良い羊飼いの譬え

2017年7月30日聖霊降臨節第9主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

ヨハネによる福音書 10章7〜18節

▼今日の箇所の直前、6節までを読みますと、羊飼いと羊との麗しい信頼関係を描いているように見えます。『羊はその声を知っている』という表現から、互いに愛し合い、互いにかけがえのない存在として認め合っている、そういう暖かな関係を考えさせられます。
 詩篇23篇を、連想させられます。
 『主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
  02:主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い
  03:魂を生き返らせてくださる。
   主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。』
 同じように信頼に足る羊飼いのことは旧約聖書の随所に現れます。

▼一方、エレミヤ50章など、悪い羊飼いも何度も登場します。
 『わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ山の中を行き巡らせた。
  彼らは山から丘へと歩き回り自分の憩う場所を忘れた。
 7:彼らを見つける者は、彼らを食らった。敵は言った。
  「我々に罪はない。彼らが、まことの牧場である主に
  先祖の希望であった主に罪を犯したからだ」と。』

▼良い羊飼い、悪い羊飼い、どちらも、民にとっては決定的な存在です。
 これに今日の11~13節を重ね合わせますと、教会員と牧師の関係についての、特別の考え方につながってまいります。
 『わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
 12:羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、
羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
 13:彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。』
 ごく簡単に言いますと、牧師にとって自分が赴任した教会は絶対無比なもの、他の教会に転任するなどということは考えられないとなりますし、同様に、教会員にとって、牧師は神さまから派遣されたもので絶対無比、もっと良い牧師がいるのではないかと考えることが神さまに対する不信であると、こうなります。
 実際このような考え方に基づいて、50年60年、一つ教会で働き続ける牧師がいますし、また、その働きを支える教会があります。それを麗しいと思ったり、羨ましいと思ったりします。

▼30年以上前、白河教会時代ある日の礼拝に、10人ほどのお客さん、それも韓国の牧師さんが出席したことがありました。事前の連絡はなく、突然の訪問でした。大いに緊張しながらも、礼拝・説教を守りました。
 お客様を迎えて、急遽愛餐会になりました。韓国の教会事情のようなお話を伺い、当時は未だ情報不足でしたから、大いに驚き、圧倒されました。その中で、牧師専用車どころか専用運転手がいるという話には、私たちの教会は、どうリアクションして良いか分からず、戸惑うばかりでした。と言うのは、教会に車が必要だという意見があり、しかし、その予算はなく、結局のところ、牧師が個人的に車を買うし、経費も持つということになったばかりでした。それどころか、免許が無かったので、夫婦で自動車学校に通い、その経費も自弁でした。

▼韓国では牧師の社会的地位が高いという話は、教会員はあまり聞きたくないようです。食いついたのは、祈りのことでした。午前3時に起きて、名簿を開き、教会員一人ひとりのために祈る、それも毎日。
 教会員は感激します。「うちの先生にも見習って欲しい」という人もありました。
 私は正直、面白くない気持ちを抑えていました。「会員が何千人もいれば、そりゃ、名簿に添って祈るしかないだろうさ。名前も覚えられないもの。うちの教会じゃ、教会員の飼い猫が風邪をひいても、ちゃんと知っているよ」これは、全くの事実です。しかし、声にはしません。

▼その時、ある男性教会員が一言。
 「まあ、何時に寝るかが、問題ですな」。
 韓国からのお客様も含めて、座がシラーっとしましたが、事実その通りに違いありません。夜遅くに寝て、毎朝3時に起きて、6時まで祈っていたら、健康が持つ筈がありません。遅くとも、夜8時か9時には床に入っているということでしょう。それとも、昼寝でしょうか。
 教会員は、はぐらかされた気になったかも知れませんが、私は、大いに溜飲を下げました。

