カインとアベル

2013年11月3日永眠者記念礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
主はカインに言われた。
「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
主は言われた。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」

創世記4章1節〜10節

▼過去、二度ほど、この箇所を与えられて説教したことがあります。しかし、原稿は残っておりません。原稿は残っておりませんが、苦い記憶が残っています。
最初は、35年も昔、大曲教会で読みました。その際に、この分かり難い物語を、定住と放浪という二つの相反するイデオロギーの衝突だとして説明致しました。
つまり、羊を飼う者アベルは、遊牧民の象徴であります。放浪する者であります。対するに、カインは、土を耕す者、農耕者であり、定住者であります。

▼ユダヤ人のご先祖様は、小さい家畜を飼い、また、オアシスからオアシスへと旅しながら、商いをします。交易業であります。それが時代が経つにつれて、別の言い方をすれば、カナン定着によって、農耕民族へと変化していきます。
この物語は、その辺の歴史を背景としています。農耕民へと姿を変えていながら、しかし、忘れてはならないものがあるということが、描き入れられているのであります。
今申しましたようなことは、マックス・ウェーバーが詳しく記しています。

▼さて、苦い記憶が残っていると申しましたのは、たった一人の夕礼拝出席者が、この説教の途中で、退席してしまったことであります。私の説明が、いかにも、遊牧民、放浪者を肯定し、農民、定住者を否定したように聞こえたらしく、農民である彼は、憤慨し席を蹴ったのであります。
これは誤解であります。説教は未だ結論部に至っていません。続きを聞いて貰えれば、それは分かる筈なのであります。
後で聞いた話ですが、彼は高校生の時から、音楽の志を持ち、トランペットで身を立てたかったのだそうであります。しかし、農家の長男の定めを破ることは出来ず、母親が病がちだったこともあり、家に戻ったのであります。しかし、その母も亡くなり、何のために音楽の志を絶ったのか、屈託の日々を送っていたのであります。

▼彼だけではありません。多くの読者が、この物語には合点のゆかないものを感じます。そこで、少し慎重にお話ししなければなりません。
順にお話しします。
旧約聖書、もっと限定して創世記には、明らかに、定住と放浪という二つの相反するイデオロギーが流れています。
創世記3章には、アダムとイブの物語が描かれています。これは、人間が全き平和と充足とを与えられていた神の園から、危険と不安に満ちた外の世界へと出て行く話であります。
6章以下には、ノアの洪水の出来事が記されています。明日の人類を担う家族が、多くの動物たちと一つの船に乗り込む話であります。嵐を避けて、船に乗り込む、ここには、放浪と定住と二つのイメージが重ねられています。

▼11章には、バベルの塔の物語。神の高みまで上り行こうとした人類が、その塔を崩され、言葉を乱されて、世界中に散っていく話であります。
その後も、ヤコブの放浪、ヨセフがエジプトに売られて行く話、そのことによって、イスラエルがエジプトに定住し、その何百年後の、出エジプトへとつながります。ヨシュア記は、カナン定住であります。この頃、カナン侵略という表現が正しい、カナン定住は表現的に間違っているという人がいますが、政治イデオロギー的には兎も角、今お話ししている聖書の流れで観れば、明らかに、カナン定住であります。

▼そもそもイスラエルの歴史が、即ち放浪の歴史であります。散らされていく、難民の歴史を抱えています。このことは、旧約時代だけではありません。むしろ、新約時代から現代に至るまで、彼らの歴史には、散らされること、放浪に定められることが、つきまとうのであります。
また、だからこそ、シオニズム運動によって、新しい国家イスラエルを建国したのであります。放浪に定められているからこそ、神の約束の土地への定住に拘ったのであります。
世界中には沢山の民族がいます。民族の数は国家の数より遥かに沢山あります。そして、歴史の中に消えて行った民族の数は、現存する民族の数よりも、遥かに多いのであります。
その幾万の民族の中で、一度追放された土地に、もう一度国家を建設したのは、ただ、イスラエルのみであります。

▼さて、この辺で、永眠者記念礼拝に触れなければ、それこそ、途中で帰ってしまわれたら困りますので、唐突に聞こえるかも知れませんが、そのお話しをします。
旧約聖書の、創世記のみならず、出エジプト記も、これ即ち、定住と放浪の物語であります。そして、私たちの人生もまた、定住と放浪の物語であります。
月日は百代(ひゃくたい)の過客(かかく)にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
あまりにも有名な『奥の細道』の冒頭部分であります。
これは、何も芭蕉一人のことではありません。
私たちもまた、人生の旅人なのであります。放浪に定められています。だからこそ、定住に恋い焦がれ、そこにしがみつきもするのであります。

▼教会もまた旅人であります。2000年、ユダヤ教に遡れば、3000年4000年の旅をし続けてきたのであります。
それは神の国を目指す、永遠の時が必要な長旅であります。だからこそ、私たちは、一週間に一度、神の家族と共に教会に集まり、荷を下ろし、そこに祭壇を築き、礼拝を献げるのであります。

▼さて、このような話をしても、先ほど例に上げた農家の青年は満足しませんでしょう。矢張り、捧げ物、そのものに目を向けなくてはなりません。
3〜5節。
『時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4:アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
5:カインとその献げ物には目を留められなかった。』
何故でしょう。誰もが疑問を持ちます。それだけではなく、正直なところ、反感を覚えるのではないでしょうか。
何故神さまは、カインの土の実りを喜ばれず、羊の肥えた初子を喜ばれたのか。何故それを露骨に面に出したのか。
どんなに考えても、納得出来る答えはないと思います。それこそ、3000年の歴史を通じて、読まれ、推理され、そして、未だに答えの出ないことなのであります。

