山が海に移るとも

2016年12月18日待降節第4主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。

大河とその流れは、神の都に喜びを与える
いと高き神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。

  万軍の主はわたしたちと共にいます。
  ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。

「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、この地であがめられる。」

  万軍の主はわたしたちと共にいます。
  ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

詩編 46編2〜12節

▼2節をご覧下さい。
 『神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
  苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる』。
 先週の礼拝に出席された方は、直ぐに思い当たるでしょう。これは、先週の聖書箇所と共通しています。同じことを言っています。
 つまり、イザヤ書7章14節であり、マタイ福音書1章23節です。マタイの方を読みます。
 『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
  この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』。
 先週の説教で申しました。インマヌエル、神が共におられるという信仰は、国が滅びるという危機的な状況の下で、語られたのです。絶望しかない人間にこそ語られた預言です。どんな時にも、神さまが共に歩いて下さる、寄り添っていて下さるというような、生温い信仰が語られているのではありません。
 このことは、詩編46編でいっそう明らかです。『苦難のとき、必ずそこにいまして』と歌われています。そもそも『神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦』です。追い詰められて他に逃れる場所のない人間の、最後の『避けどころ … 砦』なのです。

▼3節。
 『わたしたちは決して恐れない』。
 最後の『避けどころ … 砦』に逃げ込んだ人の話です。何か確たる自信があるとか信念があるとかという話ではありません。『避けどころ … 砦』に逃げ込んだから、最早、何事をも『決して恐れない』ということです。
 それは『地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも』
 揺らぐことはありません。

▼このことは私たち一人ひとりに当て嵌まることです。追い詰められて他に逃れる場所のなくなるのが、悲しいかな人間の真実の姿です。しかし、信仰者には、『避けどころ … 砦』があります。信仰そのものが、『避けどころ … 砦』です。
 東日本大震災では、『地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移る』ようなことを、多くの人が体験しました。『海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震える』という表現も、大震災に遭った人々には、大げさではなかったかも知れません。
 しかし、大震災がなくとも、私たち人間は、『地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移る』ようなことを、体験するのです。それは病であったり死であったり、家族の不幸であったりします。
 それらの信仰者に『避けどころ … 砦』が与えられるのです。

▼この歌は、5節から、全く様子が変わります。5節。
 『大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に』。
 神の業に信頼し讃美する歌です。詩編には繰り返し現れます。そのことと4節までと、どんな関係があるのでしょうか。
 それが6節で分かります。
 『神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる』
 つまり、『避けどころ … 砦』とは、エルサレムの都のことです。神の町のことです。

▼以上のことは、私たちの教会にも当て嵌まるのではないでしょうか。
 エルサレムの都とは、即ち教会です。
 『大河とその流れは、神の都に喜びを与える』という表現はなかなか教会には当て嵌まらないと見えますでしょうが、『いと高き神のいます聖所』であるには違いありません。そうでなかったら教会とは言えません。
 大伽藍を持っているか、ステンドグラスがあるか、そんなことは関係ありません。『いと高き神のいます聖所』こそが教会です。

▼7節を見ます。
 『すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ』、これが何を意味するのか、具体的に記されていません。多分、戦乱のことでしょう。真の神を知らない者は、武力、財力を頼み、それが安心の根拠だと考えます。しかしそれは一時のことです。武力、財力を頼みとする者は、いつの日にか武力、財力を頼みとする他の者にとって替わられるのです。
 このことは、歴史を振り返って見ればあまりにも明かですし、私たちの世代だって、ソビエトの崩壊を目の当たりにしました。その10年前には誰も想像できなかったことが、現実になりました。

▼『神が御声を出されると、地は溶け去る』。
 真に頼るべきは神であり、そして真に恐るべきは神です。
 マタイ福音書10章28節。
 『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、
魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい』
 真に信頼に足るのは神のみ、そして真に恐るべきは神以外にはありません。

