洗礼から始まる
2017年1月8日降誕節第3主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書 3章13〜17節
▼本日の日課として与えられた出来事は、議論のある所です。
何よりも、何故イエスさまは、洗礼を受けなければならなかったのか、これが最大の問題です。
バプテスマのヨハネの洗礼は、各福音書に描かれた短い文章からだけでも、悔い改め、罪・汚れからの浄めという色彩が強いように見えます。
日本流に言えば、禊ぎでしょうか。
だとすれば、何故イエスさまは、悔い改め、禊ぎ、罪・汚れからの浄めを受けなければならなかったのか、これが最大の問題です。イエスさまには、罪・汚れがあったのでしょうか。
▼もう一つの大きな疑問は、何故、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのかという点です。バプテスマのヨハネは当時の民衆の間にカリスマ的人気があったようですが、無位無冠の、市井の預言者です。
イエスさまがヨハネの教団の信者だったと考える人もいます。そうしますと、イエスさまは一人の人間に過ぎず、だからこそ、禊ぎ、罪・汚れからの浄めを受けなければならなかったのだという解釈さえ生まれます。キリストではないということにさえなりかねません。
▼そもそも、イエスさまとバプテスマのヨハネとの関係をどのように理解したら良いのでしょうか。
ルカ福音書の記事によれば、マリヤとエリザベト、双方の母親は親類ですから、二人も親類ということになります。しかし、他の福音書でも、このことには触れられていませんし、そこに理由を見つけることは出来ません。
各福音書で述べられていることは、概ね、マタイ3章11節、今日の箇所の直前に記されていることと同じです。
『わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、
わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。
わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』。
▼三つ目の大きな疑問は、聖霊のことです。洗礼と聖霊、これは宗教改革以降の教会では、結び付いて論じられますし、この場面こそがその始まりです。
▼先ず、マルコ福音書でも、ルカ福音書でも共通していること、事実関係を確認したいと思います。
それは二つのことです。
一つは、イエスさまが洗礼を受けられたという事実そのもの、もう一つは、その時に聖霊が降ったということです。
この二つのことが、三つの福音書に共通して語られています。
▼今日の教会でも、洗礼を受けること、聖霊を受けること、そして教会への入会、この三つが重なります。後でもっと詳しく申しますが、先ず結論を先に言いますと、洗礼を受けること、聖霊を受けること、そして教会への入会、この三つが、イエスさまの出来事に於いても、重なっているのです。
つまり、イエスさまは、分かり易い言い方をすれば、最初の教会員になったということです。この表現では、ちょっと妥当性を欠くと言う人もあるかも知れません。しかし、少なくとも、イエスさまは教会の歩みの先頭に立たれたのです。
そして、その道は、十字架の出来事に続く道であり、神の国へと続く道です。
▼13節。
『そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ
来られた。彼から洗礼を受けるためである』。
明確に意図的に、イエスさまはヨハネから洗礼を受けました。
勿論、イエスさま以前に多くの者が、ヨハネから洗礼を受けました。しかし、その洗礼、禊ぎと、イエスさまの洗礼とは別の物です。それが聖霊が降ったという事によって説明されます。
しかし、急がないで順に読みます。
▼14節をご覧下さい。
『ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、
あなたが、わたしのところへ来られたのですか」』。
ここに述べられていることは、ヨハネの思い、ヨハネの考え方です。
何故ヨハネがこのように考えたのかということは、見当が付きます。ヨハネがイエスさまを自分よりも遙かに尊いお方と考えていたということです。イエスをキリストとして理解していたということを暗示しているのかも知れません。
▼少し難しいことを言えば、先程見ましたように、ただ洗礼を受けたと書いているだけですと、イエスさまがヨハネの教団の信者だったと受け取られかねないので、補足的に説明したということなのかも知れません。
しかし、取り敢えず重要なことは、これがヨハネの思い、ヨハネの考え方であり、それはイエスさまにも神さまにも、容れられなかったという事実です。
▼15節をご覧下さい。
『しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。
正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした』。
ここに述べられていることは、イエスさまの思い、イエスさまの考え方です。
そして、これは、17節にありますように、神さまの思いと同じなのです。
『そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
と言う声が、天から聞こえた』。
▼ここで、飛躍、むしろ脱線かも知れませんが、私はペトロの信仰告白の場面を連想させられました。
マタイ福音書16章13節以下です。
何度もお話ししていますし、別の主題になってはいけませんので、端折って申します。
ペトロは、弟子たちを代表するようにして、
『あなたはメシア、生ける神の子です』と告白しました。
そのペトロに、イエスさまは仰います。
『「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
陰府の力もこれに対抗できない。
19:わたしはあなたに天の国の鍵を授ける』。
信仰告白の上に、教会が立てられました。
▼そして、その教会に対して、十字架の死が預言されます。するとペトロは、
『イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
23:イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。
あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、
人間のことを思っている。」
24:それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。
▼イエスさまが洗礼を受けるという出来事は、神さまの御旨なのです。そして、それは十字架の死へと続く道なのです。そのことこそが、神さまの御旨なのです。
▼三つの福音書に共通して語られているもう一つのことは、聖霊が降ったということです。
聖霊が降った出来事は、洗礼と結び付けて語られています。
洗礼と聖霊降臨とは、切り離すことの出来ないものなのです。
16節をご覧下さい。
『イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、
神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった』。
聖霊が下されたのは、イエスさまが水に浸かり、そしてそこから上がられた時です。
▼これは、私たち人間の場合の方が分かり易く説明出来ます。
私たちが一度水に浸かるのは、そこで一度死んだということを意味しています。再び浮かび上がるのは再生です。復活です。つまり、洗礼とは、一度、肉のまま、生まれたままの自分を殺して、新しい命に生き返ることを意味しています。
これは全侵礼だろうと、滴礼だろうと同じことです。形は違っても、その意味するところは全く同じです。
▼その時に、聖霊が下されるのです。
つまり、聖霊とは、新しい命に満たされることです。
洗礼を受け、聖霊が与えられる出来事で、新しい命、キリスト者としての命を与えられたのです。
▼ではイエスさまの場合には、どうなのでしょうか。
イエスさまは、一度死ななければならないような罪を犯した方ではありません。
悔い改める必要もありません。
しかし、教会はキリストの体です。イエスさまは教会の罪のために、教会を贖いご自分のものとされるために、洗礼を受け聖霊を受けられたのです。
イエスさまの洗礼と聖霊は、教会の洗礼と聖霊なのです。
▼『そのとき、天がイエスに向かって開いた』。
この表現は重要です。
天が開いたから、そこから聖霊が下されるのですが、そういう単純なことに止まりません。
神の国が開かれたのです。天国の入り口が開かれたのです。
つまり、今、神の国が、この地上において始まったのです。
先程から繰り返しお話ししていることと同じことです。イエスさまの洗礼によって、教会が始まり、十字架の出来事が始まり、神の国が開かれたのです。天国の入り口が開かれたのです。
▼だからこそ、4章17節のように述べられているのです。
『そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」
と言って、宣べ伝え始められた。』
▼マルコ福音書でも、ルカ福音書でも共通している二つのことがあると申しましたが、実はもう一つのことが、三つの福音書に共通して語られています。 特にマルコとマタイでは共通しています。ルカでも、共通しているのですが、ちょっと離れています。
それは、洗礼と聖霊の出来事と、伝道そして弟子の召命が結び付いているということです。
逆に言えば、伝道・召命と無関係に洗礼と聖霊の出来事はありません。
▼ここでも、イエスさまの身の上に起こったことは、全て教会の上に起こるべきこととして語られています。
悔い改めて福音を信じ、洗礼を受けたと言っても、もしそこに伝道がないなら、その悔い改めも、洗礼も本物かどうか怪しいのです。
聖霊が下されていないからです。聖霊が下されていれば、伝道へと結び付くのです。
▼最後に、今日の主題からは外れるかも知れませんが、このことを確認しておきたいと思います。
洗礼、それから聖霊、同時にでもよろしいのですが、洗礼、聖霊、そこに十字架への道が開かれ、つまり教会生活が始まり、十字架の神秘の出来事に与ります。その印が聖餐です。洗礼、聖霊、教会生活がないのに、聖餐に与る事は出来ません。むしろ、無意味なのです。