神さまの名前

2013年11月17日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク。ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを気候とはしなかった。
主はモーセに仰せになった。「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。」モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。

出エジプト記6章2節〜13節

▼3節。
『わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった』
『全能の神』という表現は、アブラハムが割礼を受ける場面に見えます。
創世記17章1〜5節、長くなりますが引用します。
『 1:アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、
全き者となりなさい。
2:わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます
増やすであろう。」
3:アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
4:「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の
父となる。
5:あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。
あなたを多くの国民の父とするからである。』

▼『アブラハムと名乗りなさい』この言葉に特に注目します。
神さまは、自分の存在を『全能の神』と説明した後で、アブラムをアブラハムと改名させるのであります。
このことからも、『全能の神』という表現が、そもそも、神さまの名前であると受け取ることが出来ます。
主題からは、ちょっと脱線ですが、神さまとの出合いによって、名前が変えられる、これは、興味深いことであります。名前が変えられる、即ち、新しい命、新しい人生を持つのであります。
私たちの教会には、クリスチャンネームというのはありませんが、この信仰・精神は大事なことだと思います。
私たちも、神さまを知ることで、新しい命、新しい人生を持つのであります。
逆に言えば、自分が過去に持っていた価値観や、思想信条に拘泥することは、真には、上佐野との出会いを体験していないと言うことではないでしょうか。

▼主題に戻ります。
『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、
全き者となりなさい。』
一個の人間がとても『全き者』となることなど出来そうもないと思いますが、そもそもこの『全き者』とは、完璧な能力を持っていると言うことではありません。倫理道徳的に攻められることがないという意味でさえありません。
あくまでも、信仰の話なのであります。
『あなたはわたしに従って歩み』むしろ、これが『全き者』という言葉の意味であります。

▼2節。創世記17章の2節であります。
『わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て』
神さまを知り、神さまに『従って歩み』とは、神さまとの契約のもとで生きるということであります。
4節でも、契約という言葉が繰り返されます。
『これがあなたと結ぶわたしの契約である』
この箇所では、契約とは、義務を守ということよりも、恵みを与えられるということの方に力点が置かれているようであります。
神さまを知り、神さまに『従って歩み』とは、神さまの恵みを味わってい生きるということであります。

▼さて、前置きの創世記の話が長くなりました。
出エジプト記6章2〜3節。
『神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。
3:わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、
主というわたしの名を知らせなかった。』
ここでは、『全能の神』という言ってみれば説明ではなくて、『主』という名前、敢えて言えば固有名詞が示されます。
『主』という言葉は、かつての文語訳聖書では『エホバ』となっています。
ここで、エホバの証人の話をしますと、とても時間が足りませんので、省略します。4年前に、この箇所を読んだ時には、かなり詳しくお話ししています。

▼これも脱線かも知れませんが、出エジプト記3章13〜14節。内容的に関連が深いので読みます。
『13:モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ
参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、
わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、
『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
14:神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、
また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』
という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」』

▼『わたしはある』これこそが神さまの名前であります。モーセには既にこの名前が告げられています。しかも、その名前は、アブラハム、イサク、ヤコブには示されなかったというのであります。
『わたしはある』という言葉の意味を説明していますと、これも長くなりますので、割愛します。
肝心なことは、3節。
『わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、
主というわたしの名を知らせなかった』
何故知らせなかったのか、分かりません。その意味を追求しても答えはないかも知れません。
むしろ4節。
『わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であ
るカナンの土地を与えると約束した』
これは、アブラハムとの契約のことであります。最初に引用した創世記17章であります。この契約が肝心なことであります。

▼5節。
『わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々の
うめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。』
『私の契約を思い出した』。
これは気になる表現であります。日本語を普通に読めば、忘れていたと言うことになります。少なくとも、殆ど気に留めていなかったということになります。
翻訳すれば、このようになってしまうらしいのでありますが、まあ、翻訳の限界であります。意味合いからすれば、『うめき声を聞き』に対応して、『思い出した』と言うことで、むしろ、今こそ、そのことを自覚したと言うようなことであります。決して忘れていたことを思い出したという意味ではありません。

▼そうして6節が語られます。
『それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。
わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、
奴隷の身分から救い出す。
腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う』
これは、4節の契約の具体化であります。

▼最初にお話ししたことを繰り返します。
『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、
全き者となりなさい。』
一個の人間がとても『全き者』となることなど出来そうもないと思いますが、そもそもこの『全き者』とは、完璧な能力を持っていると言うことではありません。倫理道徳的に攻められることがないという意味でさえありません。
あくまでも、信仰の話なのであります。
『あなたはわたしに従って歩み』むしろ、これが『全き者』という言葉の意味であります。
もう一度言い換えれば、契約に従って歩むということであります。
新しい契約が示される時に、神さまの名前が示されるのであります。

▼7節。
『そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたた
ちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、
主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを
知る。』
この7節は、6節と全く同じことであります。全く同じことを意味しています。
イスラエルの人々は、エジプトの王のものではない、エジプトの王の持ち物=奴隷ではない、神の持ち物、神の民なのだということであります。
神さまが、ご自分の持ち物だ、神の民なのだと宣言されることで、イスラエルの人々は『奴隷の身分から救い出』されるのであります。