▼論理的には、時間が逆でありますが、その次を読むべきでしょう。
5節の後半と6節。
『カインは激しく怒って顔を伏せた。
6:主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。』
カインは、激しい嫉妬の念に駆られています。その感情は露骨に面に出ています。カイン自身がそのことを承知です。だから、『顔を伏せるの』であります。つまり、嫉妬していること、それがどんなに醜い感情であるかも、全部知っているのであります。
それでいて、自分の感情をコントロールできません。まあ、嫉妬とはそういう感情であります。

▼『顔を伏せ』、つまり、神さまの目を避けようとします。これは、どこかで見た光景です。
創世記3章8〜10節。
『8:その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
9:主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
10:彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、
隠れております。わたしは裸ですから。」』
罪を犯した人間は、神の目を直視出来ないのであります。直視したくないのであります。
神を見た人間は死ぬと言われているのもそういうことかも知れません。神を見たからではありません。罪があるからであります。

▼時間的にも逆ですし、因果が逆ですが、これが答えでありましょう。兄弟に嫉妬し、神の顔を直視することの出来ないカインの供え物を、神さまは喜ばれないのであります。
もっと端的に言うならば、兄弟と自分とを比較し、優越感を持ったり、逆に劣等感を持ったり、自惚れたり、嫉妬したりすることを、神さまは喜ばれないのであります。

▼この物語の末尾の部分を見ますと、神さまは、カインに刑罰を与えますが、しかし、同時に、カインの命・安全を保証されます。
神さまは、決してカインの存在を忌み嫌っているのではありません。むしろ、神さまに向かい合うことを要求しておられたのであります。
自分の命の危険を感じて、カインは初めて、正面から神さまに向かい合います。13節。
『カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
14:今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、
わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、
さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、
わたしを殺すでしょう。」』
ここで、何とも皮肉にも、カインは、『わたしが御顔から隠されて』と言っています。カインが今、神さまに対して、私を見て下さい。お顔を隠さないで下さいと懇願しているのであります。

▼この物語を道徳的な観点から読むことには無理がありますが、しかし、敢えて言えば、もし、カインが、その捧げ物を喜んでいただけなかった時に、神さま何故ですかと、素直に反発していれば、神さまは、その言葉を聞いて下さったのではないでしょうか。
そして、兄弟殺しは起こらなかったのではないでしょうか。

▼しかし、カインは、9節に記されているように、神さまを避け、神さまに嘘をつくのであります。
『9:主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」』
これも時間と因果関係が逆でありますが、神さまは、嘘をつく人間を許されるでしょうか。他の誰に対してでもない、神さまに対して嘘をつく人を。
神さまに嘘がつける、これはどういうことでしょうか。この人は、自分自身にも嘘をついているのであります。

▼さて、肝心な永眠者記念礼拝のことであります。何故、永眠者記念礼拝に際して、カインとアベルの物語が聖書日課とされたのでしょうか。当初私は不思議でなりませんでした。余程、別の箇所にしようかと思ったくらいであります。
しかし、聖書日課の委員会は出版局のもとにあります。一応名前だけでも、私が責任者でありますから、拘って読み直しました。
何となく、分かってまいりました。
一個の信仰者は、神さまの畑の実りなのであります。収穫であり、神さまへの捧げ物なのであります。
大変な誤解を招きかねない表現ではあります。しかし、一個の信仰者の一生が、神さまへの捧げ物なのであります。

▼旧約時代の周辺諸宗教には、人身犠牲がありました。むしろ、それが普通でありました。旧約聖書は原則的に、これに反発し、人身犠牲を迷信として退けます。しかし、これとの比較で、一番深い意味で、人一人の一生を、神さまへの捧げ物と考えるのであります。
人を殺して、その心臓を取り出して献げるというような人身犠牲ではなく、その人の人生そのものを、神さまに献げるのであります。人生の目的地を、神さまの方角に、神の国に向けるのであります。
この話は、アブラハムがイサクを献げる場面でお話しするのが適当でしょう。今年その機会がありました。ですから、今日は省略致しますが、一番深い意味で、聖書は、人一人の一生を、神さまへの捧げ物と考えるのであります。

▼そして、そのことは私たちにも当て嵌まるのであります。教会という畑で採れた収穫物、それが、この永眠者記念礼拝に、聖徒として名前を連ねる方々であります。
私たちが、これらの方々を献げるのではありません。献げるのは、一人ひとり、自分自身をであります。
或る人は、自信満々、神さまに喜んでいただけると考えて、自分を献げるかも知れません。或る人は、とても喜んではいただけないと考えておすおずと献げるかも知れません。
しかし、信仰者は、誰もが、その人生を神に献げるのであります。

▼神さまは、この時に、捧げ物を喜んで下さるでしょうか。それこそ、神さまに好き嫌いがあるでしょうか。
あると思います。
神さまは、カインの捧げ物を喜ばれず、アベルのそれを喜ばれました。
しかし、既に申しましたように、肉が好きか野菜が好きかという話ではありません。
もう一度、5節の後半と6節。
『カインは激しく怒って顔を伏せた。
6:主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。』
神さまに向き合おうとしない者は、受け入れては貰えません。
また、神さまに嘘をつき、自分自身に嘘をつく者を神さまは許されません。

▼カインは、むしろ、13節。
『カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
14:今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、
わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、
さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、
わたしを殺すでしょう。」』
恐怖のために、神さまに向かい合いました。その時に、命を許して貰いました。

▼今、私たちの人生に求められていることは、目を背けないで、神さまの目を見上げること、この一点なのであります。

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