御心ならば

2014年2月2日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と行った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

マルコによる福音書1章40節〜45節

▼先ず、この出来事の結論と申しますか、むしろ結果をご覧下さい。
 45節、特に後半であります。
 『しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、
  言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。』
 『公然と町に入ることができず』と記されています。つまり、イエス様の宣教活動の妨げとなったのであります。
 イエス様のなさった奇跡を、『大いに…人々に告げ、言い広め始め』たがために、イエス様の宣教活動の妨げとなったのであります。
 何とも皮肉なことであります。

▼これは私たちにとって、恐ろしいことであります。もし私たちが、私たちの教会が、『大いに…人々に告げ、言い広め始め』たがために、イエス様の宣教活動の妨げとなったならば。
 私たちはそんなことをしていないのか、我が身を振り返って見る必要がありますでしょう。宣教も、ひとりよがりであってはなりません。お役に立たなくてはなりません。
 現実に、とても伝道熱心な教派教会の宣教活動が、日本全体の宣教という観点から見れば、全くの妨げとなっている事例は少なくありません。
 熱心なことは結構なようですが、そのために、明治以来150年こつこつと積み上げられてきた社会的な信用がだいなしにされてしまうという現実があります。
 詳しくお話ししますと、特定の教派教会の批判になりますので、割愛しますが、現実の問題であります。
 日本基督教団初め、正統的教会、それこそ、150年苦労し続けた教会が、伝道停滞に陥っている要因の一つは、ここに存在致します。

▼教派教会或いは個人の熱心な伝道が、大きな観点で見れば却って妨げになってしまうのは、教派教会或いは個人が、これまでの伝道の歴史を踏まえず、先人の足跡を踏まず、手前勝手で、ルール破りだからであります。
 この『重い皮膚病に罹った男』は、この短い出来事の中で、3つの重大な違反行為を犯しています。
 その一、そもそも、『重い皮膚病に罹った』者は、人混みに立ち入ってはなりません。律法違反であります。
 私たちはそれを何でもないことのように考えますが、この時代、ユダヤ教の信仰に当てはめてみれば、この男の信仰そのものが問われる違反行為なのであります。
 しかし、これは同情に値するし、私たちの感覚からすれば、律法の規定そのものがおかしいということにもなります。

▼三つ目の違反行為を先に見ます。44節で、イエス様は、このように仰います。
 『行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、
  人々に証明しなさい。』
 イエス様は、律法に従った手続きを踏むように教えておられます。この手続きを踏まなければ、正式には、癒されたことになりません。是非とも必要なことなのであります。それも『重い皮膚病に罹った』者自身のためにであります。イエス様は、彼のためにこそ、そのように配慮されたのであります。
 しかし、彼は、イエス様の戒めを、そして同時に思いやりを、無視したのであります。

▼イエス様が律法に従った処置を薦められたこと自体が重要であります。最初の律法違反はどうでも良いことだとは言えなくなるからであります。
 しかし、この男は、ここでも律法に従いません。2度目の律法違反であります。それだけではない、イエス様の命令にも背いています。
 まあ、この点でも、奇蹟に与ったことで仰天してそれどころではなかった、後で気持ちが静まってから祭司に見て貰ったのかも知れないと、無理矢理こじつけて解釈することは出来ます。

▼それでは、二つ目の違反行為はどうなりますでしょうか。
 43~44節。
 『イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
  44:言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。
  ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』
『「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」』と『厳しく注意して、44:言われた。』のでした。しかし、男は、45節。
 『しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた』
またも命令に違反します。

▼この箇所についても、彼は『良い知らせ』『福音』を宣べ伝えたのだと肯定的に見る人もありますでしょうが、しかし、どうでしょうか。結果は、45節。
 『しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、
  言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた』
イエス様の宣教活動の妨げになったのであります。
 そもそも、一つ一つの行為は弁解出来ても、この短い間に、三つも違反行為があるということを、どのように評価したら良いのでしょうか。

