その名はインマヌエル

2016年12月11日待降節第3主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
しかし、アハズは言った。
「わたしは求めない。
主を試すようなことはしない。」
イザヤは言った。
「ダビデの家よ聞け。
あなたたちは人間に
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。

イザヤ書 7章10〜14節

▼先ず14節をご覧下さい。
 『見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ』。
 『おとめが身ごもって』という表現、常識を越えた事柄に、どうしても関心を奪われます。教会の教えに馴染んでいる人でも、心底には信じ切れないと告白する人がいます。まして、初めて教会・聖書に触れた人には、大きな躓きになっているようです。
 逆に、ここにこそ、魅力を覚える人もいます。決して、少なくはありません。ローマカトリックの信者さんには、キリスト教徒ではなくて、マリア教徒ではないのと言いたくなる人がいます。決して、少なくはありません。

▼今日は敢えて『おとめが身ごもって』という表現には触れません。このことについては、他の機会にお話ししていますし、他の箇所で、例えばルカ福音書で読んだ方が良いと考えるからです。
 今日注目したいのは、『おとめが身ごもって』という表現に隠れてしまう『その名をインマヌエルと呼ぶ』についてです。
 イザヤのインマヌエル預言は、マタイ福音書に引用されています。
 1章23節。
 『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと
呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』
 イザヤの引用に、インマヌエルという字の解説が付いています。『「神は我々と共におられる」という意味である』。
 インマヌエル信仰とは、神が共におられるという信仰です。

▼『神が共におられる』、誰と、何時、これが問題です。
 何時、預言者イザヤの時代です。
 7章2節を引用します。
 『ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。
アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレム
を攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。
2:しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、
ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した』
 今まさに、シリヤ・エフライム戦争が勃発しようとしています。この戦争については、イザヤ書を読む度に、しばしばお話していますし、この話に入るとそれだけで時間が要りますので、今日は大胆に省略します。
 戦争が近づいていて、人々の心が不安に駆られている時代とだけ申します。
 
▼つまり、インマヌエル、神が共におられるとは到底信じられない、そんな曖昧不確かな頼りない信仰よりも、もっと具体的な手立てが欲しい、姿を見たことのない神さまよりも、軍隊を送ってユダを助けてくれる王が欲しい、そういう時代だったのです。
 人々は、その王をエジプトに期待しました。エジプトはヨセフの昔から、深い拘わりのある国ですし、アッシリアに対抗出来る力を持った、おそらく当時唯一の国です。他の人々は、シリアに期待しました。シリヤ・エフライム連合に連帯することで、アッシリアから守って貰えると考えました。悪魔的な軍隊をもって侵略して来るアッシリアそのものにすがろうとした人もありました。シリヤ・エフライムよりも先に恭順の意を示すことで、アッシリアのお目こぼしに預かることが出来ると考えたのです。
 こういう話は、以前の説教でしておりますので、今日はここにとどめます。とにかくに、このような不安で、神が信じられない時代に、預言者イザヤはインマヌエル、神が共におられると語ったのです。語らずにはいられなかったのです。

▼この聖書箇所について思い巡らしている間に、何故か、詩編42編が耳について離れなくなってしまいました。回り道、大脱線かも知れませんが、引用します。
 『涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
  03神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
  いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。
  04昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と』
 この詩人は詳しい状況は記されていませんが、何かしら不幸な出来事に遭遇し、小さくされてしまいました。この詩人を、周囲の人々は、「お前には神がいたんじゃなかったの、その神は今どこにいる」と嘲ります。
 弱小なユダを、戦の神を崇拝する異教徒が、『お前の神はどこにいる』と嘲るのに重なります。

▼『「お前の神はどこにいる」と』問うのは、周囲の悪意を持った人だけではありません。この詩人の心の中から、『「お前の神はどこにいる」と』いう疑いが湧いてきます。彼は、その思いを、押さえることが出来ません。
 6節。
 『なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか』
 7節。
 『わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす』
 11節。
 『わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。
  なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ歩くのか』
 更に43章2節。
 『あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。
  なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ行き来するのか』
 詩人の絶望は深刻です。

▼インマヌエル、神が共におられるという信仰は、このような状況の下で、語られたのです。絶望しかない人間にこそ語られたのです。
 どんな時にも、神さまが共に歩いて下さる、寄り添っていて下さるというような、生温い信仰が語られているのではありません。

