わたしはあなたと共におる

2014年1月5日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし
クシュとセバをあなたの代償とする。
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。
わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り
西からあなたを集める。
北に向かっては、行かせよ、と
南に向かっては、引き止めるな、と言う。
わたしの息子たちを遠くから
娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。
わたしの栄光のために創造し
形づくり、完成した者。

イザヤ書43章1節〜7節

▼ヤコブよ、あなたを創造された主は/
イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、
わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

わたしはあなたの名を呼ぶ…あなたの名とは、主がヤコブに与えられた名前、イスラエル即ち「神が支配する者」=「わたしのもの」であります。
名を呼ぶとは、所有者にのみ許された行為であります。名は命であり、その人の隠された本質であります。
その名前を呼ぶことが出来るのは、名前を付けた人、その人に、命を与えた人だけであります。

▼かつては、世界中何所にでも、このような考え方がありました。
グリムやアンデルセンの童話、つまりはヨーロッパの民話の中に、トルストイの民話に、そして世界各地の神話にも、このような考え方が見られます。ル・グゥインの『ゲド戦記』も、これを前提としています。そして日本の言霊信仰は、その極め付けでありましょう。

▼何故、神のものなのか。それは、神が創造された、造られた、贖われたからであります。
贖うという言葉が、罪の赦し等の神学概念になるのは後の時代のことであります。贖うの、直截的な意味は、奴隷を買い取ることであります。神によって買い取られた、だから、所有物は神であり、イスラエルは神のものなのであります。
出エジプトむしろ捕囚を反映しています。イスラエルは神の所有物、このことの確認がなければ、後の約束もありません。
自分のものではないものに、約束は与えられないのであります。

▼キリスト者もまた神に贖い取られた者であります。神に贖い取られた、つまり罪から救い出された者であります。
つまりは罪人であったという罪の自覚・罪の告白がなければ当然、神に贖われた者としての自覚もありません。それは、つまりは、わたしは神のものではない、つまりは、キリスト者ではない。神と共にいることもない。そうなるのであります。

▼水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、
あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/
炎はあなたに燃えつかない。

わたしはあなたと共にいる…奴隷だからこそ、所有物だからこそ、イスラエルは神と共にいることになります。1節で述べたように、奴隷・所有物といった自覚がなければ、当然、試練の時に神が共にいて下さるという信仰もありません。
神共にいます、という信仰も、多くの人は、神がガードマンみたいに絶えず見守っていて下さるというふうに理解しているのではないでしょうか。それで間違いとは言えないかも知れませんが、不完全だと思います。

▼私たちが神の所有物だから、神さまの持ちものだから、常に神さまと共にいることになるのであります。そういう理屈であります。
自分は神さまの御旨と関係なく、好き勝手に歩き回っていて、困ったことが起こると、瞬時に神さまが駆けつけてくれる、そんな虫の良い信仰はありません。
まして、それが神たるものの役割だろうと考えているならば、とんでもない間違いであります。

▼後半の、あなたが火の中を歩いていてもはどんな時でもということだが、敢えて言えば災害時も戦争の時にも、と読むことが出来ます。
これも、神さまの兵として働いていると言うことが前提であります。敵方についていて、神さまの守りを期待するのは、ちょっと理屈に合いません。

▼3節。
わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし/
クシュとセバをあなたの代償とする。
主・神・イスラエルの聖なる神・救い主と幾つにも言い換えて、神の支配の絶対性を強調しています。神の支配の絶対性即ち、この後に語られる救いの確かさであります。神の支配の絶対性なくして、救いの確かさはありません。
神さまを絶対の存在として、仕え、礼拝することによって、救いの確かさが感じられるのであります。
神さまの他にも、いろいろと仕えたり、大事にしたり、恐れたりするものを持っていては、救いの確かさは得られません。

▼エジプトやクシュ、セバについて述べられていることは、どうでも良いことだと思います。この国・民族に何かしら愛着がある人は、抵抗を覚えるかも知れませんが、そうではない人が、問題にするのは、ためにする議論であります。
因みに、このエジプトは、今日のエジプト人の先祖ではありません。この後、エジプトの地は、幾多の民族の手に渡り、先住民族を滅ぼして、今日、そこに済む人がいます。これは、世界中、殆ど全部で起こったことと言って良いでしょう。
エジプトやクシュ、セバを身代金にも賠償金にもしようと、極端なことが言われています。しかし、この当時の現実の全く裏返しであることを忘れてはならならないでしょう。
セバは、エチオピアの一部か近隣か、詳細は不明であります。

