主が語られた言葉全て

2013年12月8日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」
エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主から語られた言葉をすべて巻物に書き記した。エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ。
ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上ってくるすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった。

エレミヤ書36章1節〜10節

▼ヨハネ福音書は、『初めに言があった』で始まります。ヘッセの『郷愁』の冒頭は「初めに神話ありき」、そしてシュテファン・ツブァイクの『マゼラン』では、「はじめに香辛料ありき」であります。このことが既に、ヘッセやツブァイクの聖書理解信仰理解に繋がるものがあります。しかし、そこに触れている暇はありません。
 『マゼラン』でツブァイクは言います。
 「しかし、実際には、このあまり生えない冗員こそ、マゼランにとってその航海のもっとも重要な参加者となったのである。というのは、行為というのものは、それが叙述されなければ、何の価値もないからである。歴史的偉業も、それが行為としてなしとげられたときではなく、それが後世に伝えられたときにはじめて完成するのである」。

▼マゼランの航海の同行者で、その記録を残したアントニオ・ピガフェッタについて述べた文章であります。
 その例として、ツブァイクは「ホーマーがいなければアキレスは無であった」と言います。
 この論理は些か強引でありますが、しかし、一面の真理を持っていると考えます。同様に、福音書記者を上げ、そして、今日のバルクを上げることが出来るのではないでしょうか。
 
▼1節。
 『ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主から
エレミヤに臨んだ』
 ヨヤキム、口語訳ではエホヤキムは、紀元前609〜598年が、在位期間であります。
 2節には、『ヨシヤの時代から今日に至るまで』とあります。そうしますと、この出来事があったのは、紀元前604年ということになります。南王国ユダの滅亡を紀元前587年としますと、その約10年前ということになります。
 王国滅亡の10年前、日本だったら昭和10年、嵐の中に入ろうとする時代であります。もう既に波は高く、時代の終りが近いことは、誰の目にも明らかであります。
 預言者エレミヤの活動期間が、紀元前626年〜586年とすれば、その4分の3が過ぎた時となります。
 多分、このような数字だけで、エレミヤのおかれた終末的状況を、感じていただけるものと思います。

▼2節。
 『「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルと
ユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を
残らず書き記しなさい』
 もう一度申しますが、『ヨシヤの時代から今日に至るまで』30年間、神が預言者エレミヤを通じて人々に語って来た言葉、その全てを『残らず書き記しなさい』。
 さらりと読んでしまいますが、これは大変なことであります。神は30年間語り続けて来たのであります。預言者エレミヤも、その預言を、人々に伝え続けて来たのであります。
 私たちは、預言という言葉を聞きますと、何だか、単発的な言葉、一回きりのことのように考えますが、このように継続的に、繰り返して語られて来たのであります。その言葉が、積み重ねられているのであります。
 30年で驚くことはないかも知れません。イスラエルの歴史を通じて、神は語り続けて来たのであります。
 神は預言者の口を通して語り続け、それは積み重なっているのであります。

▼3節。
 『ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、
それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは
彼らの罪と咎を赦す』
 『立ち帰るかもしれない。そうすれば、…赦す』、小さいことに拘ってはならないのかも知れませんが、とても気に懸かります。『立ち帰るかもしれない。』立ち帰らないかも知れない。確実ではありません。
 勿論不確実なのは、神さまではありません。人間であります。
 私たちの伝道にも、絶対ということはありません。悪く言えば、向こう様次第であります。
 チャンスを与えることは出来ますが、無理矢理ということは出来ないのであります。
 何故なら、それは悔い改めであり、過去の言葉を受け止めた人間の行為であります。もし、伝道する側の行為ならば、それは、洗脳であります。
 語ることは出来ます。伝えることは出来ます。しかし、それを受け止めるのは、語る側、伝える側の行為ではありません。