▼私たちもまた、神さまと契約を結び、神さまの者とされることで、神の国の市民とされることで、私たちを苦しめて来た、様々なしがらみから自由になるのであります。

▼さて、奴隷からの解放の約束が与えられました。
しかし、イスラエルの人々の反応は、さっぱりであります。
9節。
『彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。』
これが現実でありました。
奴隷のうめき声を上げていても、しかし、そこから立ち上がろうとはしないのであります。すっかり、打ちのめされていて、立ちあがる気力はありません。
あまりにも辛い現実だから、逆に、そこに甘んじてしまうのであります。

▼分かると言えば分かります。
私たちの現実はそうかも知れません。
酷く体を打ったときなど、立ち上がることよりも、転がって逃れることよりも、先ずじっとして、痛みをこらえようとします。
酷く悲しい目に遭った時には、気分転換も何もない、閉じ籠もってしまいます。
あまりにも、苦しみが大きいと、そこに甘んじてしまうのであります。
あまりにも、目標が遠いと、そこに甘んじてしまうのであります。

▼10〜11節。
『主はモーセに仰せになった。
11:「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を
国から去らせるように説得しなさい。』
これに対するモーセの反応も、また、無気力、むしろ絶望感が漂っています。
『モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえ
わたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のない
わたしの言うことを聞くでしょうか。」』
まあ、これが普通の反応かも知れません。
理屈としては、モーセの方が尤もなのであります。
イスラエルの人々でさえ無反応なのに、異邦人が聞くものでしょうか。

▼背景となる出来事がありました。
拾い読みします。
2章の11〜12節。
『 11:モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、
彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、
同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。
12:モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、
そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。』
モーセは、同胞の苦難を見過ごしには出来ませんでした。そのような強い同胞民族への愛があり、そのために戦う情熱がありました。
これがもとで、モーセは逃亡し、亡命生活に入ります。

▼3章で、そのモーセの元に神が姿を現し、彼に命じます。9〜11節。
『見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。
また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
10:今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。
わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」』
これに対して、モーセは、抵抗します。
『11:モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラ
オのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから
導き出さねばならないのですか。」』
情熱に駆られて殺人までしたのに、今は、主の召命に臆するのであります。
一瞬の熱情で行動したけれども、その後の長い逃亡生活で、気持ちが萎えたのでありましょうか。

▼4章にも、逡巡するモーセの様子が描かれています。10節。
『それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。
わたしはもともと弁が立つ方ではありません。
あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。
全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」』
私たちが描いているモーセのイメージとは大分違いまして、ここでのモーセは慎重と言うより、臆病な程であります。

▼そのモーセに、主は言われます。11節。
『一体、誰が人間に口を与えたのか。 一体、
誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるよ
うにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
12:さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、
あなたが語るべきことを教えよう』
使命に応える力がないと逃げるモーセに、神が力を下さることを約束します。
しかしそれでも未だ、モーセは抵抗します。
『ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。』

▼こういうことが重なっているのであります。
そして、今日の箇所になるのであります。
だからこその、6章13節なのであります。
もう神さまは、説得などはしません。モーセの問いに答えません。
唯命じられるのであります。
『主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々と
エジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、
イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。』
これが結論なのであります。もはや、モーセの反応は問題とされないのであります。モーセがどのように応えようとも、神によって、結論が出されたのであります。

▼この箇所を通じて、私たちが受け取るべきメッセージとは何でありましょうか。
私には、驚く程に、モーセの出来事と私たちの現実とが重なるように思えるのであります。
私たちも、私たち自身、或いは、私たちの周囲にいる人々の苦難を見て、このままではいけないという思いを持ちます。
奴隷のような状態から救い出されなければならないと考えます。
義憤に駆られて、直情的な行動に訴えることさえするかも知れません。
しかし、他の誰でもなく、自分が、主のご用に立てられて、働くことなど、
出来ないと尻込みするのであります。
まあ、話が散漫にならないように、伝道の一点に絞って考えます。
クリスチャン人口が1%にも満たない。このままでは22世紀には、日本基督教団は存在出来ないかも知れない。そういう危機感を持っていながら、何か具体的な手を打つと言うことになると、尻込みするのであります。

▼その理由もモーセと同じであります。
「わたしは何者でしょう。どうして、イスラエルの人々をエジプトから
導き出さねばならないのですか。」
他に人がいるでしょう、こう言って逃れようとします。
4章12節でも、
『ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。』
是非働き人が必要なのは分かっています。しかし、それは、誰か他の人なのであります。

▼『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません』
力不足だと言うのであります。
『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、
誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるよ
うにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
12:さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、
あなたが語るべきことを教えよう』
私たちは力不足かも知れません。しかし、私たちを召し、私たちに命じておられるのは、主なる神であります。
主なる神が力不足である筈がありません。
それでも尻込みするとすれば、それは、見早謙遜でないのは勿論、臆病どころか、不信仰なのであります。

▼私たちにとって本当に肝心なことは、主がそのことを命じておられるかどうかだけであります。その命令が確かならば、臆することはないのであります。

▼最後に、8節を読みます。
『わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓っ
た土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として
与える。わたしは主である。』
この約束が私たちにも与えられています。私たちには、神の国、天国が約束されているのであります。

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