人間をとる漁師に

2017年4月30日復活節第3主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

マルコによる福音書 1章16〜20節

▼『わたしについて来なさい』。イエスさまが、ペトロとアンデレの兄弟を、召し出された時の言葉です。どうしてこの漁師たちが、最初の弟子として呼び出されたのだろうと、素朴に疑問に思います。彼らにはどんな能力があったのか、どんな資格があって弟子にされたのかと考えてしまいます。

▼彼らにどんな能力が有ったかを知るためには、後々彼らがどんな活躍をしたかを見ればよろしいと思います。しかし、聖書には、成る程これが理由なんだ、こんな才能を持っていたんだと、思い当たるようなことは記されていません。
 ペトロについてならば、これがそうかなと、考えないでもありません。しかし、むしろ、この人ではまずかったのではないかというような出来事の方が、多く記されています。
 ヨハネについては、何か有りますでしょうか。ヨハネについても、むしろ思い浮かぶのは、欠点、失敗の方です。所謂ゼベダイの子らの野心と言われる出来事などは、ヨハネの信仰そのものが疑われるような出来事です。

▼それでは今後のイエスさまの活動に何かしら益するものを、彼らは持っていたのでしょうか。例えば、家柄とか地位、財産とか。或いはそのような持ち合わせはなくとも、仲間内の信望とか。人目を惹く器量とか。
 日本基督教団、特に長老主義教会の源流の一人とも評価されている植村正久牧師は、当初神学校への入学を認めて貰えなかったそうです。
 植村正久は貧乏士族の出です。このことは条件に適っていたそうです。あまり身分の低い者だと、伝道者として軽視されるという観点からです。
 入学を認めて貰えなかった理由は、見栄えが悪いということだったそうです。体格と顔です。

▼植村正久のことも、他の人のこともこれ以上説明する必要はありません。私からすると、とんでもない基準だ、差別的で福音的ではないと、腹立たしい気さえしますが、むしろ常識的かも知れません。
 どうしても出自正しく、見栄えが良い方が、伝道者として向いているだろうと思います。私などは僻むしかありませんが、使徒パウロも美男で話し上手なアポロのことを強く意識しています。福音の内容と無関係にアポロフアンがいたようで、そのことで苦労しています。
 現代の教会だって同じことかも知れません。現代なら家柄と学歴でしょうか。

▼統一原理では、この点明確で、簡単に説明しますと、幹部候補としては、絶対にこの基準を満たしていなくてはなりません。家柄の良い、美男美女です。
 一方、悪徳商法などさせられる兵隊は、全然基準が違います。

▼さて、イエスさまは、どのような基準で、弟子を選ばれたのか、3章13節には、このようにあります。
 『これと思う人々を呼び寄せられると』 … どんな資質が『これと思う人々』なのかは説明されていません。一方で無作為でということでもありません。
 つまり、不明なのです。

▼不明だということが、マルコ福音書の結論です。何もありません。何も無くともかまわないということではないでしょうか。ただ、『「わたしについて来なさい』との言葉を聞いたのです。ただ、『「わたしについて来なさい』との言葉に従ったのです。
 それ以外は何も要らないということです。少なくとも問題にされていないのです。

▼また、彼らはどんな思いで、イエスさまに従ったのだろうということにも、興味を持たないではいられません。特に、洗礼を前にした者や、神学校に入るかどうかで迷っている者にとっては、これは、実に真摯な問です。
 福音書の僅かな記述から、必死に、彼らの思いを探らずにはいられません。
 たった一つの単語を、そのギリシャ語本来の意味まで調べずにはいられません。しかし、そこにも、無理矢理こじつけでもしない限り、答えらしきものはありません。

▼私たちは、マルコ福音書に記されていることを読むべきではないでしょうか。それだけを読むべきではないでしょうか。何も記されていないということをです。
 この点についても、『わたしについて来なさい』これだけなのです。
 何故、何を目的として従ったのか、招きを受けた弟子たちには、その時に、どんな思いがあったのか、それは記されていません。一番大事なことではないのです。

▼ただ、『わたしについて来なさい』というイエスさまの言葉が与えられた、それが全てです。それで、十分です。何故とか、何を思ったかとかは無用なのです。その時に、弟子たちが何を思ったか、それは、良い動機に基づくものであれ、逆であれ、本質的なことではありません。
 イエスさまの言葉が示された。イエスさまの御心が示されたのです。
 これは角度を変えて読めば、私たちには何も要らないということになります。たいそうな決心・覚悟や、心構え準備、そんなものは要らないということです。
 ただイエスさまの声に従って行くだけで良いのです。

▼自分が信仰を持った経緯や動機について、とうとうと説く人がいます。それはそれで事実ならば、他人がとかく言うことではありません。結構なことでしょう。
 しかし、その時の自分の心、決断、これにあまりにも拘泥しすぎると、落とし穴が待っています。人の心は変わるからです。