▼菱津と羊飼いと関係をこのように解釈することを基本的に間違っているとは言いませんが、どうでしょうか。この箇所を、羊飼いと羊との麗しい信頼関係を描いているとする点はよろしいでしょうし、『羊はその声を知っているので』という表現を、互いにかけがえのない存在として認め合っていると取ることも間違いではないと思います。
 しかし、14節。
 『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。』
『知っている』とは、単に見知っているという意味ではなくて、特別に深い関係があるという意味です。仮初めではないという意味です。
 しかし、それが本来牧師に転任はあり得ないという話になるのは、少し乱暴であると考えます。転任はあり得ない、牧師は教会と運命を共にするというと聞こえはよろしいのですが、同じ現象を、冷ややかに、牧師による教会の私物化だと評する人もありますでしょう。一人の牧師が長く教会を牧会するのが良いか、一定の年限に止めた方が良いのか、そんなに簡単な議論ではありません。
 まあ、牧師が長く一つ教会を牧会することの是非、メリット・デメリットについて、これ以上論ずるつもりはありません。
 しかし、少なくとも、今日の箇所を改めて偏見なく読むことは、是非必要なようです。

▼先ず、門という字に注目します。特別に目立ちます。この箇所で意図的に、執拗に繰り返されています。また、7節と9節では、『わたしは羊の門である』と言い切っています。
 『羊の門』は、エルサレムの城門の一つで『ベニヤミンの門』と同じです。近くには、ヨハネ福音書5章に登場するベトザタの池があります。しかし、このことが何かを暗示しているのかと言いますと、当てはまることはありません。『羊の門』を固有名詞的に考える必要はなさそうです。 
 一番簡単に羊が牧場の囲いの中に帰る時に潜る門、と取るべきです。そして、このことこそが、決定的な意味を持ちます。牧場とは、即ち、神の国のことです。そこに入る門とは、即ち、神の国の入り口です。そうしますと、自然、羊とは、救いを求める信仰者ということになります。
 ここで既に、この話を、牧師と教会員に重ねて考えるのは、無理がある限界があるということを納得いただけるかと思います。

▼『羊の門』という言葉から、私には直接的に連想するものがあります。
 モーリヤックの『イエスの生涯』です。『よき羊飼』という箇所から、ちょっと長い引用を致します。
『このようにして、彼の周囲には、小人数の集団が形づくられていった。この羊たちはもったいぶった様子はしていない。イスカリオテの男はこの点についてイエスをこう判断していた。こんなつまらない連中を味方にひきいれたとて何になるというのだ?弟子たちのうちで人を動かすことのできる者を十人とみつけることはできないだろう。最初の攻撃でこの連中はちりぢりになるだろう。
 しかし、イエスはよくこう言っていた。「我が羊、我が羊の檻」羊たちは彼の声を知っており、彼は羊たちの一匹々々の名を知っている。名を、しかしまた、混乱を、不安を、悔いを、永遠の利害がかかっているかのごとく彼がその上にのぞきこんでいる一つ一つの生ける心のあわれな動揺のすべてを、知っている。永遠がそれにかかっていることは事実であり、我々のうちの最小の者も特別の愛情でいつくしまれていることも事実である。
 イエスは牧者である。彼はまた羊の門である。彼によってのみ人は羊の濫にはいる。すでに人の子は彼を拒む世にむかって教えていた。「汝らが我なしにすませると思うのは誤りである。我なしに汝らは真理に達しないであろう。汝らは真理を求めるであろう。真理を見いだす者に対して軽蔑の念をいだきながら。そして、汝らにとっては、この探究のうちに、すべての人間的知恵が帰せられるであろう。汝らは羊の門より入ることを望まないであろうから」
 今では、彼は自分の死をほのめかす言葉を口にすることなしには、ほとんど口を開くことがない。「よき羊飼いは羊のために生命を捨つ」それから、ただ一言で、ユダヤの山々をとり除きながら、彼はひろい遠景を開いて見せる。「我にはまたこの濫のものならぬほかの羊あり、…」
 人間のいるところ、至るところに羊の檻がある。大衆とはへだてられた、垣のある限られた場所が、敵意を持つ世界の中の孤立した「囲い場」がある。』 
▼とても長い引用になってしまいました。また、一部文語的でわかりにくいと思いますが、要点は、先ず、『汝らは救いに入ることはないであろう。汝らは羊の門より入ることを望まないであろうから』この部分です。
本当に救いを求めて、イエス・キリストという門を潜るのか、それとも他の何ものかを求めているのか、このことが問われています。救いではなく、他の何ものかを求めているとしたならば、絶対に救いは与えられないのです。
 イエス・キリストに何を求めているのか、教会に何を求めているのか、救いなのか、他の何ものなのか、如何にもヨハネ福音書らしい二者択一が迫られるのです。
 モーリヤックではない、ヨハネ福音書そのもが二者択一を迫るのです。

