洗礼から始まる

2014年1月12日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

マルコによる福音書1章9節〜11節

▼先ずは、9節をもとに、この当時の時代背景というものをお話しなくてはなりません。なるべく簡単に致します。
ガリラヤは、ヨシュア記等に記されたカナン征服後に、アセル、ナフタリ、セブルン、イッサカルに分配されましたが、この地には、先住のカナン人が大勢残っていました。
王国が南北に分裂していた時代には、イスラエル王国の最北に位置するため、しばしば他民族の侵略を受け、紀元前732年には、捕囚に遭いました。
その後、約600年間に亙って、次々と、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリアに支配され、住民の捕囚と他民族の入植が繰り返され、人種・文化が複雑に混じり合うことになりました。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる所以であります。
紀元前80年、アレクサルドル・ヤンナエウスが、600年振りにガリラヤを回復、急速にユダヤ人の入植が進みました。このため、この地には、エルサレム以上に、急進的な愛国主義が誕生することになりました。
それは今日のイスラエルにおけるヨルダン川西岸地域やゴラン高原等への入植問題、入植者の極端な民族主義と構造的に全く同じであります。

▼紀元前63年、全パレスチナがローマの支配下に入れられました。
紀元前40年、ローマはヘロデを「ユダヤ人の王」に任じ、ガリラヤは、ヘロデ家の4分領の一つとなります。
紀元25年、ヘロデ・アンティパスは、ローマ式の町ティベリヤを建てて首都とし、コイネーギリシャ語が公用語とされました。
マルコは、折に触れてイエスとガリラヤとの密接な関係を強調しています。

▼ヨルダン川についても、若干のことをお話致します。
旧約聖書には、ヨルダン川を舞台とした印象深い数々の出来事が記されています。
アブラハムとロトとが初めてこの川を渡ったこと(創世記13章)、ヤコブの出奔と帰郷(創世記32章)、モーセの遺志を継いだヨシュアによるカナン征服開始(ヨシュア1章)、士師やサウルの戦闘でも重大な局面で舞台となります。(エホデ=士師記3章、エフタ=士師記7章、サウル=サムエル上11章)。また、エリヤの昇天(列王記下2章)、エリシャによるナアマンの癒し(列王記下5章)が上げられます。
このように時代が大きく変革する時に、ヨルダン川は、その舞台とされます。

▼ガリラヤ、そしてヨルダン川が舞台となって、今日の出来事が起こるのであります。そこには、特別の意味が込められているのであります。
一つは、国家の独立再建を熱望する人々が居たこと、一つは、時代が大きく変わろうとしているということであります。

▼同じく9節に記されています。イエス様が何故、ヨハネの洗礼を受けられたかは、初代の教会にとって大問題であったと考えられます。そして、私たちにとっても大きな疑問なのでありますが、そのためにも、10節を読みます。
『天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった』
このように記されています。マルコ福音書では極めて例外的な、まあ何と言うか、神秘的な記述であります。
イスラエルの宇宙観では、天はドーム球場の天井のように考えられていました。ですから、『天が裂けて』という表現になります。
しかし、勿論、それは現代の天文学では、全く通用しない考え方であります。そもそも、マルコ福音書も、天文のこと、そのような形のことを言っているのではありません。
強調点はもっと別の所に存在するのであります。

▼似たような記述が、マルコ福音書の中に、もう一箇所見つかります。大きな手がかりになるかと思います。それは、15章の十字架の場面であります。
37~39節を読みます。
『イエスは大声を出して息を引き取られた。
38:すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39:百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。
そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、
「本当に、この人は神の子だった」と言った。』

▼『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』とは何を意味するのでありましょうか。神殿の幕とは、至聖所と俗世間とを隔てるものであります。至聖所とは、神への犠牲が捧げられる場所であります。でありますから、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』とはイエス様が十字架に架けられたゴルゴダの丘が、神への犠牲が捧げられる場所となったということであります。至聖所と俗世間とを隔てるものが無くなったということであり、即ち、この世界がそのまま至聖所となったということであります。
そして、至聖所は神の領域であります。神の国に属するものであります。でありますから、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』とは、神の国が、この世界の中に拡がって来たということであります。
つまり、約めて言えば、イエス様の十字架の出来事によって、神の国が始まったのであります。

