預言者が立てられた

2016年11月13日降誕前第6主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。

申命記 18章15〜22節

▼今日はせっかく、こどもたちとの合同礼拝なのに、何だか面白くない、難しそうな聖書箇所になっているなと、思われる方があるかも知れません。聖書日課だから仕方がありません。
 と言うだけではなく、ご心配なく、今日の箇所は、子どもたちにはぴったりです。と言いますのは、子どもたちの礼拝聖書日課は、教会連合教案誌を用いています。そこでは、半年にわたって、今日の箇所を含む一連の旧約聖書を読んでまいりました。聖書日課の、この箇所が、そのまま教会学校の箇所になっても全然違和感がない程です。
 と言うような話こそ、子どもたちにとっては、面白くない、難しい話だと考えます。そこで、教会学校の一連の旧約聖書を踏まえて、今日の箇所を読みたいと思います。

▼教会学校の順番でお話しします。
 創世記で、この世界と人間が作られた物語を読みました。その最初は、神さまの言葉によって、全てが形作られたということでした。また、神さまの息が人間に吹き入れられて、人間は生きる者、そして愛を知る者になったということでした。
 それから、人間の堕落と罪の物語を読みました。人間はあろうことか、兄弟を殺す者となり、兄弟を奴隷として売り飛ばす罪を犯しました。
 しかし、神さまはそのような人間をも、罪から、苦しみから救い出して下さいました。ヨセフの物語です。

▼そして、出エジプト記です。神さまはエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの人々を救出しました。しかし、人々には感謝よりも不平不満がありました。エジプトで奴隷だったの時の方が、おいしいものを沢山食べていたとつぶやきました。
 神さまは、このように不従順な者のために、神さまの教えを記した十戒を授けて下さいました。人々が、自分たちを正しく安全に導いてくれる存在が欲しいと訴えたからです。人々が不安だったからです。
 モーセが十戒を刻んだ石版を携えて山を下りた時、人々は金の子牛を作り、その周りで、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをしていました。

▼サムエルなどの預言者の物語も読みました。サウル王、ダビデ王の物語も読みました。特に、このことを思い出して下さい。
 イスラエルの人々は、自分たちにも王様が欲しいと訴えました。周辺の王様をいただく国々が強い軍隊をもって、イスラエルを攻め立てたからです。
 サムエルは、神さま自身がイスラエルの王で、お前たちをあらゆる困難から救い、今の生活を与えてくれたではないかと言います。もし王が出来たら、多くの若者が兵士として戦場に駆り立てられ、多くの女性が宮廷に召し出されるだろう、決してお前たちの生活が良くなるることはないと、警告しました。
 しかし、人々は、どうしても王が欲しいと訴え、ついに、サウルが王として立ちました。

▼サウル王の優れた所、逆に間違えてしまったことも、学びました。ダビデ王についても同様です。
 そして、今日の箇所になります。随分長い前置きになってしまいました。
▼15節をご覧下さい。
 『あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、
  わたしのような預言者を立てられる』。
 人々は、大きな力、指導力を持った王が欲しいと訴えましたが、王ではなく、預言者を立てるのが神さまのお考えでした。
 何故なら、先程触れましたように、神さまの言葉、神さまの御心が、この世界を、そして人間を産み出しました。この神さまの言葉、神さまの御心こそが、人間を正しく幸福へと導くのです。
 人間の力や、人間の意志、まして野心ではなく、神さまの言葉、神さまの御心をたずねることこそが、人間を正しく幸福へと導くのです。

▼『あなたたちは彼に聞き従わなければならない』。
 預言者に『聞き従わなければならない』と言っています。預言者に聞き従うとは、神さまの言葉、神さまの御心に従うということです。
 長い歴史上も、そして現代でも、大きな誤解があるようです。極め付けは、ノストラダムスの大予言みたいなものですが、これでは、ひとりの人間の知恵や超能力に聞き従うことに過ぎません。
 預言者に『聞き従わなければならない』とは、預言者という人間に従うことではありません。預言者が語る神さまの言葉に従うということです。
 イスラエルの人々にとっては、何が神さまの言葉で、何が預言者の思想なのか分かりづらかったでしょう。
 しかし、今私たちには、聖書が与えられています。聖書に記された神さまの言葉、神さまの御心ですから、今は、随分分かり易くなっている筈です。
 預言者に『聞き従わなければならない』とは、聖書を正しく読むと言うことと同じことです。

