神の子となる資格を

2016年12月25日降誕節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネによる福音書 1章1〜14節

▼3年前、クリスマスにふさわしい本を読みたいと思っていた時、古本屋で橋克彦の『聖夜幻想』という文庫本を見つけました。橋克彦のものは全部読んだつもりでしたが、見逃していました。これが汚い本で、何と2冊で100円のワゴンセールでした。買ったものの、あまり汚くて開く気がせず、ほったらかしていましたが、先日、橋克彦を全部捨てようかと段ボール箱に詰めている時に、これだけ読んでいないことを思い出し、『聖夜幻想』だし、一応読んで見ました。捨てなくて良かったという感想です。ついでに、橋克彦の段ボール箱も、保存することにしました。

▼『聖夜幻想』というくらいですから、その中に、星の話が何度か出てきます。はっと気付かされたのは、真昼の空にも星は輝いているという話です。夜と同じように星は出ています。ただ、空が星の光よりも遥かに明るいから、人の目には見えないだけです。
 そうしましたら、金子みすずの有名な詩を思い出しました。『星とたんぽぽ』です。
 青いお空のそこふかく    海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる   昼のお星はめにみえぬ
 見えぬけれどもあるんだよ   見えぬものでもあるんだよ
ちってすがれたたんぽぽの   かわらのすきにだァまって
 春のくるまでかくれてる   つよいその根はめにみえぬ
 見えぬけれどもあるんだよ   見えぬものでもあるんだよ

▼『赤い蝋燭と人魚』で知られる小川未明と『風の中の子供』の坪田譲治が夜空の星を見上げるエピソードも思い出しましたが、諄いし、資料が手元にありませんので、引用は止めます。
 真昼の空にも星は輝いているということを、実は、誰でもが知っています。しかし、真昼の空に星を見上げる人はいません。昼の空の星のことは、誰もが忘れています。

▼真昼の空に輝く星、それが夜になると見えて来ます。実は私たちは、星の光を見ているのではなくて、星を縁取る闇を見ているのではないでしょうか。
 私たちが見ているものは、ポジの写真・光景ではなくて、ネガの写真・光景ではないでしょうか。

▼イザヤ書9章2節。
 『暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。』
 この箇所は、救い主の誕生を預言しています。クリスマスの預言の中でも最も古いものの一つと言えましょう。としますと、クリスマスとは、暗黒の中で光を見ること、闇の中で希望を見出すことなのです。

▼今から2700年以上も昔に、イザヤは預言しました。例え、戦争に敗れて国家が滅びるとも、それは真の滅びではない。必ずや、信仰を抱いて、生き残り、新しい国家を形成する者が現れると。しかし、もし、信仰が失われるならば、例え国が生きながらえても、財産が・生命が守られても、そこには絶望がある、滅びがあると。
 もう少し厳密にお話しますと、今、イザヤが預言しているのは、国が滅び人々が絶望に沈んでいる時ではありません。未だ大丈夫だ、国が滅ぶことはないと預言する偽預言者が居り、人々は、むしろ、この偽物の預言者の方に信頼していた、そういう時代です。
 イザヤは、回避することの出来ない逆境を生き延び、新しい時代を切り開く者が現れると預言しているのです。避けることの出来ない滅びと、その滅びからの再生とを、重ね合わせて預言しているのです。

▼闇を真っ正面から見る勇気がない者には、光は見えません。昼の空を見ても星は見えません。夜の闇を見上げる時に、初めて星が見えるのです。
 私たちの時代もそうではないでしょうか。私たちの時代にこそ、イザヤの預言が語られなければならないのではないでしょうか。聞かれなければならないのではないでしょうか。
 今日、未来は大丈夫、何の心配もない、安心していなさいと預言することは出来ません。それは単なる嘘でしょう。この偽りの預言を聞いても誰も、本当には安心出来ないでしょう。
 神による裁きがある、滅びがあることを語らなければなりません。
 しかし、闇で全てが終わるのではありません。イザヤは、その未来にあるものを預言しているのです。
 私たちも、時代に下された裁き、私たちの物質主義の文明がもはや行き詰まっている、その延長上に救いはないということを認め、悔い改める時に、初めて、未来を見渡すことが出来るのです。

▼イザヤ書60章1~2節。
『起きよ、光を放て。
  あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。
 2:見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。
  しかし、あなたの上には 主が朝日のごとくのぼられ、
  主の栄光があなたの上にあらわれる。
  国々はあなたを照らす光に向かい
  王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む』。
 この預言は、イザヤ書9章の預言よりも、150年も後の時代のものです。ここにも、クリスマスが預言されています。
 クリスマスとは、暗黒の中に住んでいた人々が、ようやく、光を見出し、つまり、希望を見出し、光の元に、つまり、キリストのもとに集まってくることです。

