宣教の始まり

2014年1月19日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて、従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブをその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 

マルコによる福音書1章14節〜20節

▼イエス様の宣教第一声が、15節に記されています。
『「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」』
キリスト教は、言葉の宗教であります。イエス様のお言葉こそが、私たちの信仰の内容であります。そうしますと、イエス様の宣教第一声は、私たちにとって、決定的に重要だと考えます。
因みに、順番から言いますと、イエス様の第一声の前には、11節があります。
『「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」』
 天から聞こえた神さまの声であります。
更に遡ると、2節。
【「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
 3:荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」】
 預言者イザヤの声であります。

▼細かいことは省略しますが、他の福音書は必ずしも、この順番ではありません。マタイとルカには、クリスマスの記事がありますし、イエス様が洗礼を受けられてから、伝道に赴かれるまでの、次第、順番も微妙に違いがあります。
 第一声もそれぞれであります。
マタイでは、3章15節。
『しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。
正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。』
 イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられる場面であります。
 ルカでは、イエス様の第一声は、2章49節であります。
 『すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。
  わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
  知らなかったのですか。」』
  宮参りの後、イエス様が神殿で祭司たちと問答をする場面であります。

▼ヨハネでは、1章38節。
『イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。』
最初の弟子たちの召命の記事であります。
それぞれに特徴的であります。それぞれの福音書の個性が、既にここに表れているとも言えますでしょう。
 それぞれ何を強調しているのかと言うことは、時間の関係もありますし、あまりに、専門的になりますので省略せざるを得ません。
ただ、申し上げたいことは、マルコに描かれるイエス様の宣教第一声は、このように、特徴的で、重要だということであります。

▼『「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」』
 これが、イエス様の宣教第一声であります。
 更に、一つひとつ読んでまいります。
『時は満ち』とは、勿論、イエス様の宣教の時が始まったという意味であります。同時に、十字架への途を歩き始められたということであります。
『神の国は近づいた』も同じことも同じことであります。イエス様の宣教が開始され、地上に神の言葉が与えられたことであり、これは、即ち、この地上に神の言葉が受肉したということであります。
 更に、『神の国は近づいた』もまた、十字架が近づいたことであります。

▼マルコ福音書は、僅か16章しかありません。しかも、16章は本来マルコではないと考える人が少なくありません。
 それは兎も角、全16章中、10章以下には、最後の一週間の様子しか描かれていません。
 半分近くが最後の一週間に充てられているのであります。そして、8章からは、明確に十字架の予告が出て来ます。つまり、半分以上が、十字架の場面を描いています。
更に言うならば、今日のこの1章からして、既に、『神の国は近づいた』こと=十字架が近づいたことが語られているのであります。

▼『悔い改めて福音を信じなさい』という言葉も、当然、『神の国は近づいた』こと=十字架が近づいたことと重ねて考えられ、受け取められなければなりません。
『神の国は近づいた』のであります。『神の国は』始まったのであります。
『悔い改めて福音を信じ』るのは、今、この時なのであります。

▼その意味では、『「時は満ち』とは、一人ひとりの人間にとって、『「時は満ち』たということでもあります。
 一人ひとり、生活があります。仕事があります。それぞれに、事情があります。勿論、それ以上に、気持ちの問題があります。自分の中に真に信仰があるだろうか、イエス様の道を、一緒に歩いて行くことが出来るだろうか、いろいろと迷いもありますでしょう。
 しかし、『「時は満ち』たのであります。『神の国は近づいた』のであります。
 つまり、一人ひとりの事情・状況・気持ちではありません。
 『神の国は近づいた』のであります。

▼『悔い改めて福音を信じなさい」』。
 読みようによっては、『「時は満ち、神の国は近づいた』までは、状況の説明であります。
 前提であります。そうして、『悔い改めて福音を信じなさい」』これが、宣教のイエス様の、第一声であります。
 私たちに与えられた、私たちに語られたイエス様最初の言葉は、『悔い改めて福音を信じなさい」』であります。

▼今、聖書研究祈祷会では、ルカ福音書を読んでいます。
 先週は、5章27節以下でありました。マルコ福音書ですと、2章13節以下に相当します。
 イエス様が、取税人レビに、『私に従っいなさい』と声を掛けられ、その後、何故か、イエス様がレビについて行って、レビの家で御馳走になります。
 御馳走になるということは、この人を本当に受け入れたということであります。私たちは、嫌いな人間に御馳走することは簡単にできます。しかし、逆は出来ません。本当に人を受け入れるということは、その人に何か施しをしてあげることではありません。むしろ、逆であります。その人から、提供されたものを受け入れ拒まないことが、その人を受け入れることであります。
 しかし、この話は、今日の主題からすると、肝心な点ではありません。

▼肝心なことは、この出来事の最後、取税人や罪人と同じ食卓に座ったことを批判されたイエス様が答えます。
 ルカ福音書5章31~32節。
『31:イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
 罪人を招くためである。」』
 はっきりとした違いがあります。
 マルコには、ルカの『罪人を招いて悔い改めさせるためである。』がありません。
 しかし、そのマルコで、今日の箇所、『悔い改めて福音を信じなさい」』と明確に語られているのであります。

