罪のすべてに倍する報い

2013年12月15日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。

呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて、身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。

呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ。
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな。
ユダの町々に告げよ。

見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

イザヤ書40章1節〜11節

▼第2イザヤ書の冒頭に当たる部分を読みます。
頭の部分ですから、1〜2節は、全体の標題であり、第2イザヤの預言の最も大事なことを伝えていると言って、差し支えないでしょう。
『苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と』
罪に対する赦し、苦しむ者への慰め、これが、第2イザヤの預言の基調であります。

▼『罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた』。
何だか、今年の流行語の倍返しを連想させられます。
倍返し、充分以上の刑罰を受け、彼が犯した罪が、既に贖われたというのであります。
倍返しともいうべき苦しみを受けたことを、主は知っておられる。そして赦して下さるというのであります。
倍返しともいうべき過酷な罰であったが故に、その赦しは確実だというのであります。苦しまなければならなかったし、その苦しみは報われたというのであります。苦しみは無駄ではなかったのであります。

▼赦しと慰め、それは、正に福音であります。
マルコによる福音書1章1節に、今日のイザヤ書40章が引用されていることは、全く、このことに対応致します。
『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』と大見出しのように記され、その直後に、『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』とあります。イザヤ書の40章1〜2節は、まさに、マルコが言う福音の始めなのであります。
このことは、9節で、良い知らせという言葉が繰り返されていることからも、納得いただけるかと思います。
諄いようですが、良い知らせ、福音の前提は苦しみなのであります。苦しむ者に、苦しみからの解放である福音が告げ知らされるのであります。

▼人間の苦しみを知り、それを認めて下さる神、預言者に慰めの言葉を命じられる神、いたわって下さる神、それがイザヤの神であります。イザヤは神の厳しい裁きを語ります。しかし、同時に、罪の赦し、救いと慰めを語るのであります。
むしろ、イザヤの語る厳しい裁きこそが、罪の赦し、救いと慰めの根拠なのであります。
イエス様は、マルコによる福音書の中でしばしば、『あなたの信仰があなたを救った』という言葉をもって、罪の中にある者を、その罪から解放して下さいます。『あなたの信仰があなたを救った』という言葉をもって、苦しみの中にある者を、その苦しみから、解放して下さいます。
これは、イザヤと同様に、あなたの苦しみはもう充分だという意味ではないでしょうか。少なくとも、そのような意味を込めておっしゃって下さるのではないでしょうか。

▼福音書に記されたイエス様の赦しの言葉を、思い起こして下さい。
マルコ福音書1章では、一人の重い皮膚病にかかった人が、ひざまずいて言います。『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』。
これは当然、自分は汚れた者だという前提に立っています。現代的な人間中心主義の観点から見ると、この男は、病気のために卑屈になっていると批判されるかも知れません。病気は本人の落ち度のためではないのだから、大威張りで、当然の権利要求として、「俺は一個の人間として、癒され健康になる権利がある筈だ」と言うのが現代的なものの考え方のようであります。
しかし、イエス様は言います。『よろしい。清くなれ』、これは汚れを前提にしています。
病気イコール汚れではありませんが、この男が汚れた者であることが前提になっているのであります。そして、汚れがイエス様によって清められ、その結果として、病も癒されるのであります。

▼2章では、中風に罹った者が、4人の友によって屋根の上に運び上げられ、天井を剥いで、イエス様の目の前に吊り下ろされるという、大変印象的な場面が描かれますが、ここでも、イエス様がおっしゃるのは、『子よ、あなたの罪は赦される』であります。中風に罹った者が罪を犯したということが、やはり前提にされています。それなのに、中風に罹った男が一体どんな罪を犯したのか、ここでは一切問題にされていません。
また重い皮膚病にかかった人は、ともかく自分を『汚れた者』と認識していますが、中風の男の場合には、彼がその罪を告白した、悔い改めたというようなことは何も記されていません。ただイエス様が、苦しむ者に出会い、彼をその目にとめられる時に、罪の赦しが行われるのであります。イエス様の手に触れたものの一切が清められるのであります。

▼深く悔い改め、罪を告白した者が、イエス様に出会い、その罪を赦されるという構図ではありません。
むしろ、イエス様に出会い、その資格もなくして罪を赦された者が、初めて深く罪を悔い、告白するのであります。マルコによる福音書5章の長血の女の癒しの記事は、そのように読むことが出来ます。
一番簡単な言い方をしますと、イエス様を信ずるようになった者が、その結果、自分の罪の現実に気が付き、告白し、悔い改めるようになるのであります。信仰なくして罪の告白も悔い改めもないのであります。
信仰がなければ自分の罪が見えません。
信仰がない程、自分の義を自分の正しさを主張するのであります。