▼16節をご覧下さい。
 『このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、
  主に求めたことによっている』。
 ちょっと説明が要ります。ホレブとは十戒が授けられたシナイ山と同じです。
 十戒が与えられたのに、金の子牛を拝んだシナイ山と同じです。

▼17節。
 『主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである』。
 神さまは、人々の不安や不満を理解しています。同情もしています。
 『二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、
  死ぬことのないようにしてください』。
 人々は、罪を犯し裁かれ殺されることを恐れています。その人々のためにこそ、預言者は与えられたのです。
 正しく聖書を読み、神さまの御心を知るために、預言者は与えられたのです。

▼18節。
 『わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立てて
  その口に私の言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう』。
 『その口に私の言葉を授ける』
 つまり、預言者が語る言葉は、預言者の考えや思想ではなくて、神さまから与えられた者だということです。預言者の預は、預貯金の預です。預かったものという意味です。神さまから預かった言葉が預言なのです。
 何月何日、地震が起こるなどという予言とは、全然違います。

▼19節。
 『彼が私の名によって私の言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、
  わたしはその責任を追及する』。
 神の言葉である限りは、絶対のものです。なるほど神さまの意見は分かりました。王様の意見も聞きました。人々の要求も聞いています。では私の考えを申しましょう、などと言うようなものではありません。
 聖書にはこのように記してあるけれども、ちょっと現代には合わないような気がするので、もう少し、他の哲学者や思想家のいうことも聞きましょう、などと言うようなものではありません。
 神の言葉である限りは、絶対のものです。

▼20節。
 『ただし、その預言者が私の命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、
  あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死ななければならない』。
 神の言葉である限りは、絶対のものです。しかし、それは預言者が絶対の存在だということではありません。絶対なのは、神の言葉です。
 神の言葉が絶対なのに、自分の言葉が絶対のものであるかのように言う、『預言者は死ななければならない』。厳しいことがはっきりと言われています。

▼21節。
 『あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう』。
 申命記を記した人は、実に良く、人間の心が分かっています。
 確かに、神さまの言葉か、嘘か、或いは、預言者の勝手な言い分か、人間の判断では難しいでしょう。

▼22節。
 『その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、
  実現しなければ、それは主が語られたものではない。
  預言者が勝手にかたったのであるから、恐れることはない』。
 未だ聖書が記されていない時代ならば、こういう心配は深刻です。
 しかし、聖書が与えられている私たちは、心配しなくても良いでしょう。私たちには、偽預言者に騙される可能性はありません。

▼ヨハネ黙示録22章18~19節。
 『18:この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。
これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いを
その者に加えられる。
 19:また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、
神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、
その者が受ける分を取り除かれる』。

▼昔『一休さん』というテレビアニメがありました。大変興味深く見ましたし、勉強になりました。ある回のことが忘れられません。偽一休さんが現れました。トンチ問答をしても、本物と同じように上手に答えますから、全く見分けがつきません。
 しかし、たった一つ、偽物には本物との違いがありました。
 余計なものがくっついているのです。本物は絶対に言わないことを付け加えるのです。
 それは、だからお金を出しなさいと言う点です。

▼最後に、今日の箇所とクリスマスとの関係についてお話ししなければなりません。多分、それが、今日この時に日課として与えられた理由だと思います。
 イエスさまは、イスラエルの王です。マタイ福音書2章2節。
 『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
  わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』。
 これは十字架の出来事まで一貫しています。
  マタイ27章37節。
 『イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた』
 そして、同時に、祭司でもあり、祭司が献げる犠牲でもあります。
 そして、預言者でもあります。
 
▼マタイ28章18節。
 『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天ば地の一切の権能
を授かっている。
 19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
  わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』。
 私たちが聞かなければならない預言、聞くことが出来る預言、伝えるように命令されている預言、全てイエスさまのことなのです。

▼いろいろとお話ししたようですが、実は一つのことしか言ったつもりはありません。神さまの言葉が、何よりも頼りになるもの、これに変わるものはないということです。しかし、人間は、神さまの言葉という目には見えないもの、掌に握ることの出来ないものに、不信をいだき、目に見えるもの、手に取ることの出来るもの、更には、自分の力で自分の手で、好きなように変えることの出来るものに、惹かれて行くのです。
 
▼そういう私たちに、神さまは、呼びかけていて下さいます。サムエルよ、サムエルよと呼んで下さったように、私たちに声を掛けて下さっているのです。

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