信じる者は死んでも生きる
2017年5月7日復活節第4主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
ヨハネによる福音書 11章17〜27節
▼聖書日課に従い、繰り返し読んでいる所です。繰り返し読む必要があるということでしょう。
同じ聖書日課ですが、その都度、少しずつ違います。つまり、11章の前半部を併せて読んだり、逆に後半部を併せて読んだりしています。
その時にも、外されることがないのが、今日の箇所です。
今日の箇所こそが、ラザロ復活物語の中心部分だと考えて良いでしょう。
▼そこで、今回は、この箇所に限定して読んでまいります。
17節。
『さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた』。
今日の箇所に限定しますから、何故4日も放っておかれたのかという点については触れません。
『墓に葬られて既に四日もたってい』ました。実に生々しい表現です。39節にありますように、死体は腐敗し、臭っています。
▼今日、葬儀も遺体も綺麗になりました。昔はそうではありません。夏場だと、その日の内にも腐り、酷い臭いがしたものです。中学生の時に、水死体を見たことがあります。登校路にある橋の上から、浅瀬に仰向けになった死体を見つけました。何故か上半身が裸で、顔も腹部も、異様なまでに膨れあがっています。立ち止まって見ていると、警察官がやって来て、検分を始めました。
その内に、臭いが漂って来ました。たまらずその場を去りました。記憶に残ったのはその臭いだけです。男の顔も、膨れあがった腹も、大して苦になりませんでした。後々夢に見ることもありません。しかし、臭いだけは、しつこくつきまといました。
▼遡って、小学校1年生の時に、義理の祖母が亡くなり、葬儀になりました。私は通夜の席から逃げだし、子どもの足だと1時間もかかる夜道を歩いて、我が家に逃げ帰り、他に誰もいない家に一晩おりました。
私は恐がり屋で、普段なら、夜中に一人でいるだけで怖いのですが、夜道を歩き、一晩一人で過ごしました。
それ程に、臭いが酷かったのです。この臭いは他のものに比べようがありません。人間の死体の臭いは特別なのです。恐怖の臭いであり、それよりも滅びの臭いなのです。
▼『墓に葬られて既に四日もたってい』ました。実に生々しい表現です。これは、人間の滅び、絶望を言い表す言葉なのです。
その滅び、絶望の場にイエスさまは赴かれたのです。
今日、葬儀は小綺麗になり、遺体も臭うようなことはありません。人の死の尊厳を保つという点では大変に結構なことです。
先日テレビを見ておりましたら、葬儀で用いる遺影についての話題でした。少し若いときの、自分でも自信が持てる綺麗な写真が良いとか、しかし、先になくなった夫が若いのに、自分の写真はおばあちゃんで嫌だとか、いろいろと現実的なことが話題になっていました。
現代の技術をもってすれば、写真などはいくらでも加工できます。その内、10代20代の写真を飾るようになるかも知れません。
それはそれで結構なことです。
▼しかし、遺体の臭いを消し、顔のシミを消し、美しい花で飾り、結果、死の悲しみ、絶望、滅びの恐怖、そういったものが忘れられて行くようです。ごまかされて行くようです。
家族も周囲の者も、それでよろしいでしょう。悲しみ、絶望、滅びの恐怖を紛らすものがあった方がよろしいでしょう。
しかし、当人はどうでしょう。自分の死からも疎外されてしまうとさえ言えるのではないでしょうか。
▼18節。
『ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった』。
聖書の付録には、1スタディオンが185メートルとあります。2775メートルです。1里に足りません。急げば、数十分で駆けつけることができます。
しかし、イエスさまは4日、待たれました。今日はこの箇所に限定しますから、これ以上拘りませんが、イエスさまは、敢えて、ラザロの、ラザロに代表される人間の悲しみ、絶望、滅びを見つめ、祈っておられたのではないとかは思います。
いかに葬儀が綺麗なものになっても、人の死の現実は、何も変わりません。
これに真っ正面から向き合うことなくして、信仰も救いもありません。
全てはここから始まるのです。
▼19節。
『マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた』。
埋葬から4日も経っていたのに、弔問客は退きも切らないということになります。当時の葬儀は3~7日も必要でした。昔の田舎の葬儀もそんなふうでした。現在よりも遥かに、死も葬儀も、大切に扱われていたのです。葬儀屋さんが入りませんから、酷い悪臭がし、皆が忙しく、雑然としていたけれども、死も葬儀も、現在よりも遥かに、大切に扱われていたのです。
また、親戚縁者への通知、知らせを受けてから、駆けつけるまでも、日数が要ったと思います。
この『多くのユダヤ人』が本当に、ラザロを惜しみ嘆いていたかは分かりません。4日経っても涙していたのは、儀礼的なものかも知れませんし、しかし、この時にやっと駆けつけたのかも知れません。
少なくとも、マリアは4日間、泣き暮らしていたようです。矢張り、死も葬儀も、現在よりは遥かに、大切に扱われていたのです。
▼20節。
『マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは
家の中に座っていた』。
『マリアは家の中に座っていた』とは、何故イエスさまは来てくれないのかとすねていたからでしょうか。
32節には、
『マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った』。とあります。
その思いは、マルタにしても同じです。
▼21節。
『マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』。
32節のマリアの言葉と寸分違いません。姉妹は同じ気持ちでいたのです。もしかしたら、二人して、このように話し合い、何故来てくれないのかと疑念を持ち、不信を育てていたのかも知れません。
▼しかし、不満を言うだけではありません。マルタはなおも続けます。
21節。
『しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくだ
さると、わたしは今でも承知しています』。
何故来てくれないのかと不満を持ち、イエスさまは私たちを一番大切には思っていないと、疑いも持ちました。しかし、一方で、イエスさまの力を疑ってはいません。だからこそ、彼女の思いは深刻だったのかも知れません。
▼私たちにも全く当て嵌まることです。
イエスさま、神さまの存在や力を疑うことはなくとも、イエスさまは、この私などに関心を持ってはおられない、世界中には何億人ものクリスチャンがいる、私はその一人に過ぎない。私がどんな信仰を持ち生きようが、イエスさまには、全く痛痒がない。
これが私たち人間の陥る不信仰です。
勿論、苦境を迎えた時に、神も仏もあるものかと、全く信仰を捨てる人もあります。
▼23節。
『イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると』。
当時、ユダヤ教の中にも復活信仰がありました。サドカイ派は復活を否定しますがファリサイ派は否定しません。流行の信仰だと言ったら、言い過ぎでしょうか。しかし、それは、24節のマルタが言うような、意味でしかありません。
▼『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』。
あくまでも、ユダヤ教的終末論に立った信仰ですし、教科書に書いてある通りの一般論に過ぎません。
『復活することは存じております』、知識としては知っているし、決して否定もしません。そういう意味合いであす。
▼25節。
『イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる』。
これは一般論ではありません。今目の前にいるイエスを信じるか否かと、決断を迫っているのです。
更に、26節。
『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか』。
この点については、後でもう一度触れます。
先に26節を見ます。
▼『マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、
メシアであるとわたしは信じております』。
これはもう信仰告白です。
信仰とは、イエスこそが『神の子、メシアであると』信じることです。
その信仰がなくては、絶対に、『わたしを信じる者は、死んでも生きる』『信じる者はだれも、決して死ぬことはない』、こういう信仰を持ち得ないのです。
▼信仰告白は、暇人の神学ではありません。現実の中で、うめき苦しみ、叫び、その中で得られたもの、その中で聞いた神さまの声への応答なのです。
教会は、真の救い、『わたしを信じる者は、死んでも生きる』『信じる者はだれも、決して死ぬことはない』、こういう信仰についてのみ語るべきで、他のことにかまってなどいられません。教会は、そんなに暇ではありません。暇人の集まりではありません。
▼魂の救い、天国の救い、この肝心なことを伝えなくて、一体何を伝えるのでしょうか。この世の問題に真摯に取り組むことが教会の使命だなどとという者こそ、幻想と逃避に生きているのです。
教会に救いを求めて来る人々の、魂の叫びを聞かなければならないのです。信仰の経験が多かろうと少なかろうと、必死な思いで教会に救いを求める人々にこそ、神の言葉を求める人々のためにこそ、教会は存在するのです。
▼17節。
『さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて 既に四日もたっていた』
39節。『イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、 もうにおいます」と言った』
これこそが、人間が抱える現実の極まりです。この現実の中で、イエスさまは、『わたしを信じる者は、死んでも生きる』『信じる者はだれも、決して死ぬことはない』、このようにおっしゃったのであり、マルタは、『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております』、このように答えて信仰を告白したのです。
▼最後に。マルタの信仰告白はペトロのそれに似通っていると思います。
マルコ福音書8章27~29節。
『弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と
言われた。
28:弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29:そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを
何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです」。
ここで、ペトロは、一般論ではなく、あなたはどう思うかと信仰的決断を迫られ、信仰告白します。また、その一方で、『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』、ペトロ一個人の信仰告白ではなく、教会の信仰告白なのです。
マルタも同様です。一般論ではなく、マルタの信仰が求められます。
そしてまた、マルタ一個人の信仰告白ではなく、愛する者を失い絶望する者の信仰告白なのです。