朽ちない種から

2017年3月19日受難節第3主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。
 「人は皆、草のようで、
  その華やかさはすべて、草の花のようだ。
  草は枯れ、
  花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

ペトロの手紙一 1章22〜25節

▼23節の後半から読みます。
 『神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです』。
 『新たに生れた』とは、具体的には、イエスをキリストと信じて洗礼を受け、教会員となったことを指します。
 これは私たち一人ひとりにも当て嵌まることです。
 私たちは、『神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです』。
 同じⅠペトロ1章3節には、このように記されています。
 『神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、
死者の中からのイエス・キリストの復活によって、
  生き生きとした希望を与え』
 洗礼を受けるとは、新たな命が与えられることです。人間誰しも、誕生によって命を持ち肉体を持っています。しかし、その上に聖霊が与えられ、新しい人生が始められると言うのです。

▼しかも、それは『生き生きとした希望を与え』られることです。洗礼を受けることによって、『生き生きとした希望』を抱いて、新しい人生へと踏み出すことが出来るのです。
 その根拠は、『神の変わることのない生きた言葉』にあります。逆に言えば、それ以外にはありません。
 私たちには、弱さがあり、不信があり、躓きもあります。絶えず変化し、変化も、成長ならよろしいのかも知れませんが、衰えという変化があります。
 しかし、25節で繰り返されています。
 『しかし、主の言葉は永遠に変わることがない』。
 これが、これだけが、私たちの『生き生きとした希望』の根拠です。どんな逆境に見えようとも、瀕死の状態であろうとも、『神の変わることのない生きた言葉』によって、『生き生きとした希望』の中にいることが出来る、これがペトロの言う信仰です。

▼そんなことはおためごかしだと言う人がいるかも知れません。人間には誰にも慰めることが出来ない苦悩がある、絶望がある、いつも『生き生きとした希望』の中にいることなど出来る筈がないと考える人が多いかも知れせん。
 その通りかも知れません。しかし、逆から見れば、誰にも慰めることが出来ない苦悩、絶望に陥った時に、他のどんな存在が、どんな知恵が、人を救ってくれるでしょうか。『神の変わることのない生きた言葉』しかありません。

▼23節前半。
 『あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から…生まれたのです』
 このように述べられています。
 ペトロの手紙では、朽ちるもの=肉、つまり物質に頼った生き方と、朽ちないもの=信仰に基づいた生き方とが、対比的に描かれています。
 4節。
 『あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、
しぼまない財産』
 18~19節。
 『あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、
金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
 19:きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです』。
 このように、ペトロは徹底して、朽ちるものと朽ちないものとを対比します。

▼『あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から…生まれたのです』。
 この場合の『生まれたのです』とは当然、洗礼を受けたことです。
 私たちの人生は、創世記3章にありますように、
 『お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る』。
 所詮、『塵にすぎない』ものであり、『塵に返る』しかないものです。
 しかし、信仰は、『朽ちる種からではなく、朽ちない種から…生まれたのです』。
 私たちは逆に考えてはいないでしょうか。『塵にすぎない』肉体を絶対のもの、何よりも大事なものと考え、一方信仰については、絶対のものではない、何よりも大事なものではない、明日はどうなるか分からない、そんなふうに考えているのではないでしょうか。

▼肉体であれなんであれ、『塵にすぎない』ものを絶対のものと考えることは偶像崇拝です。空しいもの、本当には頼りにならないものを拝むことが偶像崇拝です。朽ちていく存在を、頼みとすることが偶像崇拝です。
 預言者イザヤやエレミヤが偶像崇拝を批判した時代から、目に見えるものには頼らない、人間が作り出したに過ぎない物質には頼らない、私たちを本当に救い出して下さる方は、目に見える偶像ではない、それが聖書の信仰です。
 目に見える偶像、それは、やがては朽ちて行くものに過ぎません。人間の肉体もまた、やがては朽ちていくものです。

▼半世紀も昔のことになります。教会に通い初めて間もない頃、一組の男女の結婚パーティーに招かれました。パーティーと言いましても、出席者は10人居なかったと思います。あまりに寂しいパーティーだから、員数合わせに誘われたのかも知れません。
 新郎は、仕事の関係で、一年中殆どが山奥の現場で暮らし、月に1~2回、里に下りて来るという生活でした。新婦は、子どもの頃から心臓を患い、日常の生活にも支障があります。自宅から教会までの道のり、普通の人の足なら20分もあれば充分な所を、彼女は、休み休み、1時間以上もかけてやって来ます。
 この二人が、互いに愛し合い、結婚したいという話になりました。きっかけは、男性の方に縁談があったからです。好人物ですから、教会の役員をしている町の有力者から話が起こりました。それを牧師が仲介して、話を進めようとしたら、実は結婚したい人がいるとなった訳です。
 周囲の者は、こぞって大反対。何しろ、50年近い昔、田舎のことですから、まだまだ、固陋な結婚観が強かったのです。
 健康な男女が結婚して、少なくとも2人3人の子どもを生み、育てる、それが結婚だという結婚観が当たり前でした。
 
