もはや戦うことを学ばない

2016年11月27日待降節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

イザヤ書 2章1〜5節

▼イザヤ書2章は繰り返し読んでいる御言葉です。しかし、殆どの場合、8月の平和主日に聖書日課として与えられており、或いは日課でなくとも、敢えて、ここを平和主日に読んで来ました。その妥当性には、誰も異論はないと思います。
 今日、アドベント第1週に、イザヤ書2章が与えられました。その意味は、極めて明確です。イザヤ書2章こそが、終末の平和、即ちキリストの平和、即ちクリスマスを預言する言葉だからです。
 このことを踏まえて、順に読んでまいります。

▼2節の真ん中部分を読みます。
 『主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる』 『主の神殿の山』とは、エルサレム神殿が建てられたシオンの丘のことです。丘です。高台になっており、城や町を築くには適当な場所かも知れません。厳密に言えば、エルサレム神殿が建てられたのはシオンの丘ではなく、その向かいの高台だそうですが、後には、神殿、町を含めてシオンと呼ぶようになります。更には、イスラエルそのものをシオンと呼ぶようになります。

▼しかし、『山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる』とは、大げささえ通り越しています。エルサレムは標高800メートルにあります。直ぐ近くの死海が、標高−400メートルですから、死海からの標高1200メートルという言い方も成り立つかも知れません。それにしても、『山々の頭』『どの峰よりも高く』という表現は、かなり無理があります。
 「箱根の山は 天下の険 函谷関も 物ならず 万丈の山 千仞の谷 前に聳え 後(しりえ)に支う 」という歌があります。函谷関を見たことはありませんが、降雨と劉邦の物語の舞台にもなります。実際には、箱根の山を函谷関に見立てることさえ、大きな無理があります。
 『山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる』も、こんな類でしょうか。大げさを承知の誇張でしょうか。
 母校の中学校応援歌に、こんな一節がありました。鳳中学と言います。「もしも、鳳が負けたなら、電信柱に花が咲き、死んだ魚が泳ぎ出す」。50年以上前ですから、不正確かも知れませんが、こんな歌でした。残念ながら、鳳中学はあらゆるスポーツに弱くて、何時も負けてばかりでした。電信柱に花が咲くのを見たことはありません。

▼2節の冒頭を読みます。
 『終わりの日に』
 『山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる』のは、『終わりの日』のことです。現在のことではありません。
 イザヤ書40章3~5節。
 『呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/
  わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4:谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、
狭い道は広い谷となれ。
5:主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される』
 『山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる』のは、終末の出来事です。
 その出来事は、同じシオンの、ゴルゴタの丘で、現実となりました。十字架の出来事が起こったゴルゴタの丘こそが、『山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる』のです。

▼勿論これは幻であって、実際に丘や山がその背丈を伸ばすことはあり得ません。つまり、終わりの日の勝利が、ここでは信仰の事柄として描かれているのです。周辺の民族を軍事的或は経済的に支配することが勝利ではなく、彼らが自らの意志で、シオンの山に上り、エレサレムの神を拝する様子が、勝利として描かれているのです。そうでなくては、終わりの日は平和の実現する日、喜びの日とはならないでしょう。

▼2章2節の最後。
 『国々はこぞって大河のようにそこに向かい』
 これはどういう意味でしょうか。エレサレムは、ヨーロッパ、アフリカ、アジアが接する交通貿易の要地でした。ために、或時は富み栄えましたが、その代償のように、ヨーロッパ、アフリカ、アジアに起こった軍事大国の侵略を受け、その歴史の大半は、これらの国々の占領下にありました。
 『国々はこぞって大河のようにそこに向かい』とは、そのことを意味しているのでしょうか。このことと無関係ではありませんが、そうではありません。

▼3節前半。
 『多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と』 
 これは、軍事的に勝利して、多くの国々が朝貢のために参じるという話ではありません。多くの国々が、その民が『ヤコブの神の家』、エレサレム神殿を詣でる話なのです。

▼3節後半。
 『主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る』
 あくまでも、信仰の話です。軍事的には常に劣勢なイスラエルが、信仰の戦いで勝利し、多くの国々が、その民が『ヤコブの神の家』、エレサレム神殿を崇める話なのです。
 今日から、アドベントに入りました。世界中で、クリスマスの備えをしています。何だか、中味は怪しいものですが、兎に角、イザヤの預言は、今この時代に成就したのです。
 このことは、どんなに歴史を調べても、合点が行くようなことではありません。まったくの不思議、奇跡です。
 更には、今日のイザヤの預言、2章4節が、国連ビルに碑として刻まれているということは、周知のことです。まったくの不思議、奇跡です。

▼その4節。
 『主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる』
 『国々の争いを裁き、多くの民を戒められる』のが、王なる神です。王とは、統治者政治家だと思いますが、その基本、力・信頼の源は、争いを裁くことにあります。
 これは、例えば鎌倉時代の以前、関東で源氏が台頭したことと重なります。特に領地争いの調停者として、そして領地を安堵する権威として、源氏は関東武者に受け入れられました。これが王たるものの仕事なのです。
 同じことが、同じ時代のヨーロッパにも当て嵌まります。王も、領主たちの領地の調停に当たりましたが、それ以上に、ローマ教皇が、領地の調停に当たり、領地を安堵する権威として存在したのです。
 まあ、この話は脱線かも知れません。説教の脱線であり、歴史における教会の働きの脱線です。

