無数の枝道、別れ道があるようですし、私たちは、その中からその都度一本を選び、或いは強いられて歩いて来たようですが、実は、元に戻ってやり直すことが出来ない以上、他の枝道はないのと同じです。
 別れ道はたった一つです。これが自分の人生だったと受け入れるか、こんな筈ではなかったと、悔いるか、別れ道はこれだけです。

▼『アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、
ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った』
 12章5節で注目すべきはこの一点です。『すべて携え』、これは、引き返すことのない旅立ちです。イエスさまの弟子たちの『網を捨てて』と一緒です。
 それが人生です。

▼神さまの声を聞いて故郷の町を旅立ったアブラハムとロトは、その後も、旅をし続けて来ました。そうして、今、大きな曲がり角、別れ道に差し掛かりました。
 13章5~6節。
 『アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、
たくさんの天幕を持っていた。
6:その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。
彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである』
 このように記されています。
 何という皮肉でしょう。
 貧しい者は、一つの部屋で、全てを分かち合って生きているのに、財産を沢山持っている者は、一緒に住むことが出来ないのです。
 土地やお金といった財産ならば、決定的ではないかも知れません。部屋を増築して一緒に住むことが出来るかも知れません。
 しかし、一番大事な財産、それぞれの生き方、価値観という財産が増えると、人は一緒に住むことが出来なくなるのです。
 一人ひとりがそれぞれに自分の人生の意味を見出し、多様な価値観に生きることこそが、豊かさということでしょう。
 しかし、そういう豊かさを獲得すると、人は一緒に住むことが出来ないのです。

▼このことは、私たちの教団や教会に当て嵌めて考えるべきことでしょう。豊になったことが、分かれなければならない原因だとすれば何とも皮肉で、何とも悲しいことです。
 しかし、それこそが現実かも知れません。

▼7節。
 『アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた』
とあります。
 富めるが故の争いです。
 貧しさ故の争いというものがあります。しかし、富めるが故の争いも存在するのです。
 私たちの教会はどうでしょうか。貧しい時がありました。しかし、教会の中に、教団に中に、激しい争いが起きたのは、むしろ、富が出来てからです。
 別れ道がなければ、一本道ならば、争いは起こらないのです。

▼アブラハムは、この争いを何とか回避したいと考えました。
 そこで、ロトとは分かれることにしました。8~9節。
 『アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしと
あなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。
  あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか』
 これは悲しいかな、極めて現実的な対処方法です。
 自分の財産、自分の人生、自分の価値観を持っている者が、互いに譲り合いながら協調していくことは、大変に困難なことなのです。
 互いに我慢して、それでも、やがては衝突することを避けられないのです。

▼この別れ道で、ロトは、豊かに見える土地を選びました。当然です。少しでも可能性が高いところを選びます。条件の良いところを選びます。
 しかし、この選択が正しいとは限りません。それが人生です。
 ロトの選択は間違っていました。これは、結果論ではありません。
 二つの道の内、条件が良いと見えた道を選んだことが間違いだったのです。
 財産が増えたことが、争いの原因となっていました。一緒に故郷の町を出て来た、叔父と甥の濃い血の関係であり、同士であり、同じ神さまのみ言葉に従った者が、しかし、財産が増えたことで分かれなければならなくなりました。
 その時に、ロトは、なおも、財産を増やす道を選んだのです。
 そのロトが破綻への道を歩むことになるのは、結果論ではありません。至極当然の結果なのです。
 偶然でもなければ、誰のせいでもありません。自分が、この道を選んだのです。引き返すことの出来ない、破綻への道を選んだのです。

▼『あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。
  あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。』
 アブラハムは、この大事な決断を、自分では行わずに、ロトに委ねました。無責任のように見えます。
 しかし、そうではありません。ロトに委ねたことこそが、大きな決断なのです。つまり、自分の考え・判断よりも、まして欲得よりも、甥のロトを大事にしたのです。
 ロトに譲ったのです。

▼この出来事が起こったのは、『ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所』と記されています。『そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった』とも記されています。
 つまり、アブラムとロトとの旅の、原点です。
 二人は、小さい家畜を飼いながら、交易も行っていたと考えられています。ですから、広い地域を巡回します。
 その旅の出発点であり、到着点でもあるのが、『祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所』なのです。
 このことも、私たちの信仰生活と重なるものがあるように思います。
 私たちは、巡回の旅を続けています。日曜日毎に、或いはクリスマス毎かも知れません。元の場所に戻ってくるのです。『祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所』礼拝の場へと、戻って来るのです。
 永眠者記念礼拝こそ、そのような礼拝でしょう。
 
▼広い地域を巡らないと、家畜はそこの草を食べ尽くしてしまいます。それが、アブラムとロトとの別れの原因でもありました。
 さて、ロトは、『主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた』その土地に、進んで行きました。
 しかしその場所は、
 『ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた』
 そのような土地でした。そのような土地に向かってはならないのです。これも、結果論ではありません。豊かさを絶対のものと考えた時に、人間は、ソドムを目指すことになるのです。
 ソドムの町は、『主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた』その土地に立てられた町なのです。

▼『主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。
 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。』
 東西南北を見渡しました。全てが見えました。
 『見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。』
 全てが約束されたのです。
 厳密には、既にこの約束はなされています。この箇所ほど具体的ではありませんが、11章に描かれていますように、約束のもとに旅立ったのです。
 全てが約束されているのに、その中の一部のものに拘って、それが得られないと、全てを失ったような気持ちになり落胆する、それが人間の現実です。

▼『あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。
大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。』
 これは、私たちキリスト者にとっても重要な約束です。
 使徒パウロは、『あなたの子孫』とは、血縁によるアブラハムの子孫ではなく、信仰による子孫、つまり、キリスト者のことだという論理を展開します。
 ここには旅の目的が、究極の目的が記されています。『大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう』。信仰の道を歩く者が、このように沢山になると預言されています。
 これは神さまの預言です。ならばそのようになるに決まっているのです。増えたり減ったりすると、一喜一憂するのが人間ですが、その必要は全く無用です。神さまの預言なのですから。
 実際、確実に増えて、減ることはありません。それは、今日の永眠者記念礼拝でこそ、証明されているのです。今年、名簿の人数は100人を超えました。現住陪餐会員よりも多くなりました。

▼『さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから』
 『アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、
そこに主のために祭壇を築いた。』
 帰って来るべき処があれば、それで十分です。「主のために祭壇を築」く場所があれば、それで十分です。少なくとも、信仰者にとってそれが一番大事なものでしょう。

▼アブラハムの旅は、人生そのものをなぞっていると思います。人生は旅です。旅の連続です。無数の別れ道の中から、進路を選んで、或いは強いられて歩いて行きます。
 しかし、神さまによって与えられた一本道なのです。

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