▼このことも、私たち一人ひとりに、そして教会に当て嵌めて、受け止めなければなりません。
 真に神を、神のみを頼りとして、教会を守っているのか、他のものに頼ってはいないか、不安になって、神がいないかのような考え方や行動をとっていないか、反省しなくてはなりません。
 今教団では、10年後20年後、教団の財政は破綻するとの見通しで、対策を検討しています。今度の教団総会・常議員会を経て、またまた新しい委員会が出来ました。却って財政を圧迫するのではないかと、私などは危惧するのですが、真剣に取り組んでいる方々の熱意に水を差すようなことは言えません。教団の責任を担う立場にある人にとっては当然かも知れません。
 私も、出版局経営のことになりますと、実に人間的な知恵で対処してきました。
 一方、もっと若い牧師たちは、このことを乗り切るには、祈りによるしかないと考えて、盛んに祈りの会を持っています。それを推進する指導的な立場にある牧師の多くは、特別伝道礼拝に講師として招いた方々です。
 私は彼らの考え方こそ大事だと思いますし、彼らがいるから、10年後20年後、教団には希望があると信じます。

▼8節。
 『万軍の主はわたしたちと共にいます』。もう一度同じことが繰り返されています。しかし、今度は『万軍の主』と呼びます。
 このことからも、詩人の時代の最も重要な危機は、戦争のことだったのでしょう。何時の時代、誰が王だった時なのかは、記されていません。学者の中には推測がありますが、確かではありません。何時の時代、誰が王だった時なのかは、この歌を読むときに、最重要なことではありません。何時の時代にも当て嵌まることだからです。

▼『ヤコブの神はわたしたちの砦の塔』。
 これも繰り返されています。しかし『ヤコブの神』と付け加えられています。
 同じような言葉を、全くそのまま繰り返すのではなく、少し表現を変えて繰り返すというのは、リズムを整えたり強調したりするのに有効な文学的手法です。
 しかし、ここでは単なる技巧ではありません。
 『ヤコブの神はわたしたちの砦の塔』、この言葉で、ヤコブ即ちイスラエルと共に歩いて来られた神だと表現しています。

▼このことも、私たちの教会に当て嵌めて考えなければなりません。
 今、玉川教会では70周年を前にして、記念誌を編集しています。編集作業は順調に進んで、予定通り、来年3月に発行出来るでしょう。大勢の方々に原稿を書いて頂きました。写真も何百枚ではきかないくらいに見ました。実に大勢の方々が、教会の歩みを続けて来られたということが、よくよく見えます。
 しかし、一番肝心なことは、誰がいた時代にも、いない時代にも、インマヌエルの神がおられたかということ、それを信じ前提とした教会形成がなされたかということです。

▼9節。
 『主の成し遂げられることを仰ぎ見よう』。
 私たちは、ついつい、自分が何をしよう、何をなすべきかと発想します。しかし、より重要なことは、『主の成し遂げられることを仰ぎ見よう』です。
 人間の手で何が出来るかではありません。『主の成し遂げられることを仰ぎ見よう』です。
 
▼『主はこの地を圧倒される』。
 神に限界を定めるのは、人間です。
 まるで神の力が足りない所を、人間の手で補うとでもいうように、何かをしようとするのです。
 イエス・キリストには力の限界があるとして、いろんな異端が出てきます。
 中には、イエス様とお釈迦様が手を携えて登場し、自分のやり残したことを成し遂げて欲しいとお願いされたと主張し、そこから生まれた新興宗教もあります。
 モルモン教も似たような主張から生まれました。統一原理もそうです。共通していることは、神の救いの業は不完全だという主張です。
 聖書だけでは全ての語りきっていない、神の言葉たる聖書に、もう少し、補足が必要だと考えるのが異端です。
 イエスを単なる預言者だと見るイスラム教も、この点同様です。
 そしても今日の普通の教会の中にも、神のたりない所を人間が補うという発想が忍び入って来るのです。

▼『主はこの地を圧倒される』とは、どんな国の王よりも強い軍隊を送って、悪の帝国を懲らしめるという話ではありません。
 10節。
 『地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる』。
 これが『主はこの地を圧倒される』との言葉の意味です。平和という武器で戦争を鎮めるという、逆説が語られているのです。