▼青年は、まだ大学生にもなっていない私を相手に、「結婚とはそういうことだけではないだろう」。「愛とは、計算や打算とは無縁なことだろう」と、熱っぽく語ります。「奥さんに家事をして貰わなくても、ご飯くらい自分でも作れる。今までだって自分のことは自分でしてきた、それで良いだろう。子どもが出来なくたってかまわない。そういうことは、神さまの御心のままだ。子どもがなくとも幸せな夫婦はいくらでもいるじゃないか」。
 「自分は彼女の信仰に、信仰による生き方そのものに惹かれている。一緒に祈ることが出来れば、他のことはどうにかなる」。そんな話をタップリと聞かされました。

▼二人の結婚は、牧師からも反対され、教会からも祝福されなかったのですが、しかし、数年後、何と、この夫婦に子どもが与えられました。母体は大丈夫かと、誰もが心配したのですが、立派な女の子が生まれ、奥さんも、むしろ以前より健康になりました。
 その子どもには、恵と名前が付けられました。神さまの恵です。いろいろと不自由なことの多い結婚生活だろうと想像致します。経済的には決して豊かではなかったかと思います。しかし、この二人に神さまからの恵が与えられたことは、間違いありません。それは、真に、信仰によって生きる者に下される恵なのです。

▼そしてこの出来事が、私が神学校に進む決断材料の一つとなりました。世の中に、本当に、銭金打算ではなく、信仰に生きる人がいるということ、信仰に生きることが出来るのだと教えられたのです。

▼24~25節。
 『人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。
  草は枯れ、/花は散る。
 25:しかし、主の言葉は永遠に変わることがない』。
 ここはイザヤ書40章6~7節の引用かと思われます。似たような表現は詩編にも複数箇所あります。
 人の肉体も、命も、そして栄華も、みな野の草のように、やがては枯れ、やがては散ってしまう、はかないものに過ぎない。真に、頼りにすべきものは、朽ちることのない神の御言葉です。

▼22節。
 『あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を
抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい』。
 『偽りのない兄弟愛』、その真逆の例が、2章1節に上げられています。
 『だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って』。
 実に具体的な事柄です。兄弟愛と言うと、何だかとても難しいことで、普通の人には及びもつかないことという印象がします。しかし、ごく具体的なことなのです。悪意を持たない、偽りを言わない、偽りで接しない、そねみ・ねたみをしりぞける、そういうことです。当たり前のことです。
 ではこれは簡単かと言いますと、今度は別の意味で簡単ではありません。当たり前のこと、これを行うこと程、困難なことはありません。難解ではありませんが、行うのに困難なのです。

▼難しく聞こえるのは『魂を清め』でしょうか。どうやったら『魂を清め』ることが出来るのでしょうか。
 悪意を持たない、偽りを言わない、偽りで接しない、そねみ・ねたみをしりぞける、そういうことです。
 もし自分の心の中に、そんな醜い思いが湧いてきたらどうするのか、押さえ込むしかありません。祈って。
 そして具体的な努力です。悪意を持たない、偽りを言わない、偽りで接しない、そねみ・ねたみをしりぞける、これは困難なことかも知れません。しかし、行わなければなりません。信仰にも具体的な努力が必要なのです。
 
▼1章22~25節は、ペトロ書が背景とする教会の洗礼式で朗読された式文ではないかという説があるそうです。そうしますと、2章は、信徒の、生活綱領かも知れません。というよりも、ペトロ書全体がそのような意図を持っているのだと思います。
 この困難な信仰的実践を、私たちは決して不可能だと言ってはなりません。
 何故なら、私たちは、既に、朽ちる種からまかれた存在なのではなく、朽ちない種からまかれた存在だからです。
どうして、『悪意、偽り、偽善、そねみ、悪口』こういうことから、私たちは自由になれないのでしょうか。それは、朽ちるものでしかないものに、目を奪われているからです。神さまの力を信じられないからです。
そして何よりも、神さまがこの私を救って下さった、その出来事の持つ意味を、正しく自分の信仰に反映させていないからです。

▼2章3節。
 『あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました』。
 私たちが、救いに入れられたのは、唯、主の恵に依ります。そのような信仰に立つならば、『悪意、偽り、偽善、そねみ、悪口』こういうことが、教会に入り込む余地はない筈です。

▼イエス・キリストを信じて洗礼を受けるということは、やはり、これまでとは生き方を変えることなのです。どのように変えるのか、ペトロ書を読みますと、道徳的・倫理的・信仰的、そういう面が大いに強調されます。勿論、その通りなのでありますが、必ずしも、聖人君子のようになるということに強調点があるのではありません。
 そうではなくて、肉の思い、自分の欲望に忠実な生き方が、そうではない生き方、十字架の主に倣った生き方に変えられるというのです。
 つまり、『偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい』。
 深い兄弟愛に基づいた生き方に変えられ、深い兄弟愛に基づいた教会が形成されるというのです。自分を主張するのではなくて、むしろ、他の人を思いやるということです。

▼それもこれも、ただ一点、24節。
 『人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。
  草は枯れ、/花は散る』。
 空しい者を頼みとせず、
 25節。
 『主の言葉は永遠に変わることがない。」
  これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです』。
 私たちは、この言葉に立っているのです。

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