十字架の沈黙

2017年7月16日聖霊降臨節第7主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

ヨハネによる福音書 8章1〜11節

▼まず、6節の後半から読みます。
『イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。』
 イエスさまは、何故『かがみ込』んでおられたのでしょう。地面に何を書いておられたのでしょうか。まるで落書きをされていたかのようです。
 その理由は3節、4節の描写から想像できます。
 『そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
 4:イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。』
『姦通の現場で』『姦通をしているときに』、姦通という言葉を二度繰り返しています。まさか素っ裸ということもないかも知れませんが、一目でそれと知れるような異様な姿だったのではないでしょうか。
 人々は蔑みの目で、女を見詰めています。それ以上に好奇の目で女を見詰めています。人々は、その視線で、既に女を罰し、女を既に傷つけています。
 
▼テレビのニュース番組、それもワイドショーなどで、同じような光景を見ます。何かしらの罪を犯した女性を、その出来事或いは犯罪とは無関係なことまで暴き立て、おもしろおかしく報道します。
 それを見ている私たち一般の視聴者には、独自の情報はありませんし、その女性の人柄、普段の生活など何も知りませんから、テレビの情報を全て真に受けて、一緒になって、怒り非難し、そして重い刑罰を要求することになります。
 ごく希にではありますが、この情報が間違っていた、少なくとも大げさに過ぎたことが判明することがあります。
 ストーカー殺人で、被害者のプライバシーが暴き立てられ、しかも、それは大方間違った情報だったことがありました。テレビを見て、この情報に振り回され、とんでもない女だと批判していた私は、真実が分かった時に、何ともばつの悪い思いをしましたが、公の場で非難した訳ではないし、間違いを指摘される訳ではないし、それっきりです。
 しかし、本当は知りもしないことで、人を批判し、嫌悪していたことは、信仰的には罪だったと思います。

▼イエスさまは、蔑みの目で見られ、好奇の目で見られ、既に実質的には過重な刑罰を与えられているこの女から目をそらすために、人々とは別の方向を見ておられたのです。人々とは逆の方向、地面を見ておられたのです。
 敢えて見ないことが労りなのです。
 罪の現実、弱った姿を直視し、その痛みに寄り添うことが大事だと言われます。その通りかも知れませんが、これは万能ではありません。敢えて見ないことが、大事な場合があります。何よりの思いやりという場合もあります。

▼7節。
 『しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」』
 ここは4~5節に遡って読まなくてはなりません。
 『イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
 5:こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」』
 『こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています』と断言するならば、もうイエスさまの見解を問う必要はない筈です。それを敢えて問うのは、何時もの罠です。
 そんなことはない、あまりに残酷だから許してやりなさいと言ったならば、イエスは律法を守らない人だ、モーセ似対してさえ否定的だと批判するつもりです。
 逆に、律法の通りに石打ちの刑にしなさいと言ったら、イエスは評判とは違って、思いやり優しさのない冷酷な人間だという批判が待っています。
 異刷りにしろ、イエスさまをやり込めるための罠であり、この憐れな女は、そのための道具、罠の餌でしかありません。

▼9節。
 『これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、
  イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。』
 イエスさまは、地面を見て文字を書き続けることで、女に向けられている人々の視線を別の方向に向けようとなさったのです。そして、『罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』と仰ることで、人々の視線を、女ではなく、自分自身に向けなさいと言っておられるのです。その結果は、人々は、興奮状態から醒め、冷静になり、女を責めることを止めたのです。

▼私たちは確かに、一時の熱狂に駆られて他人を批判し、激しく攻撃することがあります。拳を振り上げて叫ぶことさえ。しかし、もしその時の自分の姿を鏡に写して見ることが出来たなら、興奮している様を、怒り狂っている様を見たなら、…その姿は美しいでしょうか。きっと、おぞましく感ずる筈です。
 『年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って』とは、自分の胸に手を当てて考えてみたら、女を責める資格がないことに気付いたということでしょう。
 そもそも彼らは、女に対して激しい怒りを感じて、石で撃ち殺さなければならないと考えていた訳ではないと思います。しかし、女を庇うことで、その同類だと見られたくないのです。大勢の人間の背後に、自分の姿を隠してしまうのです。