▼さて、イザヤに話を戻します。
3〜4節は、情景を思い浮かべていただければ、理解の助けになろうかと思います。
『呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4:谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ』
ユダヤの民が捕らえられているバビロンから、故郷イスラエルまでの道筋には、砂漠が横たわり、多くの山と谷とが道を塞いでいます。
その谷は、自らが背伸びをして高くなり、主が歩む妨げになるまいとするという意味合いであります。また、山は、自らが身を屈めて背を低くし、主の歩むのに妨げになるまいとするという意味合いであります。
新共同訳聖書は、そのような意味を踏まえて訳しています。勿論、この箇所の全体が、所謂、終末論的、黙示的に表現されたものであります。

▼理屈から言えば、バビロンにいるユダヤの民が、神のおられるイスラエル目指して進むのでありますが、ここでは、敢えて、神が平らにされた道を進まれるというふうに描いています。ここでも、解放された民と共に歩む神、インマヌエルの神が強調されています。
5節では、神と同行することで、罪の中にいる、肉の中に住む人間が、本来目にする筈のない神の栄光を、体験することが出来ると、言われています。このことは、大変重要なことであります。
苦しみは、神と共に苦しんだ苦悩だったのであります。
神と苦しみを共にしない者には、解放はありません。慰めも、救いもありません。
罪、苦しみ、を共に居て味わって下さった神が、その苦しみを知っておられるが故に、赦し、慰め、罪と苦しみから、私達を解放して下さる。神と、共に、解放の喜びを体験する、これがクリスマスの原体験であります。

▼8節、バビロンに於ける奴隷的な状態から解放されたユダヤの民、中でも、バビロンでは生活を立てることが出来なかった貧しい人々が、エルサレムへ帰還する旅の主要なメンバーかも知れません。以前にイザヤ55章の説教で、そのことは申し上げております。
彼らには、十分な旅の備えもありません。特に、間に横たわる砂漠のことを考えますと、食料備蓄が、最も深刻な問題だと思います。その意味では、彼らは今日の難民にも等しい様でありました。
しかし、決定的に異なるのは、彼らには、目的地があり、かつ、食料に乏しくとも、神の言葉という糧によって養われているのです。この故に彼らは、難民ではなく、旅人なのであります。
つまり、難民であるか、旅人であるかは、十分な食料備蓄があるかで決まるのではなく、目的地を持っているか、旅の支えとなる心の糧を持っているかどうかで決まるのであります。

▼このことは、私たちの教団にも私たちの教会にも当て嵌まります。私たちの教団に私たちの教会にこそ当て嵌まります。
私たちは、ついつい、手に入らないもの、不足なものを数えてしまいます。他の教団や教会と比較して、不満を覚えます。
しかし、私たちの教団に私たちの教会に、絶対に必要なもの、欠かしてはならないものは、十分な食料備蓄のようなもの、装備ではありません。目的地を持っているか、旅の支えとなる心の糧を持っているかどうかであります。
そして、時として、鞭を、杖を揮われる、羊飼いなる神を信頼しているかどうかであります。

▼羊飼いなる神が、人間を導くのか、それとも、人間が神を指導するのか。神の言葉が養い導くのであります。8節。
『草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ』
詩篇23篇には、羊飼いと羊との絶対の信頼関係が描かれています。羊飼いは、オアシスの草を食べ尽くす前に、羊を次のオアシスへと追い立てます。ところが次のオアシスに向かうためには、目の前に拡がる砂漠へと踏み出さなければなりません。羊にはその決断が出来ません。ために、羊飼いは、時には、杖と鞭とをもって、羊を追い立てるのであります。それが、『汝のしもと汝の杖われを慰む』という異様とも見える表現になるのであります。
5〜8節に述べられていることは、今、滅びを待つばかりのバビロンというオアシスを離れて砂漠に踏み出し、神様が約束下さった地へと向かわなければならないという勧めなのであります。

▼ここでも、神と苦しみを共にするものが救いに与るのであります。苦しみを共にするものが、神と共にいるのであります。

▼9節。
『高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。』
ユダヤでは、紀元前1000年乃至1200年前に、狼煙が非常の場合の通信手段として使われたそうであります。日本でも、鎌倉時代に元寇への対応で用いられたそうでありますが、これは巧く機能しなかったと聞いています。山の頂きに木が茂っている日本では難しいかも知れません。しかし、ユダヤの荒れ地では、実に効果的であったと想像致します。ここにあるように、狼煙でなくとも、大きな声を張り上げるだけでも十分だったかも知れません。
まあそんなことよりも、大事なことは、凶事ではなく、喜ばしい知らせが伝えられたということにあります。
狼煙が走るように、福音は砂漠を走り抜けて、都に届くのであります。これは、福音の初めなのであります。

▼9節の終わりから、1節。
『見よ、あなたたちの神
10:見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御
前を進む。
11:主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる』

▼主に出会うということは、己の無力さに、己の罪の姿に気付かされるということであります。その力の前にひれ伏して拝むということであります。そして、罪の告白を強いられるということであります。羊のように、従順を誓うということであります。その時に、私達は、砂漠を越えて私達と共に旅してくださる羊飼いを得るのであります。死の陰の谷を行くような、人生に、もはや迷いも不安もなくなるのであります。

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