だれを捜しているのか

2017年4月16日復活節第1主日(イースター)礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

ヨハネによる福音書 20章1〜18節

▼人は少年時代から、後期高齢者になるまで、常に、何かを探して生きているのではないでしょうか。一生を費やしても発見できないものもあるし、見つけたと思った瞬間に、それを通り抜けてしまって、また迷子道に入ることもあります。
 誰かを捜して生きていると言い換えることも出来るでしょう。誰かをではなく、自分を捜しているのかも知れません。
 自分探しの旅とかと言いますが、これは何も青年だけのことではありません。年齢に関係なく、人は、自分を捜しているのかも知れません。

▼幼い子どもは、毎日、常に母親を捜して、例え1時間でも、見つからないと泣き、時には叫びます。
 小さい子どもの頃、中学生・高校生の頃、矢張り誰かを捜しています。何かを捜しています。見つけたと思った時もありましたが、せっかく手に入れたものを失った時もありました。誰しもそうではないでしょうか。
 そして、老いてからも、誰かを何かを捜しています。

▼『マリアは墓の外に立って泣いていた。』
 マリアは誰を、何を捜していたのでしょうか。イエスさまです。厳密にはイエスさまの遺体です。何故捜していたのでしょうか。それは彼女にはしなければならない仕事があったからです。
 金曜日の午後3時、イエスさまは十字架の死を迎えました。それから数時間の内に日没となります。ユダヤの暦では、日没とともに日付が変わりますから、つまり、安息日となります。この日には、葬りという仕事は出来ません。
 ですから、埋葬は、慌ただしく行われました。ヨハネ福音書によれば、アリマタヤのヨセフ、学者ニコデモが拘わったと記されています。彼らが当局から許可を得、十字架から降ろし、墓地まで運び、とても時間が足りなかったでしょう。
 そこで、兎に角遺体を布でくるみ、墓に納めるだけの、言わば仮埋葬です。

▼マリアは、誰よりも早く墓に出かけました。これは、そのまま、何故マリアなのかという問への答えでもあります。誰よりも早く、つまり、誰もイエスさまの遺体を見ない内に、遺体を綺麗にしたかったのでしょう。
 それはイエスさまへの恩義の故であり、愛の故であり、多分、そういう言葉よりも信仰と表現した方が正しい気持ちの故でしょう。

▼先週、教会創立70周年記念礼拝が守られました。島田勝彦先生による説教の箇所は、ヨハネ福音書12章、新共同訳聖書の小見出しでは「ベタニアで香油を注がれる」という箇所でした。ここで、マリアは高価な香油をイエスさまの足に塗ります。イスカリオテのユダがそれを咎めると、イエスさまは仰います。その箇所だけ引用します。12章7節です。
 『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、
  それを取って置いたのだから。』
 この場面のマリアと、今日の箇所のマリアとが同一人物とは断定出来ません。また、ヨハネ福音書と他の福音書では少なからぬ異同があります。
 しかし、同じヨハネ福音書の12章と20章、これを重ねて読むのはむしろ自然だと思います。
 何れにしろ、マグダラのマリアは、イエスさまの遺体を浄めるために、それまでは他の者に見せないために、朝早く出かけて来たのです。

▼この当時の葬儀は、3日から丁寧な葬儀だと1週間も、延々と続きます。そのことは、ヨハネ11章のラザロの復活の出来事を読んでも分かります。葬儀が何日も続くと、死体が腐敗して、酷い悪臭を放つようになります。
 ですから、故人の尊厳を保つためには、遺体を清め、香油を塗り、布で丁寧に包む必要があります。
 マリアはそれをするために、朝早くやって来たのです。
 大変な力仕事です。それをマリアは一人でやろうとしています。一人でしたかったのかも知れません。
 他の者には任せたくなかったのでしょう。一番辛い仕事だけれども、他人任せには出来ないのです。

▼何故マリアなのかという疑問は未だ残ります。矢張り、12章と、そして11章を重ねるべきではないでしょうか。11章とは、ラザロの死と甦りの出来事です。ここに描かれるマリアは、33節、
 『イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て』とあります。
 マリアは、愛する者を失い嘆き泣く者の象徴なのです。愛する者を失っても、ただ嘆き泣くしかない無力な人間の象徴なのです。だからこそ、何かをしなくては止まないのです。

▼さて、その遺体が無くなってしまいました。マリヤが心づもりしていた仕事は無くなりました。そこには、入り口を塞ぐ石が取りのけられた虚ろな墓がありました。つまり、空虚が、存在したのです。虚無が存在したのです。虚無は、マリアの心の中にこそ、存在したのです。
 2節。
 『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには
分かりません。」』
 この表現を見る限り、マリアには、復活などという考えは全くありません。死体が無くなったという表現です。
 しかし、せめてその死体だけ残っているならば、マリアには務めがあったし、全くの虚無ではなかったのです。
 イエスさまが十字架に架けられたこと、それよりも、イエスさまが奪われてしまったこと、その遺体が存在しないことが、マリアの空虚、マリアの絶望なのです。

