王の誕生

2013年12月22日降誕節主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

ハンナは祈って言った。
「主にあってわたしの心は喜び
主にあってわたしは角を高く上げる。
わたしは敵に対して口を大きく開き
御救いを喜び祝う。
聖なる方は主のみ。
あなたと並ぶ者はだれもいない。
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。

驕り高ぶるな、高ぶって語るな。
思い上がった言葉を口にしてはならない。
主は何事も知っておられる神
人の行いが正されずに済むであろうか。

勇士の弓は折られるが
よろめく者は力を帯びる。
食べ飽きている者はパンのために雇われ
飢えている者は再び飢えることがない。
子のない女は七人の子を産み
多くの子を持つ女は衰える。
主は命を絶ち、また命を与え
陰府に下し、また引き上げてくださる。
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めてくださる。
弱い者を塵の中から立ち上がらせ
貧しい者を芥の中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ
栄光の座を嗣業としてお与えになる。

大地のもろもろの柱は主のもの
主は世界をそれらの上に据えられた。
主の慈しみに生きる者の足を主は守り
主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。
人は力によって勝つのではない。
主は逆らう者を打ち砕き
天から彼らに雷鳴をとどろかされる。
主は地の果てまで裁きを及ぼし
王に力を与え
油注がれた者の角を高く上げられる。」

サムエル記上2章1節〜10節

▼預言者サムエルの誕生の次第が、サムエル記上1章に記されています。
粗筋で申しますと、子どもがないために辱めを受けた女、ハンナに、誓願によって、子どもが授けられます。ハンナは、誓願に従い、授けられた子サムエルを神に献げます。

▼旧約聖書の中で、同じような話が繰り返されています。サムソンとデリラの物語で知られる豪傑サムソンも、殆ど同様に、誓願によって授けられた子であり、ナジル人として神に献げられます。
そもそもアブラハムの妻サラにイサクが与えられる話が、殆ど重なります。イサクもまた、神によって与えられ、神に捧げられた子どもであります。
そして、バプテスマのヨハネの誕生物語、イエス様の誕生物語、どれも似たような構造を持っています。
神によって与えられた者が、神に捧げられる、そういう共通点を持っているのであります。

▼年代順にいえば、イサク、サムソン、サムエル、ヨハネ、そしてイエス様、ユダヤの歴史に残る特別の存在に違いありません。神さまによって特別に選び出された、特別の存在でありましょう。
しかし、これは一面、誰にでも当て嵌まる普遍性を持った話でもあります。
誰もが、神さまによって選び出された、固有の命を持ったかけがえのない存在であります。誰もが、神さまによって人生を与えられたのであり、ならば、神さまに献げて生きることこそが、人生なのであります。

▼どんな両親も、遺伝子という設計図に従って、自分の思い通りの子どもを制作することは出来ません。
子どもは作るものではなく、与えられるものであります。
この観点からいっても、出生前遺伝子検査というのは、どうでありましょうか。まして、遺伝子操作となりますと、正に神の領域に踏み出すことになるかも知れません。
その結果、子どもは与えられるものではなく、作るものになるかも知れません。そして、究極は、クローン技術によって、自分自身の遺伝子だけで、自分自身の子ども、むしろ、自分自身を造ることになりますでしょうか。

▼アイザック・アシモフの小説では、近未来社会に、それが実現します。誰も結婚しなくなり、自分自身のクローンに記憶と知識と財産を譲り、殆ど不老不死の世界が実現します。
人々が死ぬのは偶然の事故死だけになります。その結果、人々は事故や病気を異常なまでに恐れ、自分のシェルターの中に閉じ籠もり、人間間の交流は一切なくなります。そして、このシェルター同士が、やがて争い、戦争に突入します。

▼SFの発想を馬鹿にすることは出来ません。一面の真理を突いているのであります。私たちの世界は、既に幾分か、アイザック・アシモフの小説に近づいているのであります。
子どもは作るものではなく、与えられるものだ、この信仰が失われれば、アイザック・アシモフの小説に近づくのであります。