▼もう一つモーリヤックの示唆に聞かなくてはなりません。
『彼は自分の死をほのめかす言葉を口にすることなしには、ほとんど口を開くことがない。「よき羊飼いは羊のために生命を捨つ」』
今日の箇所は、十字架の予告なのです。それが主題であって、一般的な自己犠牲の話ではありません。まして、相互の信頼関係がどうというような次元の話ではないのです。
 11節。
 『わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。』
 十字架の予告なのです。
 そういう意味では、この話を牧師と教会員の関係で考えること自体が畏れ多いこと、次元が違う話です。否、ヨハネ福音書では重なっているのだろうと思います。それは、牧者たるもの殉教の覚悟を持っていなくては勤まらない、そういう次元の話です。

▼更にもう一つだけ、モーリヤックの示唆に聞かなくてはなりません。
 『それから、ただ一言で、ユダヤの山々をとり除きながら、彼はひろい遠景を開いて見せる。「我にはまたこの檻のものならぬほかの羊あり、…」』
えらい難解な表現ですので、聖書そのものの表現に戻した方がよろしいでしょう。16節です。
 『わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。
その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。
こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。』
ここには、世界宣教の幻が仄めかされています。別の言い方をすれば、教会の形成が、示唆されているのです。このことを、モーリヤックは、先程の引用文の最初で表現しています。もう一度読みます。
 『このようにして、彼の周囲には、小人数の集団が形づくられていった。この羊たちはもったいぶった様子はしていない。イスカリオテの男はこの点についてイエスをこう判断していた。こんなつまらない連中を味方にひきいれたとて何になるというのだ? 弟子たちのうちで人を動かすことのできる者を十人とみつけることはできないだろう。最初の攻撃でこの連中はちりぢりになるだろう。』

▼そもそも、何故羊なのでありましょうか。
 イスカリオテの男の言うように、教会には羊が集められたのです。『われわれの内の最小の者』が集められたのです。集められたのが羊ではなくて、もう少し違った何者かであったならば。
 しかし、イエスさまは、羊を集められたのです。律法学者やパリサイ人ではなくて漁師を、祭司ではなくて酒税人を、王女ではなくて罪の女を。
 混乱、不安、悔い、そういったものと不可分離的に存在している羊を集められたのです。生ける心の憐れな動物を省みられたのです。
そして、ペトロをはじめとして、使徒たちも羊なのです。牧師もまた羊なのです。使徒として、牧師として集められたのではありません。羊として集められたのです。
 私たちプロテスタント教会の基本的な理念として万人祭司という思想が存在致しますけれども、それ以前に確認しなければならないことは、私たち教会員は、皆羊だということです。万人羊です。
 何か偉い者になってしまって、羊ではなくなってしまっている人がいたら、その人は、羊の門から入ることは出来ないのです。彼にはもっと立派な別の門が用意されていることでしょう。しかし、それが天国へ入る門かどうかは甚だ疑問です。

▼10章1~3節を読みます。
 『「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を
乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
 2:門から入る者が羊飼いである。
  3:門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。』
真の羊飼いは、一人イエスさまだけです。詰まらないこだわりかも知れませんが、ペトロは門番です。当然、牧師もまた門番です。真の羊飼いは、一人イエスさまだけです。
もう一度16節。
 『わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも
導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。
こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。』
教会は閉じられているべきか、開かれているべきか、こういう議論がありますが、初めから答えは出ています。囲い・檻は厳として存在します。囲い・檻そして門がない教会はあり得ません。教会は、この世との垣根を持っています。
 それをどうしても否定して、教会に塀があってはならない、敷居があってはならないというのは、少なくとも、聖書の教えとは違います。
 しかし、この門は、囲い・檻の外に居て救いを求めている者には、常に開かれているのです。
牧師は門番だと申しました。誰がこの檻に入ることが出来るのか、出来ないのか、決めるのは、門番ではありません。牧場主たる神さまです。それだけのことです。
教会は救いを求めることのない者には閉じられているし、救いを求めている者には、常に開かれているのです。

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