神の目から見たならば

2013年11月24日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました。』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」

サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています。」とエッサイが応えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

サムエル記上16章1節〜13節

▼2009年の11月に、同じ箇所を読んでいます。4年経ちましたが、解釈が大きく変わる 筈もありません。かなりの部分で前回と重なります。

▼1節。 『主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。
わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。』 主はサウルを王位から退け、ダビデを用いられました。 これに対して預言者サムエルは反発します。預言者サムエルは、王サウルに対しても、神さまに対しても、非常に屈託した思いを持っています。
先ず15章35節。『サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた』。 預言者サムエルが、素直に神の言葉に従うことが出来ないのは、当然かも知れません。預言者サムエルと王サウルの間には、これまで深い関係がありました。王と預言者は、一緒にイスラエルの国難に当たってきたのであります。同士であり戦友なのであります。親子のような交わりでもあります。

▼その一方で、サムエルにはサウルへの恐れがあります。
16章2節。 『どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。』 そうかも知れません。サウルこそ、サムエルに対して複雑な思いを抱いています。サムエルを愛し、畏れ、父のように慕っています。また、サムエルを通してのみ、サウルは神の御旨を聞くのであります。
だからこそ、サムエルを通して、神の赦しの言葉が与えられないならば、絶望のあまり、サウルがサムエルを殺すことは、充分に考えられるのであります。

▼しかし、それにしても、イスラエルの大預言者サムエルが、この局面で自分の身の上を心配しているのは、奇妙な気が致します。ここだけで読みますと、何だかサムエルが、大預言者ど ころか小心なずるい人間にさえ見えて来ます。
3節に述べられている神さまの言葉も不可解と言えば不可解であります。
神さまの言葉は、嘘とは言えないかも知れませんが、ごまかしであり、罠であると聞こえます。
『「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い』。 あまりにも人間的な計略であります。
遡って、35節。 『主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた』 神さまが悔いるということがあるのかどうか。
創世記8章22節。 『主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。 わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい』。
ノアの洪水物語の中での、『二度とすまい』という言葉は、殆ど、悔いるという意味合いで あります。しかし悔いるとまでは記されていません。

▼しかし、肝心なことは、そのような中で、4節のように記されていることであります。 『サムエルは主が命じられたとおりにした』。 反発しながらも躊躇いながらも、サムエルは、結局常に主の御言葉通りに行うのであります。
それが、サムエルとサウルの違いなのであります。 詳しく申しておりますと、前回の説教の繰り返しになりますので省略致しますが、サウルは、主の御旨のままには行いません。
聖書に記された幾つかの事例に当たりますと、サウルの判断こそが正しいと思うことがあります。国を思えばこそ、民族を思えばこそ、部下を慮ればこそ、サウルは行動したのではないか、決して間違っていないのではないか、そういうふうに読めることが少なくありません。
しかし、結果、サウルは自分の判断、自分の考えで行動し、預言者に聞かない、神に聞かないのであります。

▼もう一度1節を見ます。 『主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。
わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた』。 『いつまであなたは』、これが問題であります。誰だって、神さまの言葉、預言者の言葉に素直に聞き従うことが出来ない場合があります。受け入れられない場合があります。 そして、時には反抗するかも知れません。 『いつまであなたは』、これは自分の心が定まるまでには時間がかかるということであり、神さまの御心を知り、納得するまでは時間がかかるということであります。しかし、何時までも自分の心に、自分の感情に拘泥し続けるならば、それは、神さまの御心を知っていながら、 それに逆らうことになってしまうのであります。

▼この王サウルを見ておりますと、ヘロデ王を連想させられます。このことは前回にも申しましたし、詳しくお話していると別の説教になってしまいますので、約めて申しますが、歴史的に見れば、ヘロデ王は決して無能な王ではなかったようであります。政治家として行政家として、勿論軍人として、成果を上げています。
しかし、ヘロデ王は正統な王ではありません。血筋からして王の資格はありませんが、そういうことではなくて、イスラエルの王としての資格、神の言葉に聞くこと、預言者に聞くことがないからであります。
どんなに人間の知恵を集めても、神に聞くことをしない者には、神の見守りはないし、正しい教えが示されることはないのであります。

▼マタイ福音書1章7~8節にこのように記されています。 『そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期
を確かめた。
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。』
これは嘘です。拝みに行くためではなくて、キリストを殺すために、ヘロデは学者たちを呼び寄せて、調べさせたのであります。
事もあろうに、『わたしも行って拝もう』と言って、嘘をついたのであります。殺人、否、神殺しの罠に礼拝を用いたのであります。
どんなに有能であっても、彼はイスラエルの王ではあり得ないのであります。
そして、このヘロデと重ねて見ると、やはり、どんなに豪傑であっても、サウルは、イスラエルの王としてふさわしくないのであります。

▼4節5節も、マタイ福音書のクリスマス物語と共通しているものがあります。 『不安』がそれであります。
マタイ福音書2章2節の途中から読みます。 『「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3:これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。』 詳しくお話する暇はありませんが、正統な王ではないから、博士たちの言葉に不安を抱いたのであります。そして、『エルサレムの人々も皆』正統な王を戴いていないから、不安になったのであります。

▼サムエル記上4~5節。 『彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。 「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。』
二つの記事共に、不安とそして礼拝に触れられています。
正しい王を戴き、正しい神に礼拝を捧げていないと、私たちの不安を取り除くことは出来ないのであります。不安は、信仰の欠落なのであります。
神に対する信頼が足りないのであります。