▼4節。
 『エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの
口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した』
 このまま素直に読めば、過去30年分の預言を、エレミヤはまとめて語り、バルクは一気に記したことになります。折々に語られるエレミヤの言葉を、バルクが少しずつ書き貯めていたとは述べられていません。
 つまり、エレミヤ自身が心の内に記憶していた、貯めていた言葉を、ここで一気に吐き出し、バルクが受け止めたということであります。
 エレミヤはこの言葉を神さまから受け取りました。口伝であります。それが今、文字になったのであります。
 
▼言葉が文字にされる、そうしますと、筆写してコピーも作れますし、保存できるし、拡がりを持ちます。
 6節にありますように、これが人々の前で朗読されます。
 『お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記した
この巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。
また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい』
 これは、聖書そのものの歴史でありますし、伝道の歴史でもあります。

▼マゼランにとってのアントニオ・ピガフェッタ、アキレスのホーマー、彼らが「がいなければ」、同様に、エレミアにとってのバルクであります。そして、私たち一人ひとりもまた、ピガフェッタでありホーマーなのであります。
 語られることで新しい出来事となり、物語は続き、そして、積み重ねられていくのであります。
 『この巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい』
 私たちも神殿に集まって、『主の言葉を読み』そして聞きます。単に、読み聞くだけではなくて、語り伝えるのであります。
 その時に、2000年前の出来事が、新しい出来事になるのであります。
 クリスマスこそが、その物語の一つであります。
 
▼5節に戻ります。
 『エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを
禁じられている』
 何故禁じられたのか、その詳細は分かりませんが、エレミヤ書を読んでいますと、不思議ではありません。エレミヤは、当時の祭司たちと激しく対立していました。
 『禁じられている』妨げられています。そのためには、エレミヤ当人ではなく、バルクが筆写されたものを携えて行き、それを朗読するというまだるっこい真似をしなくてはなりませんでした。
 しかし、結果的には、それが大きな意味を持ったのであります。

▼偉大な預言者エレミヤといえども、何か特権を持っていて、それを頼りに活動したのではありません。むしろ、絶えず妨げられたのであります。
 この後には、投獄され、自由を奪われるのであります。
 しかし、パウロもそうですし、イエス様自身がそうであります。
 キリスト教の歴史では、迫害こそが、教えが飛躍的に広まる契機となるのであります。
 それは、今日でも同じであります。 
 中国でもロシアでも、東欧諸国でも、迫害弾圧された国々のキリスト教は、飛躍的に進展したのであります。
 本当に不思議であります。しかし、それが隠れようもない事実なのであります。逆にぬるま湯に浸かったようにしていられ国では、教勢は振るいません。

▼ツヴァイクは、無理解と迫害と妨害こそが、マゼランの原動力であったという意味のことを言います。
 私たちの教会だって、同じことかも知れません。
 妨げけるられことなく、自由に勝手に動き回る者は、教会を滅ぼすのであります。特権を与えられた者が、教会を立てるのではありません。
 何よりも、私たちは、神の言葉によって、縛り付けられ、不自由にさせられ、そして、ご用に当たるのであります。
 エレミヤ書1章7〜9節。
 『しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、
行ってわたしが命じることをすべて語れ。
8:彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」
と主は言われた。
9:主は手を伸ばして、わたしの口に触れ 主はわたしに言われた。
「見よ、わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける。

▼6節はもう一度読みます。
 『お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記した
この巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。
また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい』
 聖書を通じて言葉が文字になり、文字が言葉になり、そしてまた、こういうことが繰り返されます。
 そして、人から人へ伝えられる、これが伝道であります。
 
▼人から人へ伝えられるのが伝道ならば、文字は要らないのか、そうではありません。伝言ゲームのように、伝えられる間に、どうしても少しずつ解釈が加わります。その結果、強弱が付けられたり、説明が挿入されたり、割愛割けたりします。少なくとも、強弱が付けられます。
 しかし、文字に記されているから、必ず、元の形に帰るのであります。
 