▼随分以前にこの箇所で説教しています。その時には、ホーソンの『緋文字』を引用しました。この場面に酷似していると思ったからです。おそらくは、この場面から発想を得て、『緋文字』が描かれたのだと思います。
 また、別の機会にはマーク・トウェインの『不思議な少年』を取り上げました。これは今日も引用したいと思います。必要部分だけに、約めてお話しします。
 『不思議な少年』の名前はサタンと言います。彼は語り手の「ぼく」を連れて不思議な冒険に向かいます。ある時は、時間を遡って、魔女狩りが行われた時代へと旅します。そこで、罪のない老婆が魔女として告発され、処刑される場面に遭遇します。魔女に向けて石が投じられ、足元の薪に火が付けられるその時、サタンは笑い出します。村人が訝って振り返ると、そこには見たことのない二人の少年がいます。この二人は魔女の仲間に違いないということになり、二人は追いかけられます。
 やっと逃げ切った時、ぼくはサタンに、何故笑ったのかと問い糺します。サタンは「笑わずにいられるか。あそこには僕らも含めて64人の人がいたけれども、あの気の毒なお婆さんが魔女だと考えていたのは、たった二人だったんだ。後の人間は、魔女の筈がないと思いながら、仲間だと思われるのが怖くて何も言えなかったんだ。人間とは何と愚かな生き物だ。羊と変わりない。声の大きい者に引きずられて行くだけなんだ。」

▼ヨハネ8章から、また『不思議な少年』から連想する場面があります。マルコ福音書15章12節以下です。
 『そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
  13:群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
  14:ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」
群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
 15:ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。
そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。』
 この場面を読みますと、群衆は、格別イエスさまに悪意を持っているのではありません。ローマの兵士を殺した、今日で言えばテロリスト、ユダヤ人にとっては英雄であるバラバを救いたいだけなのです。そして、ファリサイ人の煽動に乗って、結果はイエスを『十字架につけよ』と叫ぶのです。

▼積極的にナザレのイエスを殺そうとしたのではなくて、バラバ・イエスというもう一人のイエスを支持するために、ナザレのイエスは殺してもかまわないと言ったのです。
総督ピラトにもイエスさまを憎む理由はありません。唯、騒動が起これば、自分の落ち度になり、出世に響きますから、官僚的な事なかれ主義で、騒動にならないように、イエスを十字架に架けることにしたのです。

▼17節以下も読みます。
 『そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
  18:「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
  19:また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
  20:このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。
そして、十字架につけるために外へ引き出した。』
 この兵隊たちは、ユダヤ人ではありません。ですから、特別にイエスさまを憎む理由もありません。単なる悪ふざけなのです。

▼この兵隊たちは、ローマによって占領された国々から徴兵された人たちだと考えられます。ローマによって汚い仕事をさせられます。これは占領政策の常套手段です。直接現地の人々を苦しめる役割を、同様にローマによって占領された国々から徴兵された人たちにさせるのです。
 人々の憎しみ、恨みを、ローマにではなく、これらの兵士たち、その出身地の国に向けさせるのです。
 この兵士たちは、自分の国を滅ぼした憎いローマに使われています。その腹いせ、やるせない不満や憤りを、ユダヤに向け、今はイエスさまに向けさせられているのです。

▼人々の積極的な悪意がイエスさまを十字架に架けたのではありません。むしろ、無関心が、イエスさまを十字架に架けたのです。
 ヨハネの8章に出て来る群衆は、同時に、ホサナと叫んでイエスさまを迎え入れた群衆であり、そして、同時に、『十字架につけよ』と叫ぶ群衆なのです。3つの場面に出て来るこの群衆は、同じ群衆です。
 逆に言えば、イエスさまを十字架に架けた者こそが、十字架によって救われるのです。私は十字架に関係ない、私の手は汚れていないと主張する者は、確かに、十字架と無関係なのです。その結果は、十字架の救いとも無関係なのです。

▼『あなたもそこにいたのか』というゴスペルがあります。讃美歌21では、306番に収録されています。
 作詞・作曲者の欄には、アフロ・アメリカン・スピリチャルと記されています。昔は黒人霊歌と言われていました。アメリカで奴隷として酷使されていた人々の中から生まれた讃美歌です。その歌詞は、イエスさまを十字架の死に追いやった罪を告白する内容です。1節2節を引用します。

 あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。
 ああ、いま思いだすと 深い深い罪に わたしはふるえてくる。
 あなたもそこにいたのか 主がくぎでうたれたとき。
 ああ、いま思いだすと 深い深ふ罪に わたしはふるえてくる。

 彼らは、イエスさまの十字架の場面にいた筈がありません。しかし、そこにいた、イエスさまを十字架の死に追いやったのはこの私だと告白するのです。この告白によって、彼らは本当に十字架の死と結び付き、そして、十字架の救いに与るのです。

 5節を引用します。
 
 あなたもそこにいたのか、 主がよみがえられたとき。
 ああ、いま思いだすと 深い深い愛に わたしはふるえてくる。

 罪を告白し、十字架の死に結び付く者だけが、復活の命に与ることが出来るのです。

▼マルコ福音書15章4~5節。
 『ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
 5:しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。』
  ヨハネ福音書8章で姦淫の女を囲む群衆は、イエスさまの十字架を囲む群衆なのです。
 そして、ヨハネ8章に於けるイエスさまの不思議な沈黙は、十字架の上の沈黙なのです。

▼さて、いつの間にかヨハネ福音書ではなく、マルコ福音書の説教になっています。
 ヨハネ福音書に戻します。10節。
 『イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
 だれもあなたを罪に定めなかったのか。』 
 マルコ福音書15章4~5節と良く似ています。同じ事柄の表と裏のようです。イエスさまの沈黙は両方に共通していますが、イエスさまの十字架を囲む群衆は、『十字架につけよ』と叫び、姦淫の女を囲む群衆は、沈黙します。同じ事柄の表と裏なのです。
 イエスさまの十字架を囲む群衆は、『十字架につけよ』と有罪を宣告し、姦淫の女を囲む群衆は、『罪に定めなかったの』です。これも、同じ事柄の表と裏なのです。 

▼11節。
 『女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』
 『これからは、もう罪を犯してはならない』と言われているくらいですから、この女は間違いなく罪を犯しています。『姦通の現場で捕らえられた』のです。姦通と言っても、大抵の場合、男の方の責任が重いでしょうが、この女も決して無罪ではないようです。

▼『これからは、もう罪を犯してはならない』、つまり、これは罪の赦しであって、無罪放免ではありません。また、罪の容認でもありません。
 逆に言えば、罪の赦しとは、『これからは、もう罪を犯してはならない』と自覚し自戒することです。罪が容認されることではありません。罪を犯し続けるとしたら、それは罪の赦しを本当には体験・自覚していないのです。

▼さて、8節を読んでいません。7節から読みます。
 『しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
  8:そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。』
 『姦通の現場で捕らえられた』、異様な姿をした女から、視線を外して、『イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。』そのイエスさまが、己を恥じて去って行く人々にも視線を向けようとはされません。誰が去り、誰が残るのかと見てはおられません。
 おそらくは、去って行く者の姿を見ないように、『身をかがめて地面に書き続けられた』のです。
 イエスさまは、人の罪を暴き立て、罰する方ではなく、罪を犯す者によって、裁かれ罰せられ、殺された方なのです。

▼1~2節も読んでいませんでした。
 『イエスはオリーブ山へ行かれた。
 2:朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。』
 この出来事は、『神殿の境内』で起こったことなのです。ファリサイ派の人々が、イエスさまを罠にかけようと、罪を犯したかも知れませんが憐れな惨めな女を、餌としたのは、神殿の中だったのです。
 人々が露骨に、惨めな女に悪意の視線を向け、好奇心、更には殺意まで抱いたのは、神殿の中だったのです。
 同時に、イエスさまの沈黙によって、己の心の中に残っていた良心に目覚め、自らを恥じ、女を罰せずに去っていたのも、神殿の中だったのです。

▼そうして見ますと、11節の『行きなさい。』も、神殿の中だったのですから、神殿から出て行きなさいということになります。神殿で裁かれ苦しめられた女は、神殿から出て行くのです。『これからは、もう罪を犯してはならない。』というイエスさまの言葉を心に抱きながら、神殿から出て行くのです。

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