▼子どもだけではありません。私たちが一体何を作ることが出来るというのか。私たちは、形を造作することは出来ても、新しいものを作り出すことは出来ません。
品種改良なら出来ます。物と物とを組み合わせて、新しい物質らしく見える物を創り出すことは出来ます。しかし、それは、実際には、新しい存在ではありません。
コヘレトの言葉1章9〜11節。
『 9:かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、
これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
10:見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、
永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。
11:昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/
その後の世にはだれも心に留めはしまい。』

▼私たち人間は、何か新しいものを生み出すのではなく、神から与えられたものを育てるという役割を持っているのであります。
畑のものもそうであります。家畜もそうであります。勿論教会もそうであります。
自分たちが創ると言う時に、既に傲慢の罪に陥っているのであります。
まして、自然環境や、人間の存在そのものを脅かしかねないものを、造ってはならないのであります。
それは、創世記11章に描かれた、バベルの塔であります。
私たちはただ、収穫したものを、神にお返しするのであります。

▼1節。
『ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。』
最初に申しましたように、主がハンナを恵まれ、彼女の恥を取り除いて下さいました。
6節を読みます。
『彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。』
ハンナという名前は、恩恵・恵みの謂だそうであります。
ペニナは、子どもがいることを、自分の手柄のように思っていました。ペニナという名前は、サンゴだそうであります。サンゴ、確かに宝物かも知れません。しかし、所詮は死骸であり、無用な物であります。そこには命はありません。
ハンナに子どもがなく、自分には与えられている、そのことはだだ感謝すべきことであります。しかし、ペニナは、神によって与えられている、そのことを忘れて、子どもを自分の手柄のように思い、自分の持ち物のように考え、ハンナを見下しました。
そういうことをすると、持っているものも取り上げられてしまうのであります。

▼私たちもそうであります。与えられている、そのことはだだ感謝すべきことであります。しかし、それを自分が創り出したように考えると、自分の持ち物のように思うと、持っていることで、持っていない者を、見下すようだと、持っているものも取り上げられてしまうのであります。
私たちの社会も、私たちの教会も同じであります。

▼『主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き /御救いを喜び祝う。』
ハンナの面目が立ったと言うことですが、これは単に、女の争い、角突き合いではなく、神を頼みとしない者と、神を頼りとして生きる者との、間のことなのであります。
だからこそ、2節。
『聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。』

▼3節も同様であります。これも、ペニナに象徴される、おごり昂ぶりに生きる者への批判であります。
ここで、クリスマスとの関係で考えることは飛躍ではありません。
クリスマスを体験した者たちとは、貧しい者、弱い者、別の見方をすれば、自分を頼みとすることの出来ない者であります。おごり昂ぶることなど出来ない者であります。だから、神に頼る、貧しいから、神に頼る、弱いから神に頼る、その者が、神によって恵まれ、誰よりも豊かに、強くなれるという、大いなる逆説が語られているのであります。

▼4節。
『勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。』
これも、クリスマスの出来事においてこそ、現実となります。
クリスマスの出来事当時の羊飼いは、貧しく地位の低い者でした。
しかし、羊飼いは、日頃から、弓や剣・槍といった武器を使い慣れ、馬に乗ることが出来、集団行動も得意であります。つまり、何時でも、神の軍勢に加わることが出来る、兵士の予備軍であります。
彼らは、新しく誕生した王子の親衛隊となることが出来ます。実際、彼らの先祖ダビデが、この道筋を辿り、出世したのであります。
しかし、羊飼いによって新しい軍隊が組織され、戦争が起こるのではなく、平和の讃美歌が歌われます。
ルカ2章。
『 13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、
御心に適う人にあれ。」』