▼このことは福音書のクリスマス記事と合致します。
 ルカ福音書では、羊飼いたちに王の誕生が告げ知らされました。何度もお話ししましたが、羊飼いたちは特別な存在です。ユダヤ人のご先祖様は羊飼いだったという点を強調出来ますし、この時代、貧しく蔑まれる職業階層だったという点を強調しても間違いではないでしょう。
 私が強調したいのは、羊飼いは兵士の予備軍だという点です。彼らは馬に乗れます。武器を使いこなせます。そして集団行動が出来ます。これは皆、兵士としての資質になります。彼らは明日からでも、新しく誕生した王の近衛兵となることが可能なのです。
 新しい王が誕生するということは、普通は新しい軍隊、新しい政治組織が生まれるということです。
 そこに天の軍勢が現れました。地上に優秀な兵、そして天の軍勢、今すぐにでも、イエスさまを戴いて、ヘロデと、ローマと戦うことが出来ます。
 しかし彼らは戦いません。
 『すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
   14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」』。
 戦わず讃美の歌を歌ったのです。
 これが平和という武器で戦争を鎮めるという、逆説であり、詩編46編と全く同じなのです。

▼11節。
 『「力を捨てよ、知れわたしは神』。
 神の前に自分の力を誇る程、愚かなことはありません。もしそんな思いをいだいたとしたら、それは不信仰を暴露しているのに過ぎません。軍事力でも、財力でも、信仰の力でも同様です。
 『力を捨てよ』、神の前に力を捨てること、むしろ無力を自覚すること、それが信仰であり、信仰の力です。
 ルカ福音書17章10節。
 『自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。
  しなければならないことをしただけです』と言いなさい』。
 神に用いられる、神のために働くとは、こういうことです。力や手柄を誇ることではありません。
 この少し前、17章5~6節を引用します。
 『使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
 6:主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、
『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう』
 使徒たちは信仰を、何か自分の持ち物、能力のように考えていました。イエス様はそれを全く否定し、むしろ不信仰を自覚しなさい、そして黙々と神に仕えなさいと言っています。黙々と仕えることが出来るのは、神の力を信じるからです。
 信じないと、不平や不満が出て来ることになります。

▼詩編46編は、不思議と福音書、それもクリスマスと重なるのです。だからこそ、アドベントの日課とされたのでしょう。
 クリスマス、私たちに与えられた王は、人間の兵士を用いて戦争をされる方ではありません。
 平和の神です。
 もう一度10節を読みます。
 『地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる』。
 折られ、焼き払われるのは、私たち人間の思い上がりです。

▼11節。
 『国々にあがめられ、この地であがめられる』。
 この詩編の歌は、キリスト者から見る時に、クリスマスの預言の意味を持ちます。そうしますと、『国々にあがめられ、この地であがめられる』とは、正にクリスマスのこととなります。
 しかし、本当の意味で、『あがめられ』ているか、疑問符も付きます。
 多くの人々にとって、クリスマスとは何なのでしょう。いろんな楽しみ方をする人を批判してはならないかも知れませんが、あがめ、感謝することがなかったならば、本来のクリスマスの意味をなさないということは確かです。

▼12節。
 『万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔』。
 クリスマス、インマヌエルの神の誕生、それは『万軍の主はわたしたちと共にいます』という意味であり、『ヤコブの神はわたしたちの砦の塔』という意味なのです。
 このことを信じ、このことを前提として、教会の働きを続けてまいりたいと思います。
 弱小なようだけれど、『万軍の主はわたしたちと共にいます』。教会も一人ひとりも危機的な状況のようだけれども、しかし、『ヤコブの神はわたしたちの砦の塔』。私たちは守られているのです。

▼『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、
魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい』
 真に信頼に足るのは神のみ、そして真に恐るべきは神以外にはありません。
 【山が海に移るとも】私たちには、恐れる理由はありません。

この記事のPDFはこちら