▼貧しい人、弱っている人、悩んでいる人を受け入れなさい、罪人をも受け入れなさい、その通りであります。
 しかし、それは、貧しい人、弱っている人、悩んでいる人、まして罪人を、今のままに、無条件に受け入れなさいということとは、違います。
 『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』であり、はっきりとした違いがあります。
 マルコには、ルカの『罪人を招いて悔い改めさせるためである。』がありません。
しかし、そのマルコで、今日の箇所、『悔い改めて福音を信じなさい」』と明確に語られているのであります。

▼受け入れるとは、その人が、イエス様への道を歩み出すことを、拒まないことであり、一緒に、イエス様への道を歩むことであります。
罪の中に留まって、罪を犯し続けることを容認することではありません。

▼宣教の始まりは、弟子の召命へと繋がっていきます。

『17:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。』
『人間をとる漁師』この表現自体をどのように受けとめるのかが肝心なことであります。
『人間をとる』という表現は、馴染んでしまっている者には当たり前でも、初めて聞く者に
は響きの良い言葉ではないと思います。
 キャッチセールとかという響きであります。
 勿論、そんな意味である筈がありません。
 人間をとるとは、人を沢山集めて何かに役立てるとかという意味ではありません。
 ではどういう意味なのか。
猟師は網を用いて、魚を掬い取ります。ここでは、人間の救い取りなのであります。ここで救いとは、勿論、助けるという意味の救いであります。
 日本語でもギリシャ語でも、助ける救いも魚を掬い捕る掬いも同じ音であります。

▼今日の箇所に出て来る四人は皆漁師でありました。だから、魚を捕る漁師ではなく、『人間をとる漁師にしよう』という表現になったのであって、それ以下でもそれ以上でもありません。

▼さて、『人間をとる漁師』という表現に匹敵する程、多くの人の関心・共感を集め、また同じくらい反発を買うのは、『網を捨てて』という表現であります。
 『網を捨てて』、つまり、それまでの生業を捨てて、生活を捨てて、ということになりましょうか。
 これは、大変な魅力があります。誘惑の言葉であります。
 多くの者が、現状に不満を持っています。『自分がなすべきことは他にあるのではないか、
 自分はこれだけの人間ではない、自分の居るべき場所は他にあるのではないか』、そういうことを、多くの人が思っています。
 特に若い人には、そういう思いが強いと思います。
それは良く分かります。還暦を超えた私だって、そのような思いに捕らわれるからであります。
現状に不満がある、どのように変化するかは分からなくても兎に角変わりたい変えたい、そういう思いはあります。

▼そのような次第でありますからこそ、ここは、ちょっと厳密に考えなければなりません。
 20節も一緒に読みましょう。
『この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った』。
『捨てて』と『残して』と、何か違いがあるのでしょうか。あるのかも知れません。『捨てて』とは、もう一度帰る可能性を否定している。『残して』は、もう一度帰る可能性を前提にしてる、そんな解釈もありますでしょう。しかし、ギリシャ語から結論は得られません。聖書全体からならどうでしょうか。あり得るかも知れませんが、まあ、ここでそのことを強調することは不可能であります。

▼漁師という職業そのものはどうでしょうか。漁師とは、当時の最下層の職業の一つであると言われています。そのことに大きな意味がありますでしょうか。
決してエリートではない者から弟子が現れたことには意義があります。それは間違いありません。しかし、イエス様がそれを意図して選んだのかどうかは、分かりません。少なくとも断言は出来ません。

▼ここで、断定的に言いたいことがあります。
 しかも、結論部分であります。
 つまり、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』、もっと省けば『わたしについて来なさい』これだけで十分であります。
 何故、何を目的として従ったのか、招きを受けた弟子たちには、その時に、どんな思いがあったのか、何も関係ないのであります。ただ、『わたしについて来なさい』というイエス様の言葉が与えられた、それが全てであります。それで、十分であります。何故とか、何を思ったかとは無用であります。
その時に、弟子たちが何を思ったか、それは、良い動機に基づくものであれ、逆であれ、本質的なことではありません。
神さまの言葉が示された。神さまの、み心が示された。それ以上のことはないのであります。

▼端折って申します。
 ここに描かれていることは、神の国の始まりであります。
 地上の常識では測り得ない不思議が現実になったのであります。
 逆に言えば、それ以外のことをくどくどと考える必要はありません。

▼イザヤの預言者が、今成就したのであります。
 つまり、14節。
『「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」』
神の国が始まるのであります。
これが決定的な出来事であります。
それ以外のことは些末な表現上のことでしかありません。

▼所謂弟子の召命も、この文脈の中で考えなければなりません。それ以外のことで患わされて
はならないのであります。
今、神の国は近づいたのであります。『悔い改めよ』なのであります。
その中で、『人間をとる漁師にしよう』という表現になったのであります。
魚を捕ることよりも他になすべきことが存在するのであります。
もっと切迫し事が存在するのであります。

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