いつも喜びなさい

2017年6月25日聖霊降臨節第4主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

フィリピの信徒への手紙 2章12〜18節

▼清風園での聖書研究会でのことです。何時も10~15分早めに着いて、準 備の雑用をするように心がけています。それでも一番乗りということは滅多に なく、ボランティアの方が、車椅子の人をお迎えに出ています。その間、私は 聖書や讃美歌にしおりをはさみます。そうしないと、自分では開くことが出来 ない人が大部分ですので、讃美歌や聖書を開くのに、うんと手間取ります。しおりがあっても、一曲ごとに5分近くかかるでしょうか。
その讃美歌にしおりがはさんでありました。 そこには聖句が記されています。 『わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。
18:同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい』。 新共同訳聖書ではなく、口語訳です。 似たような表現は、パウロ書簡の随所にあります。

▼私は、しおりをはさむ手が止まり、考え込んでしまいました。 『わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。
18:同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい』。 集会に出席する方々の現実との、あまりのギャップに、戸惑ってしまいます。 清風園は軽費老人ホームです。ひとり一人の家庭の状況などは知りませんが、何らかの事情があり、或いは健康面での不安があり、家族から離れて、以前に は全く知らなかった他人と一緒に暮らしているのです。

▼私は玉川教会赴任と同時に、清風園での聖書研究会、実は礼拝を守っていますから、もう17年目です。
当初のメンバーは一人も残っていません。皆さんお年を召して、病を得、そして亡くなって行きました。
お別れの会に1度だけ参加しましたが、他の場合は、葬儀に出たこともありませんし、亡くなったことを知るのも、直ぐにではなく、月一回の集会ですか ら、あの方この頃見えませんねと尋ねて、亡くなったんですよと答えを聞くのが常のことです。

▼出席簿も勿論住所録もありません。ですから正確な人数は数えられませんが、数十名もの方が、その集会から旅立って行かれました。もっと大人数かも知れません。 17年も経ちますと、一人ひとりが次第に弱っていくのを見ることにもなり
ます。これは、辛いものがあります。お体のことだけなら仕方がないかも知れませんが、痴呆もあります。
元気に讃美歌を歌っていた方が、歌うどころか、よだれを流す様子を見るのは、辛いものがあります。

▼振り返って見れば、清風園の職員もどんどん入れ替わります。責任者も何故か頻繁に替わります。17年ずっと拘わっているのは、私だけかも知れません。
その私が、葬儀に出たこともないのです。

▼私自身も同じことです。牧師が説教の中で愚痴をこぼしても仕方がありませんから、詳細は申しませんが、不安、恐れ、焦燥、悩みに支配されていました。
『あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい』。
これは土台無理な注文です。喜べません。感謝出来ません。むしろ、不満、憤慨、ややもすれば憎悪によって、心が捕らえられているのが、人間の現実であり、社会の現実です。

▼テレビや新聞のニュースだけで十分過ぎるくらいです。世の中には、私たちの周囲には、悲しみ、絶望、不安、恐れ、焦燥、悩みが無数に存在します。
それなのに、『あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい』といわれても、無理な注文です。喜べません。感謝出来ません。
もし私は常に喜び常に感謝しているという人がいるとしたら、その人はテレビや新聞のニュースを見ない人でしょうか。それとも、そういうことに無関心な人なのでしょうか。多くの人々が、生命の危険に脅かされ、餓えた子供たちがいるのに、何の関心も、心の痛みも持たないのでしょうか。

▼使徒パウロはどんな気持ちで、この言葉を言ったのでしょうか。フィリピ書 は長くはありませんので、全部読むのが良いでしょうが、時間的に無理ですので、触りだけ申します。
フィリピ書は獄中書簡の一つに数えられます。パウロはフィリピ書を執筆したとき、牢の中に居たのです。獄中と言っても、今日の刑務所、まして監獄ではなく、訪問者を迎えることも出来たようです。今日なら、軟禁状態でしょうか。食べ物にも不自由はしません。少なくとも、餓えることはありません。
しかし、獄中は獄中です。間違いありません。

▼実際、パウロはこのような投獄を何度も体験した後、最後にはローマに護送され、やがては十字架の死を迎えるのです。そのことを、フィリピ時代にパウロは覚悟していたことでしょう。
1章20~26節を引用します。今日の箇所の右側の頁です。少し長い引用になります。
『そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも 死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
21:わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 22:けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 23:この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 24:だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。 25:こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう』。

▼パウロにとって生きるかされるか死ぬかが、絶対のことではありません。ただ、パウロの働きに依って、『キリストが公然とあがめられるように』これだけが絶対のことです。
もし死がキリストのためになるならば喜び感謝して死ぬし、もし生きること がキリストのためになるならば喜び感謝して生きるのです。

▼1章13~14節も引用します。 『つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、
兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、 14:主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、
わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです』。 このことがありますから、パウロは、捕らえられ、裁判にかけられてもくじけないし、むしろ、それこそが神の恵みだと受け止めるのです。