▼5節。
『食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。』
ハンナは何故、このように歌うのでしょうか。
12節以下と関連があるように思います。
『エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。
13この祭司たちは、人々に対して次のように行った。
だれかがいけにえをささげていると、その肉を煮ている間に、
祭司の下働きが三つまたの肉刺しを手にやって来て、
14釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れた。
肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとした。彼らは、
シロに詣でるイスラエルの人々すべてに対して、このように行った。』
けちな犯罪であります。しかし、神さまのものもを盗むという観点からすれば、大罪であります。

▼36節。
『あなたの家の生き残った者は皆、彼のもとに来て身をかがめ、銀一枚、パン一切れを乞い、「一切れのパンでも食べられるように、祭司の仕事の一つに就かせてください」と言うであろう。」』
サムエルのいわば前任者、エリの子孫にこの厳しい預言が下されました。
神さまのものもを盗むという観点からすれば、大罪なのであります。
先程申しました。遺伝子操作や、クローン技術などは、神さまのものもを盗むことになりはしないでしょうか。

▼旧約聖書の歴史書には、権威ある者の堕落、特に世襲の失敗が、繰り返し描かれています。
ここで、クリスマスとの関係で考えることは飛躍ではありません。
クリスマスとは何か、王の誕生であります。真の王、王の王の誕生であります。ヘロデ王は、王位の簒奪者であります。その息子領主ヘロデは、そこに世襲の失敗が加えられます。
本当の権威、従うべき権威が何処にあるのかと、問われているのであります。それがクリスマスであります。
東南アジアの諸国でも、中東でも、独裁と、また裏腹にポピリュズム、聖書の言葉だとオクロクラシー・衆愚政治が、大きな問題になっています。日本も、例外ではありません。
大雑把に言いますと、利権を握った人間が、自分のお金ではなく、国のお金をばらまいて票を買い、ばらまいたお金以上の利権を得て、結果、貧しい民をもっと貧しさに追いやり、更に、貧しい民から、安いお金で票を買うのであります。表面は、民主主義・議会政治の名の下に行われ、やがて、独裁政治となります。その独裁政治は、同時に、衆愚政治なのであります。

▼6〜8節。
ここに描かれる正しい裁き、これが王の最大の仕事であります。
横暴ではなく、正しい裁きが地の果てにまで及ぶ、全ての人々に及ぶ、これはクリスマスの意味でもあります。
クリスマスは、王の誕生であります。
そして、このことこそ、教会に当て嵌まるし、当て嵌めて考えなくてはなりません。

▼東から来た博士たちは、長い旅の果てに、ベツレヘムに辿り着き、黄金・乳香・没薬を献げて、帰路につきました。黄金・乳香・没薬を献げたことで、何かしらの報酬を得たとは書いていません。ただ、御子を見上げ、礼拝を献げたことで、喜んで満足して、帰路につきました。
羊飼いは、立身出世の機会に恵まれたようで、実は何も得ていません。しかし、喜び、その喜びを人々に告げるという役割を果たしています。
羊飼いは、世界で最初のクリスマス礼拝に参加したのみならず、世界で最初に、福音を告げる者とされたのであります。
命を存在そのものを与えられていることへの感謝、神のご用のために働くこと、それが、真の喜びであります。
しかもそれは、平和を実現するための戦いなのであります。

▼9節。
『主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。』
チャールズ・ディケンズのクリスマスキャロル、これはどなたもご存じで、お話しするまでもないでしょう。
幾ら自分の手で働いて稼いだ報酬であっても、それを全く独り占めにして、他に分け与えることを知らないならば、むしろ、分け与える家族・友人・隣人を持たないならば、彼は、黄金の輝きの中に生きているようで、実は、闇の沈黙に落とされているのであります。
他に分け与えることを知らないことが、既に裁きを受けているのであります。

▼エリナー・ファージョンに、こんな話があります。
以前、教会学校との合同礼拝で話したように思いますので、簡単に紹介します。…略…

 

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