▼6節をご覧下さい。 『彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った』。 ここで、10章23節と比較して下さい。『人々は走って行き、そこから彼を連れて来た。サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。』 サムエルが、偉大な預言者サムエルが、肝心なことを理解していません。

▼7節をご覧下さい。『しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」』 人間の物差しと、神の物差しは違うのであります。 と言うことは、また、救いの根拠も、人間と、神とでは違うのであります。 私たちもサムエルと同じことを考えます。 何があったら安心出来るか、まさか身長の高さだとは思いませんが、お金、職業、地位、学歴、いろんなことを考えます。これは結局、全部一つのことであります。人間的価値観での優劣であります。

▼しかし、それで安心し平安が来るのかというと、決してそうではありません。当然です。本当の安心、平和は、真の王をいただき、真の礼拝に仕えることによってしか実現しないのであります。私たちに真の安全・平和を保証してくれるものは、神の言葉以外にはありません。

▼12節。 『エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」』 結局、サウルのような巨人ではなくとも、『血色が良く、目は美しく、姿も立派であった』
ダビデが選ばれましたが、肝心なことは、王としての資質をダビデが持っていたかどうかではありません。
『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ』。神の言葉が、大事なのであります。人間が人間の物差しで選ぶのではなく、神が選ぶのであります。

▼13節。 『サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。』 『主の霊が激しくダビデに降る』これが王として立てられた印であると、サムエル記は記しています。即ち、聖霊が下されたのであります。

▼『主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました』。主の霊と悪霊とが、一緒に出てきます。この霊という言葉はどちらも同じ言葉で、旧約聖書で普通に使われているものであります。
『主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました』。 サウル王は、預言者サムエルによって立てられた後、幾多の戦乱を勝ち抜き、王としての実績を積み重ねて行きますが、それに反比例するように、次第に、預言者に聞くことが少なくな り、自分の力、自分の判断で事柄に対処するようになります。それどころか、露骨に、サムエルの言いつけに背くことさえありました。
決して、傲慢で独裁的になったのではありませんし、しかし、王としての経験が増し加わり、 自分なりの考え・判断が生まれ、また、部下や同盟する諸王国との関係を思い計りし、そうし ている内に、預言者の教え、神さまの御言葉は、彼にとって絶対のものではなくなり、第2、 第3の意味しか持たなくなってしまったのであります。

▼サウル王は、王としての職務を全うするためにこそ、預言者の言葉を、全く文字通りには、受け入れることをしませんでした。その結果、神は、サウル王の中にある、神さまの霊を取り上げてしまいました。結果、その空洞に、悪霊が入り込んだのであります。
この悪霊も、神さまから下されたものかも知れません。しかし、ぴったり同じ大きさ、同じ形ではないのであります。そこには、ズレがあります。このズレが、サウル王を苦しめるのであります。
形が合わないことで、サウル王の心は、二つに分裂したかのようになって行くのであります。 二つに引き裂かれて行くのであります。
一方では、激しく神さまを求めます。これは、ダビデを愛する気持ちとして反映されます。その一方で、自分の地位を脅かすダビデを激しく憎み、これを殺して除こうとします。ダビデへの憎しみは、勿論、ダビデを選び、立てた神さまに向けられた感情でもあります。

▼私たちの心には、間違いなく、空洞があります。これを何かで埋めないと、私たちは、魂に 空腹感を覚えるのであります。魂が飢えるのであります。
この空洞は、愛とか、真理とか、美とか、崇高なものを激しく、求めるのであります。多分、神さまの形を宿しているのであります。だからこそ、神さまの形を持ったものでしか、この空洞を埋めることは出来ないのであります。
もし、似て非なるものが、ここに入り込んでしまうならば、その人は、食べてはならないものを食べたように、苦しまなければならないのであります。これを完全に吐き出してしまわな ければ、苦しみは癒されないのであります。
ところが、なかなか、吐き出すことは出来ません。吐き出すにも、決断が要り、そして、激しい苦痛を伴うからであります。

▼まして、そこに悪霊が入り込んだならば、それは、恐ろしい結果を招くのであります。 愛から出た筈の感情が、憎しみによって支配され、労りから出た筈なのに、虐待し、暴力を働くのであります。 それが悪霊の働きというありましょう。悪霊は、神さまの形を求める、心の空洞に入り込むのであります。しかし、これを本当に満たすことは出来ないのであります。本当に、慰め、癒しをもたらすことはないのであります。むしろ、最後には、激しい渇きを残すのであります。

▼15節をご覧下さい。『サウルの家来たちは彼に言った、「ごらんなさい。神から来る悪霊があなたを悩ましているのです』 家来たちは、深い信仰的な意味で、このように表現しているのではありません。単純に、病気だ、心の病だと言っているのでありましょう。 そして、その対症療法として、16節後半のように、勧めています。 『神から来る悪霊があなたに臨む時、彼が手で琴をひくならば、あなたは良くなられるでしょう』。 家来たちには、深い信仰的な意味など分かりませんが、むしろ、体験的に、常識的にこのことを知っていたのでしょうか。 やはり、悪霊は、人の心の空洞に入り込むのであります。だから、その前に、てっとり早く、この空洞を、音楽で埋めてしまいなさいと言うのであります。 私たちは、この空洞を正しく聖霊によって埋めるのであります。

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