▼脱線しましたので、最初に話を戻します。つまり、喜びにも感謝についても、パウロの中に判断基準があるのではありません。喜びにも感謝についても、パウロの中に根拠が存在するのではありません。その判断は神がするし、根拠も神が与えてくれるのです。
私たちも同じことではないでしょうか。
冒頭に申しましたように、私たちには、喜び感謝の根拠はありません。むしろ逆です。それが辛いから、私たちは、何とか踏ん張って、喜び感謝する理由 を根拠を見つけようとします。
特に子供や孫のことなどはそうです。子供や孫のことでどんなに頭を痛め、 心をむしられるか、これ程辛いことはありません。だから私たちは自分に言い聞かせます。
この心の痛みも悩みも、子供や孫が与えられたからこそのことであって、子供や孫が与えられたことは、あらゆる喜び感謝に勝るのだから、この心の痛み も悩みにも、喜び感謝しようではないかと。

▼パウロが言っていることと全くかけ離れたことではありません。私たちは、信仰故にこそ、教会に対する愛故にこそ、頭を痛め、心をむしられる思いをしなくてはならない場合があります。その時にも、信仰が与えられたことは、あらゆる喜び感謝に勝るのだから、この心の痛みも悩みにも、喜び感謝しようではないかと、言えるかどうかです。これが言えない人は、信仰、教会を捨ててしまうのです。 心の痛みも悩みを取り去るには、その根本を切り捨てるのが、一番の良策です。

▼今日は例外的に、聖句を順に読むことをしていません。しかし、時間がありませんから、大事なところだけ拾い読みます。
12節後半。『わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、
恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい』。『恐れおののきつつ』、とても強い言葉です。しかし、これが信仰の、そして神さまのご用に当たる時の根本姿勢です。司会とか、お祈りの時に緊張を覚える、むしろ恐怖を覚えるという人がいます。大いに結構と、私は考えます。得意業だから任せてなどと言う人はいないとは思いますが、もしそんな人がいたら、自分の部屋に閉じ籠もってひとりで祈りなさいと言いたくなります。

▼『自分の救いを達成するように』、これが信仰生活の目的です。そのためにこそ、教会に集い、礼拝を守るのです。肝心な目的を忘れてしまうと、教会は 教会ではなくなるし、信仰ではなくなってしまうのです。

▼14~15節。
『何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。15:そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、
よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、
世にあって星のように輝き、 『不平や理屈を言わずに行』うことは至難の業です。自分でも不十分なこと
しか出来なかったという負い目があると、『不平や理屈を言』って、自分を正当化するのが、人間の常です。自分でも十分なことが出来たという自負があると、それが直ちに、なんで他の者は充分働かないで、俺にだけ仕事をさせるのだ、自分の働きに見合う正当な評価報酬を貰っていないぞと『不平や理屈を言』うのが人間の常です。
しかしこれらは、神さまが見ている、裁きは神さまがなさるという単純・素朴な信仰を忘れています。

▼16節前半。
『命の言葉をしっかり保つでしょう』。これが信仰生活の目的地です。他に目的地があったら仕方がありません。もう何も言うことはありません。大いに、『不平や理屈を言』って、神さまから 離れるしかありません。
しかし、『命の言葉をしっかり保つ』には、『不平や理屈を言わずに行』うことが必須の業です。

▼16節後半。 『こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、
労苦したことも無駄ではなかったと、
キリストの日に誇ることができるでしょう』。 私には想像を超えることですが、プロでもないのに、マラソンを走る人がいます。多くのランナーにとって、タイムよりも完走が目的だそうです。確かに、完走しなければ、ゴールしなければ、それまで汗を流したこと、心臓まで痛くなったことが無駄になります。 否、マラソンなら、40キロでも、30キロでも、10キロでも結構ではないですか、趣味だし、健康のためだし、完走にそんなに拘る必要はないと、1 キロも走れない私は考えます。

▼しかし、信仰の道こそ、完走が必要です、タイムなんか関係ない、兎に角完走することが必要なのです。完走しなければ、走ったことの全てが無駄になります。
この譬えは誤解を招く可能性がありますので、諄いことを言います。
信仰の道の完走とは、最後まで足を動かすことではありません。寝たきりでも、信仰生活というマラソンは、走り続けられます。
ゴールも、テープが待っている競技場とは限りません。祖も42.195キロとは決まっていません。
100キロ走る人もあれば、80,70,20、10の人もいます。

▼17節。『更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、
たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。
あなたがた一同と共に喜びます』。 簡単に注釈します。パウロにとっては、十字架の死もまた、信仰生活のゴールなのです。恐れるに足らず、むしろ感謝・喜びなのです。

▼こういう根拠・理由に基づいてパウロは言います。『わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
18:同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい』。 私たちの中には感謝・喜びの根拠・理由はないかも知れません。しかし、信仰に生き、信仰に死ぬ覚悟を持ったパウロには、感謝・喜びがあります。 私たちに取っては、この言葉こそが、感謝・喜びの根拠・理由となるのです。

この記事のPDFはこちら