▼しかし、領地の保証、安堵ということは、私たちの場合にも当て嵌まるのではないでしょうか。 
 神さまは、私たちの人生を安堵して下さるのです。
 ルカ福音書で、羊の番をしていた羊飼いに、御子の誕生を知らせる言葉は『恐れるな、見よ』でした。安堵の言葉です。
 ルカ1章にも、ザカリヤに『恐れることはない』と天使が語ります。
 何度もお話ししていますが、クリスマスと復活の出来事を通じて、繰り返し、人々の恐れと、『恐れるな』という天使の言葉が出て来ます。

▼『多くの民を戒められる』も、きちんと読まなくてはなりません。
 先日の説教で言及しましたように、モーセが奴隷の地エジプトから、人々を導き出した時、人々は、エジプトにいた時の方が上手いものが食えたと、反抗しました。この不平不満そして不安に満ちた人々に、神さまはモーセを通じて十戒・神の言葉を授けられました。しかし、人々は十戒・神の言葉よりも金の子牛を選び、更に、神さまではなく、王を与えよと叫びました。
 この人々を、神は『戒められる』のです。裁かれるのです。
 人々は、不安から、平安を願い求めます。偶像や武力や財力にそれを期待します。しかし、預言者たちは言うのです。『恐れるな』と。神の言葉だけが頼みだと。

▼4節。
 『彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする』
 短い表現ですが、これは重大な意味を持ちます。
 イザヤ2章の時代からすると、大分後の時代のこととなります。アッシリアが世界帝国となり、周辺の国々を滅ぼし、エルサレムにも迫りました。長い歴史を持つものの、決して強国ではなかったアッシリアが急速に軍事力を高めたのは、この国が新しい鉄の鋳造技術を持ったことによりました。
 安価に鉄を造り出す技術によって、剣や槍が、それ以前の青銅よりも遥かに強靱となり、更に兵士や馬車を鉄で装甲することで、破壊的な平気となりました。
 時代は後になりますが、灼熱の砂漠の地で、溶鉱炉から煮えたぎった鉄を汲み、剣や槍、更には金属で馬や牛の神々を創ったのは、奴隷とされたイスラエルの人々でした。

▼このことは同じようなことを、説教の度にお話ししていますし、しなくてはなりません。
 ここで強調されていることは、先ず、軍事的な力の行使によって問題が解決されることはないということです。第2に、力の行使は控えて、外交交渉によって、これならどうか、……それも無理、むしろ非現実的なことであると言われています。神がなされるのでなければ、平和の実現は絶対にない。イザヤが言うのは、こういうことだと思います。
 イザヤの戦争否定を、或人は非現実的な理想主義だと言います。違います。軍事力によって平和がもたらされると考えることこそが非現実的な思想だと思います。その証拠は、歴史上に無数に転がっています。外交交渉によって平和への道が開かれると考えることこそが、非現実的な理想主義です。これも、その証拠は歴史上に無数に転がっているではありませんか。

▼イザヤは非現実的な理想主義者ではなく、実は、一番現実的に物を見ているのです。当時の現実の歴史、無力な王、将軍、祭司、更に外交官、こういう人を実際に見て、イザヤは深い絶望を味あわなくてはなりませんでした。だからこそ、神の介入なしには平和が実現することはないという思想、むしろ現実を、イザヤは認識したのです。
 神が関わらなければ平和は実現しないという思想は、他のどんな思想よりも、現実的な発想なのです。当然、唯祈りに拠らなければ世界平和は実現しない、キリスト教の福音の宣教こそが、平和への近道なのだという思想も、他のどんな思想よりも現実的な思想なのです。

▼4節。
 『国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない』
 神さまは、兵士に人殺しの訓練などさせません。どんな名前を使っていても、人を殺すことを、戦うことを教える言葉は、神の言葉ではありません。もしそんなことを教える存在がいたら、それは悪魔なのです。
 悪魔と天使とを見分けることは時に困難かも知れません。しかし、戦いを説く天使は居ませんし、平和を説く悪魔は居ないのです。

▼5節。
 『ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう』
 これが今日の箇所のメッセージです。『主の光の中を歩もう』。
 闇の中を歩いてはなりません。否、闇の中を歩くことを強いられる場合があります。しかし、その時にこそ、光を見ていなくてはなりません。
 イザヤに光のことが記されています。
 60章1~3節。
 『起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。
2:見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。
  しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
3:国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む』
 29章
 『その日には、耳の聞こえない者が/
  書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、
  見えるようになる。
19:苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/
  イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る』

▼58章6~8節。
 『6:わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、
  軛の結び目をほどいて/
  虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
7:更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/
  裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
8:そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/
  あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/
  主の栄光があなたのしんがりを守る』
 これが、イザヤが説く平和実現の道筋です。

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