▼私たちは、闇の中に住んでいます。私たちの中には、最早、光は存在しません。闇の中にいて、そこから、光を見ているので。
 礼拝するとは、そういうことです。
 自分の中にあるもの、自分の感情や、自分の思想をどんなに見つめても何の解決にも至りません。そうではなくて、眼を上げて、上にあるものを見なくてはなりません。星を見るのです。星の時間の光を見るのです。

▼こんな風に申しますと、何々をしなければ救われないという条件が加えられたと受け止める人があるかも知れません。そういうことではありません。
 全く逆です。最早、自分の力ではどうにもならないことだから、神さまに委ねなさい、そうして心の荷物を下ろしなさいということです。
 自分の努力ではかなわないことだから、神さまに任せて安心しなさいということです。そのために必要なことは、自分の心の闇を、素直に真っ正面から見ることです。
 闇を見つめることが、光を見出すことにつながるのです。

▼ヨハネ福音書9章39~41節
 『39:イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。
こうして、見えない者は見えるようになり、
  見える者は見えないようになる」。
 40:イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、
  これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
 41:イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。
  だから、あなたたちの罪は残る。」』。
 見えると言い張る所に罪があります。

▼闇を見つめなければ光が見えないように、罪を見つめなければ救いは見えて来ません。それが、イザヤのメッセージであり、ヨハネのメッセージであり、クリスマスの意味でしょう。

▼創世記1章1節。
 『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』。
 何かしら、明るい展望がある、その根拠となる数字が存在すると言うのではありません。景気の予測ではありません。数字が根拠ではありません。他のどんなものでもありません。
 根拠は、神の言葉です。『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』。
 そうしてこの世界は始まりました。無から、虚無の混沌から、この世界は始まりました。

▼ヨハネによる福音書1章1節。
 『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった』。
 4節。
 『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった』。
5節。
 『光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった』。
 9節。
 『その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである』。
 
▼闇の中から光が生まれる、闇の中で光が輝く、このことが繰り返し述べられています。
 更に14節。
 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
  わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた』
 矢張り私たち人間の世は闇なのです。その闇の中に、キリストは誕生され、それ故に、光り輝くのです。
 もし、私たち人間の世は闇ではないと言い張るなら、きっと、その人にはクリスマスの光は見えないでしょう。

▼10節。
 『言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった』。
 闇の中に光が射しました。星が輝きました。しかし、その光が見えない人の方が多かったのです。それは、イザヤの時代に、滅びが近づいているという不安・恐怖があったために、決して、闇を見ようとはせず、根拠のない希望にすがりついた人々には、イザヤの声が聞こえなかったのと同じでしょう。聞きたくなかったのです。聞こえなかったのです。
 闇を見つめることは恐ろしいことで、出来るならば目をそらしていたいのです。

▼エーリッヒ・ケストナーの『人生処方詩集』にこんな詩があります。引用したいのですが、本がありません。いろんな翻訳で都合20冊は買いましたが、何故か手元に一冊もありません。
 こんな内容です。目の前に不幸な人がいても、何も助けて上げられない。その無力さに耐えられず、心の痛みに耐えられない。しかし、彼は極めて効果的な解決方法を見つけ出した。それは、目を瞑ること。一切を見ないこと。

▼ナチスが自分たちの思想に合わない本を焼き捨てる焚書の場面を、記録映画で見たことがあります。次々と作家の名前が読み上げられて、その著書が炎の中に投じられます。
 ロマン・ロラン、トーマス・マン、ライナー・マリア・リルケ、アンドリ・ジイド、シュテファン・ツブァイク … 多くの作家は既に亡命していました。ロマン・ロランはスイスに、シュテファン・ツブァイクはブラジルに。
 名前を呼ばれた作家の中で、ただ一人その場面に居たのが、自分の本が焼かれるのを命懸けで目撃していたのが、エーリッヒ・ケストナーでした。

▼11節。
 『言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった』。
 真っ正面から闇を見ようとしない人には、光は見えません。

▼12~13節。
 『しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の
子となる資格を与えた。
  13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、
  人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである』。
 神を信じる人も、僅かながらいたのです。闇の中で、光を見る人が居たのです。闇の中に居て、闇を見ていたからこそ、光を見た人が居たのです。

▼14節。
 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた』。
 『わたしたちの間に』、それは『わたしたちの闇の間に』ではないでしょうか。
 『わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた』。
 あまり詳しい説明をしている暇はありませんが、ヨハネ福音書において、栄光とは、十字架のことです。十字架は、苦難の印です。しかし、同時に栄光の印なのです。
 『わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた』。
 これは、十字架の出来事と無関係に語られているのではありません。
 そして、私たちも、苦難の中でこそ、闇の中でこそ、クリスマスの光を見ることが出来るし、真に救いを見出すことが出来るのです。

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