▼13節。
 『天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」』
 2節と同じように表現しています。
 ここでも、問題になっているのは、あくまでも遺体のことです。

▼ところで、マリアは何故イエスさまが分からなかったのでしょうか。14節。
 『こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエスだとは分からなかった。』
 涙で目が曇っていたからかも知れませんが、そのような、些末なことでないでしょう。マリアが見たものは、ただの地上のイエス、ナザレのイエスではなく、復活の主イエスなのです。

▼地上のイエス、ナザレのイエスだったら、勿論マリアには一目で分かります。少しばかり服装や様子が変わっていても分かります。それが分からなかったのは、地上のイエス、ナザレのイエスではなく、復活の主イエスだったからです。

▼20章の後半や21章に描かれる所を読むと、復活のイエスさまは、地上におられる時と同じような姿で、同じような行動を取られます。しかし、復活の主イエスなのです。むしろ、あの山上の変容のような、光輝く姿をなさっていてもおかしくないのです。
 否、既に、十字架において、栄光に輝くお姿となられたのです。
 ヨハネ福音書19章23節。
 『兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、
各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、
それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった』。
 何で、こんなことが記されているのでしょう。福音書中、イエスさまの姿形、衣服のことに触れた描写は殆どないのに、何故ここに下着のことが記されるのでしょうか。24節に一応説明はありますが、それよりも、『縫い目がなく、上から下まで一枚織り』、つまり天衣無縫です。
 ヨハネ福音書が描くイエスさまの十字架は、栄光の姿なのです。

▼ところで、14節。
 『こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエスだとは分からなかった。』
 『イエスだとは分からなかった』のは、死んだ筈の人だから、そういう思い込みだからと言うことでしょうか。そうではありません。
 その程度のことならば、15節の問答にはなりません。
 15節。
 『イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去った  のでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」』
 夜が明けてから、もう時間も経っています。声も聞きました。分からない筈がありません。

▼これは、単純に気が付かないという話ではなくて、遮られていて分からないのです。
 つまり、地上での関係、人間的な関係がどんなに親しくても、それだけでイエスさまに結び付くことは出来ないのです。
 イエスさまだと分かったのは、16節です。
 『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、
「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。』
 イエスさまが声をかけて下さった時です。復活のイエスさまが呼びかけて下さった時です。

▼マリアとイエスさまの会話は、イエスさまが復活し、イエスさまをよくよく見知っていた者に、その姿を現されたということが、肝心な所です。嘘でも幻想でもなく、単なる願望でもない、事実だということ、それが強調されているのです。
 しかし、同時に復活のイエスさまにお会い出来るのは、信仰によってのみだとも強調されているのです。復活は、嘘でも幻想でもなく、単なる願望でもない事実です。しかし、それ以上に、神秘の事柄です。だから、復活のイエスさまにお会い出来るのは、信仰によってのみなのです。

▼信仰も何もないけれども、復活のイエスさまが、弟子たちに会うために道を歩いておられるのを、偶然見かけたなどという、そういう証言は存在しません。福音書にも、使徒の書簡にもありません。
 拘るべきは、地上のイエスさまを見たかどうかではなく、復活のイエスさまに出会ったかどうかです。
 地上のイエスさまを毎日のように見ていても、信仰には至らず、復活のイエスさまに出会うことが出来なかった人間が大勢います。

▼福音書に登場する人物の内、むしろ多数が、地上のイエスさまに出会いながら、イエスさまを信じることが出来なかったのです。
 それなのに、私たちは、イエスさまを信じることが出来なかった人の体験を求め、イエスさまの顔を見たい、見たら信じられる、イエスさまの声を聞きたい、聞いたら信じられると、つぶやきをいっているのではないでしょうか。

▼私たちには、地上のイエスさまを見ることは大変困難で、聖書を通じて伺い知るだけかも知れませんが、しかし、信仰によって、復活のイエスさまに出会うことが出来るのです。
 他の人に向かって、このように証言することが出来るのです。
 『わたしは主を見ました』。

▼17節。
 『わたしにすがりつくのはよしなさい』。
 復活の主にこそ、弱っている者も、礼拝に出ることが困難になっている者も、家族にとっても、教会にとっても、自分は居てもいなくても良い存在なのではないだろうかと、そう考えて落ち込んでいる者も、すがりつくのではなくて、復活の主に導かれて、復活の主と共に、神の国を目指すのです。

この記事のPDFはこちら