▼『人間をとる漁師にしよう』、そのように考えられたのはイエスさまです。弟子たちではありません。そうしますと、私たちは自分の意志ではなく、イエスさまの御心によって、『人間をとる漁師に』なるのです。イエスさまの声に従って行くのは、『人間をとる漁師に』なるためです。
 私たちには、たいそうな決心・覚悟や、心構え準備、そんなものはないかも知れません。しかし、イエスさまが呼んで下さるなら、何も要らないということです。
 私たちは、たいそうな決心・覚悟や、心構え準備、そんなものはないかも知れませんが、『人間をとる漁師に』なる、伝道する者になれるのです。
 必要なものは信仰だけです。

▼蛇足になるかも知れませんが申します。
 しばしば思うことがあります。信仰は愛に似ていると。
 何故人は他の人を愛するのか。もしそこに理由付けをして行きますと、ろくな結果には辿り着きません。恋愛ですと、あの人はお金を持っているから、地位があるから、結婚生活がリッチになるなどと考えたら、その瞬間愛ではなくなると思います。
 子どもや孫の場合にも、老後を見て貰おうなどという理由を上げたら、愛ではなくなってしまいます。
 愛には理由は要りません。あったら、むしろおかしなことです。

▼愛する資格、愛される資格というものがあるかも知れません。しかし、自分には十二分にその資格があるなどと考える人こそ、その資格は怪しいものです。
 相手が神さまの場合には、ましてそうです。愛する資格、愛される資格を持っていると考えている人の愛は、怪しいものです。
 むしろ、愛する資格、愛される資格を持っていないのではないかと悩む人の愛こそ、確かな愛ではないでしょうか。

▼信仰にも人間的な意味での理由などありません。あったら奇妙なことです。信仰すれば儲かるとか、出世できるとか、それは御利益宗教の話です。
 信じる資格、弟子として召される資格を持っていると考えている人の信仰は、怪しいものです。
 むしろ、信じる資格、弟子として召される資格を持っていないのではないかと悩む人の愛こそ、確かな愛ではないでしょうか。

▼さて、イエスさまが最初の弟子たちにかけられた言葉は、『わたしについて来なさい』だけではありません。『人間をとる漁師にしよう』です。これを忘れてはなりません。
 弟子たちを、『人間をとる漁師に』すべく、イエスさまは彼らを召し出されたのです。
 信仰者は、『人間をとる漁師に』なるべく、イエスさまに召し出されたのです。

▼プロテスタントの信仰の中心部分に、万人祭司論があります。そんなに簡単に説明できる事柄ではありません。しかし大胆に約めて言えば、信者の間に聖職者と信徒の絶対的区別など存在しない。信者は皆、祭司としての役割義務を持つということです。
 このことは難しいし、多くの誤解を伴います。
 別の主題になってしまいますから、今日は万人祭司論についてお話しするつもりはありません。
 万人祭司論よりももっとはっきりしていて、疑問や議論の余地のないことは、万人伝道者論です。実は万人伝道者論という言葉は存在しませんが、しかし、明確です。

▼漁師たちだけではありません。キリスト者は、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』というイエスさまの言葉に従って、信仰者となったのです。
 これは相手を牧師に限定された言葉では決してありません。

▼不思議な話を聞きました。平和主義で知られるクェイカ―教と、キルト、そして古風な独特の生活スタイルで知られるアーミッシュ派は、元々出自が同じで、似通った所が多くあります。
 しかし、今やクェイカ―教徒は滅亡の危機にあり、アーミッシュ派は増えているそうです。両者とも外の世界への伝道には不熱心です。殆ど何もしません。両者の違いは、家族への伝道です。アーミッシュも強制はしないそうですが、彼らは多くの子どもを設けますので、自然増で増えているのです。クェイカ―教徒は、結婚そのものに否定的ですから、自然減で減っているのです。
 ここに一つのヒントがあるように思います。先ず、身近な人(特に家族)への伝道です。
 身近な人に語る言葉がなくて、遠い人に語る言葉はありません。

▼16年度から始められた『キリスト教を学ぶ会』、『ガリラヤ会』等は、正にこの発想に立っていると思います。すぐには成果が出なくとも、必ず何物かを産み出し、残すと思います。
 このことを行うのに、何か斬新なアイデアなどありません。ただ、祈り、誘い、これだけです。

▼玉川教会創立71年目の歩みが既に始まりました。100年目に向けて歩き出したと言っても良いでしょう。随分先のような気もしますが、そうではないかも知れません。何れにしろ、おそらくは会堂再建などの課題が出て来る100年目に向けて、足並みを整えるべき時です。
 しかし、今、状況は厳しいものがあります。教会員の高齢化が進んでいます。高齢化が進んでいるということは、若い人が教会に来ないということです。
 一方で、新しい試みも始まろうとしています。
 この二つのことをまとめて言えば、試練の時です。
 皆が心を合わせなくてはならない時です。

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