▼今日の洗礼の場面も同じような意味を持つと考えます。
イエス様が洗礼を受けられた時に、『天が裂け』たのであります。つまり、天と地との境目に、亀裂が出来たのであります。
天が、神の支配が、地に及んだのであります。
神の国が始まったのであります。イエス様が洗礼を受けられた時に、神の国が始まった、これが、マルコ1章の意味であります。

▼今日の主題からは外れるかも知れませんが、このことを言わなくてはなりません。私たちも、イエス様に続く洗礼を受けます。
それを天に国籍を持つという言い方をします。全く文字通りなのであります。私たちは、この地の国に居ながら、しかし、神の国に居るのであります。
もし、このことを、大使館か何かに例えるのには、少し無理があるかも知れません。しかし、構造的には似ているのであります。
大使館は、日本にありながら日本ではありません。大使館の門を一歩潜れば、そこは外国であります。
私たちは、洗礼を受けた時から、神の国のパスポートを持ったのであります。そのことを自覚しなければならないのであります。

▼最初にお話しましたように、この当時のガリラヤでは、自分たちの国籍がどこにあるのかということは、大問題でありました。特にガリラヤの人にとっては、自分たちはローマに支配されてはいるがイスラエル人であり、イドマヤ人のヘロデを王として押しつけられているが、しかし、自分たちの真の王は、…というように、実に、現実的な問題であり、アイデンテティーの問題なのであります。
私たちだって、同じことなのであります。
戦争があるわけではないし、クリスチャンだからといって、他の宗教を信じる人に迫害・弾圧される訳ではありませんし、日本という国から、はじき出される訳でもありません。しかし、私たちの国籍は天に存在するのであります。
私たちは、既に、神の国に住んでいるのであります。

▼11節。
『すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、  天から聞こえた。』
ここも、名画を見るような場面と言って良いかも知れませんが、漫画を見るようだと思う人もあるかも知れません。
丁寧に一語一語を読みたいと思います。
『愛する』かのアガペーであります。愛される者、最愛の、唯一のというような意味であります。つまり、ここでは、一人息子ということであります。
『心に適う』とは、(エウドケーサ)、わたしは喜びを得たという意味の言葉であります。跡継ぎ息子を得た喜びであります。
そして、『子』、直訳すれば、『わたしの子供』であります。ここに最大の強調点があます。
つまり、イエスは神のひとりごであり、神のひとりごが、天から直接に、地の国へと送り出されたということが言われているのであります。

▼さて、『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』箇所を先程参照致しましたが、もう一箇所、今日の箇所と、そして『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』箇所と、類似する話が、マルコ福音書に収められています。
それは、9章であります。
所謂山上の変容の出来事が記されています。7節。
『すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
「これはわたしの愛する子。これに聞け」』

▼『これはわたしの愛する子』という言葉は、1章と共通します。それだけではありません。もっと深い意味で、重なる部分が大きいのであります。
9章9節。
『一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえる までは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。』
「山上の変容」と復活とが関係付けられています。そのことに注目しなければなりません。
また、例によって、この不思議は、限られた者にだけ、教会にだけ、信仰を告白した者にだけ示され、他の者には秘密にされます。それは、或る意味で、今日でも同じであります。「山上の変容」のような出来事は、信仰を持って受け止めるべき事柄であって、そうでないと唯のオカルトになってしまうのであります。

▼同じく、私たち人の一人の洗礼もまた、信仰の事柄であります。そして、極めて神秘的な出来事なのであります。神秘的な出来事、本来地上の国では起こりえない事柄、その事柄である洗礼に、与ったのであります。
ここでも、譬えには無理があるかも知れませんが、敢えて言えば、私たちは、地という他所の国にいながら、神の国に住民登録され、パスポートを貰ったのであります。

▼実は、礼拝そのものが、地という外の国にいながら、神の国にいる体験なのであります。十字架と復活のイエス様を礼拝するのが、日曜日の礼拝であります。つまり、山上のイエス様のお姿を見るのであります。
ここでは、神の国の言葉が話され、つまり、祈りや讃美であります。神の国の日常生活が行われるのであります。つまり、信仰の交わりであります。
次週の聖書日課は、マルコ福音書1章14節以下であります。
正に、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』であります。

この記事のPDFはこちら