▼7節。
 『この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、
人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない』
 3節に続いて、ここでも『立ち帰るかもしれない』とあります。
 実は、ここは翻訳によってかなり響きが違います。
 新共同訳聖書『立ち帰るかもしれない』、口語訳『立ち帰ることもあろう』、関根正雄訳『立ち帰るであろう』。それぞれで可能性が高く聞こえるものと、
低く聞こえるものがあります。3節も同様であります。
 解釈上、大きな違いかも知れませんが、しかし、立ち帰るなら救いの可能性があるという点では同じことであります。
 拘るなら、むしろ、3節の口語訳であります。
 『ユダの家がわたしの下そうとしているすべての災を聞いて、
おのおのその悪い道を離れて帰ることもあろう。そうすれば、
わたしはそのとがとその罪をゆるすかも知れない』
 『罪をゆるすかも知れない』とは、些か奇妙に聞こえます。
 新共同訳聖書とは大分違います。
 『ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、
それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。
そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。』
 曖昧な部分と確実な部分とが、全く逆であります。
 しかし、それでも、立ち帰るなら救いの可能性があるという点では同じことであります。

▼悔い改めが先ずあるということでありましょう。救いがあるならば悔い改めるし、そうでないなら悔い改めないというようなことではありません。
 条件を設ける悔い改めなど存在しません。

▼8節。
 『そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、
巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ』
 『エレミヤが命じたとおり』でありますし、『巻物に記された主の言葉を』であります。更に、『主の神殿で』であります。
 私たちの場合に置き換えれば、主の御名によって、聖書の言葉を、教会でとなります。
 この三つの要素が壊れると、それは、礼拝ではありません。読まれるものも、聖書ではなくなってしまいます。
 
▼最後に、この出来事の結果は、何を招来したでしょうか。簡単に分かり易く説明するためには、37章以下の小見出しを拾って読んでみて下さい。
 「エレミヤの逮捕」、「水溜めに投げ込まれる」、「エルサレムの陥落」と続きます。大変なことであります。
 人々は悔い改めなかったし、神さまは赦さなかったのであります。
 しかし、命を賭したエレミヤとバルクの働きを通して、エレミヤ書が私たちに遺され、私たちにも、悔い改めて救いに至る道が遺されているのであります。 エレミヤ一人ではありません。他の預言者たちも、旧約聖書、新約聖書に登場する預言者・使徒たちによって、その命の犠牲によって、私たちに、救いの道が指し示されているのであります。

▼蛇足かも知れません。
 数々の困難、何よりも部下たちの造反に遭いながら、セブ島まで達したマゼランは、島民の前で、礼拝を献げます。その様子を見た多くの島民が、キリスト教に帰依しようとします。
 その場面を引用します。
 「船長は彼らに言った。あなたがたはわれわれを怖がって、或いはわれわれのきげんをとろうとしてキリスト教徒になるのであってはならない。ほんとうにキリスト教徒になりたいのなら、自分自身の願いから、また神に対する愛からでなくてはならない。しかしあなたがたがキリスト教徒になりたくなくても、別に不愉快なことが降りかかるわけではない。ただ、キリスト教徒になる人だけが、それだけますますよい取り扱いを受けるというだけのことなのだ」。
 1頁ほど先になります。
 「無数の異教徒の魂が、彼の神のものとなった。そしてこういうことはすべてーそれが勝利中の勝利なのだ!ー一滴の血を流すこともなく成し遂げられたのである。神が信仰厚いマゼランを加護し給うたのだ」。

▼これこそ、蛇足かも知れません。
 セブ島でも、マゼランは部下の反乱に遭います。その様子を見た現地の人々、せっかくキリスト教徒に改修した筈の人々が、幻滅し反乱を起こし、その戦闘の中でマゼランは命を落とします。彼の世界一周航海は、実は、達成されなかったのであります。

▼これも、蛇足かも知れません。
 もっと早くにマゼランから離反した船乗りたちが、先にポルトガルに帰り着き、巨万の富を得、英雄視されていました。
 しかし、アントニオ・ピガフェッタの記録が、全ての嘘を曝き、彼らは、地位と富を失います。
 私たちもまた、真実の物語の中に生きて働き、神の国に帰り付かなくてはならないのであります。

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