▼イザヤ7章そのものについて、最低限必要なことをお話しします。以前の説教と大分重なるのは仕方がありません。 
 国論がまとまらないままに、アハズ王は、優柔不断な態度を取り続けます。しびれを切らした同盟軍は、国境に軍を終結し、決断を迫ります。それが、7章1節です。
ところが、軟弱なアハズは、スリヤ・エフライムの軍勢を恐れるあまりに、最悪の選択を致します。つまり、アッシリアに援軍を要請したのです。
 今日の箇所に描かれる出来事のもっと後のこととなりますが、果たして、要請を受けたアッシリアは援軍を送ります。
 そこで、同盟軍はアッシリアが到達する前に、ユダに攻め込み、その国土は荒れ廃れます。到達したアッシリアは、圧倒的な軍事力で、同盟軍を滅ぼし、北王国イスラエルを占領、更に、救援する筈の南王国に攻め込み、首都エルサレムを包囲致します。
以上が、シリヤ・エフライム戦争のあらましであり、今日の出来事は、その勃発前夜ということになります。

▼11節をご覧下さい。
 『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」』
国の命運が定まらず、王も民も、正に風に動かされる林の木のように動揺しています。人々は、何とか、国家を民族を生きながらえさせるための術、しるしを、見付けようと必死になっています。
 先程も申しましたように、これを巡って、党派が生まれ、四分五裂の有り様でした。
イザヤが言うのは、その術・しるしを、地上の国家に求めても無駄だ、もっと別の所に、神に、信仰にそれを求めよと薦めているのだと考えます。
しかし、王アハズは、12節に記されているように答えます。
 『しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない』
これは、表面的には、実に敬謙な態度のようです。
 しかし、その実は、別の所にありました。つまり、イザヤの言う所を聞いて、試練に遭いたくないということが第一。アハズの選択は最も安直な物であった訳です。もうひとつは、あわよくば、アッシリヤに味方することで、兄弟国イスラエルの国土がこの機会に自分のものとなるかも知れないという欲でした。
安易な選択と、己の欲望を、アハズは、一見敬虔な態度と言葉で装ったのです。表面を綺麗にごまかした嘘であります。

▼こういう背景を知れば、この後のイザヤの言葉が理解出来ます。13節。
 『イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/
もどかしい思いをさせるだけでは足りず/
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。』
そして、神は、しるしを求めようとしない、むしろ、しるしを拒む王と民に対して、それを下されるのです。

▼詩編42編に戻ります。5~6節。
 『わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 
  喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み
  神の家に入り、ひれ伏したことを。
  06なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。
  わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と』
 詩人は、絶望の呻きを上げることに留まっているのではありません。
 『わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす』
 解釈が難しい表現ではありますが、一番単純に読めば、自分で自分に言い聞かせるということでしょう。

▼『思い起こす』のは、『喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを』です。
 宮詣の喜ばしい時の想い出が、詩人の信仰を救うのです。絶望を希望に変える力は、『喜び歌い感謝をささげる声』、『神の家に入り、ひれ伏したこと』、つまり、礼拝以外にはありません。
 詩人が、『思い起こす』ことが出来たのは、むしろ、深く絶望したからです。周囲の人々にも見捨てられ蔑まれ、神の救いを求めるしかなかったからです。

▼これは、イザヤ7章12節のアハズ王の姿勢とは真逆です。
 『アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない』
 これは11節の神の言葉に対する返答です。
 『「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」』
 これも解釈が難しい表現です。しかし、一番単純に読めば、こういうことでしょう。
 『しるしを求めよ。深く陰府の方に』、人間的な考え方では、絶望しかない所で、その絶望を深く見つめる時に、救いのしるしが与えられるということです。
 『しるしを求めよ。 … 高く天の方に』、絶望の中で、絶望の中でこそ、天を見つめなくてはなりません。

▼しるしが与えられました。このは、しるしを求めないと言った者に与えられたのです。
 『それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ』
 しるしを求めない者に与えられたのです。

▼さて、イザヤのインマヌエル預言は、単純なものではありません。17節をご覧下さい。
 『主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、
  臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ』
 アハズ王が、絶望すべき状況の中で絶望せず、しるしは要らないと言ったのは、事柄に真っ正面から向かい合っていなかったからです。そのアハズに、主は、絶望を与えたのです。
 クリスマス、新しい王の誕生の預言は、現在の王朝にとっては、滅亡の預言です。
 イザヤのインマヌエル預言は、単純なものではありません。生温い信仰ではありません。

▼最後にまた詩編を見ます。
 42編11~12節。
 『わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き 絶え間なく嘲って言う
  「お前の神はどこにいる」と。
  12なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。
  神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう
  「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ』
 絶望を見つめ、絶望の中で、神を呼び、そして告白する者が、救いを与えられるのです。

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