▼4節。
わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/
あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。
あなたとは、勿論イスラエルのことであります。誰か特定の者ではありません。主旨は3節と同じであります。
何しろ大事なことは、わたしの目にあなたは価高く、貴く、
わたしの目にであります。価値のあるなしを決めるのは、所有者たる神であります。客観性ではありません。神の秤だけであります。

▼槇原敬之の、『世界で一つだけの花』、私が知っているくらいですから、どなたもご存じでしょう。
「そうさ ぼくらは 世界で一つだけの花 ひとつひとつ違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」
その通りでありまして、共感します。

▼この歌もそうですし、一人ひとりが固有の存在であり、他と比較できない存在であり、掛け替えのない命であるということが、言われます。その通りでしょう。
しかし、一人ひとりが他と比較できない固有の価値を持つから、その人の存在意義かあるというのは、必ずしも、イザヤ的ではありません。
イザヤ的には、あくまでも、わたしの目にあなたは価高く、貴く
神が、そう判断されたから、価値を持つのであります。
イザヤ的には、わたしはあなたを愛し 神が、それを決められたのであります。
価値は、人間の中に存在するのではありません。人間をご覧になる神の中に存在するのであります。

▼もっと具体的にいえば、裁くのは神であります。しばしば触れますように、裁くとは、人の値打ちを、判断することであります。
数字に置き換えることの出来るようなこと、表面だけを見て判断すること、それで、他の人間の値打ちを決めてしまうことが、裁くということであります。
ですから、マタイ福音書、7章1〜節。
『「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。』
これは、他人には寛容でありなさい、優しくありなさいということではありません。人を裁くのは、他人の命の値打ちを測るのは、神さまの業であって、人間の分際で出来ることではないという話であります。

▼5節。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。
わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる

福音書のクリスマスや復活記事と共通します。
勿論、偶然ではありません。福音書のクリスマスや復活記事は、強くイザヤの影響下にあると言えるし、イザヤ書はクリスマスや復活を預言しているとも言えましょう。
子孫が集められる。約束は子孫の代になって実現します。一個人ではありません。これも教会的であります。

▼そもそも、あなたとは、一個人のことを指しているのではありません。あなたとは、ここでは即ちイスラエルのことであります。
そして、私たちの場合にも、一人ひとりのことではなく、教会のことなのであります。
わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し これは、一人ひとりのことではなく、例えば、玉川教会のことなのであります。その玉川教会に、一人ひとりが存在するのであります。
神の目に…価高く、貴く 見える人が何人かが集まって、結果玉川教会が存在するというのではありません。
神の目に…価高く、貴く 見える人が大勢いれば、立派な教会で、少ないと駄目な教会、一人もいなければ最早教会ではない、そういう話ではありません。

▼北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、 と言う。
わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、 と言う。

北ではかつて、アッシリアが北王国イスラエルを滅ぼし、多くの人々を連れ去りました。南とはバビロン(新バビロニア=カルディア)のことであります。
アッシリアが滅びたから、捕囚のユダヤ人が自由を与えられ、帰還すると言うのではありません。バビロンが滅びたから、捕囚のユダヤ人が自由を与えられ、帰還すると言うのではありません。
神の言葉が与えられたからであります。
行かせよ、引き止めるな、連れ帰れ との神の言葉が与えられたからであります。
私たちの教会も同様であります。行かせよ、引き止めるな、連れ帰れ との神の言葉が与えられたから、私たちの教会に、信仰者が集められ、礼拝が守られるのであります。

▼だから全て神さま任せで、私たちは何もしないということではありません。しかし、伝道も牧会も、神さまの業であります。それを忘れて、人間の力でなるもの、人間の手柄のように考えてはならないのであります。
神さまの力を信じて、その元で働くことこそが、伝道・牧会であります。

▼7節。
彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し  /形づくり、完成した者。

わたしの名によって呼ばれる者…つまりイスラエルであり、そして、キリスト者であります。
何より、わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。
それが、教会であります。

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