▼彼の熱心さが彼を救った。彼の信仰が彼を救った。…このような読み方は妥当を欠くのではないでしょうか。
 ついでに申しますと、
 『「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」』
 という男の言葉を過大に評価して、ここに謙遜・信仰を見ようとするのは間違いだと考えます。
 自分の現実を自分自身の罪の結果だとして、その境涯を甘んじて受け入れている謙遜な人にしては、他の行動があまりにも不釣り合いであります。
 彼の行動からは、むしろ身勝手な人、真の感謝を知らない人という印象を受けます。

▼このこととの関連で触れておきたいことがあります。
 41節。
 『イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、
 「よろしい。清くなれ」と言われると、』
 口語訳では、
 『イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。』
新共同訳でも口語訳でも大差ありません。しかし、岩隈直訳では、『彼は怒って手を伸ばし』となっています。
 岩波版では
 『するとイエスは、はらわたがちぎれる想いに駆られ、手を伸ばして彼に触り』
 このようになっています。

▼実は、この方が、直訳なのであります。この直訳では意味が通らないと言う判断から、口語訳や新共同訳になっているのであります。
 元々は「馬が鼻息を鳴らす」そこから、「激しく興奮し」それだから「激しく怒り」と訳すのが普通、解釈が加わって、「激しく興奮し」は「激しく感動し」「深く同情し」となっているのであります。
 同様の不可解さが、43節についても言えます。
 『イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、』新共同訳聖書では『厳しく注意して』しかし、岩隈直訳では、
 『彼はそのひとを怒鳴りつけ、すぐにその人を追っ払って、』となっています。岩波版では、
 『彼に対して激しく息巻き、直ぐに彼を去らせた。』
 この方が、直訳なのであります。

▼学者によって、これだけ翻訳、その上での解釈が違うと戸惑ってしまいます。「激しく怒り」或いは『怒鳴りつけ』た対象は、この憐れな男ではなくて、その病を引き起こした悪霊に対してなのだという解釈もありますがどうでしょうか、少し無理のように思います。
少なくともこのことを確認することが出来ます。この『重い皮膚病に罹った男』には、とても信仰的に素晴らしいものがあって、その故に癒されたのだ、癒される値打ちがあったのだという解釈は成り立ちません。むしろ逆なのであります。

▼病気のことだけではなく、何とも惨めな人間、惨めな存在なのであります。しかし、この男が、それだからこそ、救われることを強く願っていたことも事実なのであります。
 そして、イエス様は、この男を省みられ、癒されたのであります。この男が信仰的に優れた資質を持っていたから救われたのではなくて、この男が惨めだったから救われたのであります。
 男を美化する必要はありません。その逆でもありません。何とも惨めな人間、惨めな存在が、イエス様によって救われたのであります。それだけのことであります。

▼さて、最初に、この出来事の結果を見るということから、読み始めましたが、もう一つ結果があります。
 45節をもう一度読みます。
 『しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、
  言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。
  それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。』
 結果の結果は、『それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。』なのであります。

▼難しいことを言いますと、ブレーデという神学者の「メシア秘密」に触れなければならなくなりますが、まあ、無用と思います。
 イエス様の戒めに違反して、宣教を妨げた、しかし、本当には妨げられることはないのであります。
 
▼私たちは、聖書の奇蹟物語を読む時に、一種の先入観を持っています。それは、イエス様を信じる者が、その信仰故に救われるという考え方であります。そこまでは間違いではないと思いますが、彼等にはとても信仰的な美徳があると考えるのであります。
 社会的には最下層に追いやられた人、しかし、彼等には秘められた信仰的美徳があると考えるのであります。しかし、本当に聖書はそのように記しているのでありましょうか。そうではありません。
 今日の箇所のように、彼等の多くは、罪人と呼ばれて仕方のない存在なのであり、汚れた人であるかも知れないのであります。勿論、罪人ということ、汚れた人ということに殊更の強調が存在するのでもありません。

▼そう言うことではなくて、信仰的美徳があるか、その逆かではなくて、今日の箇所に限定して読むならば、飢え・渇き、求めがあったのであります。それだけであります。なりふり構わない遮二無二さがあったのであります。それだけであります。

▼今日の箇所の続き、2章1~12節には、中風の人を癒す出来事が記されています。
 傍らでこの出来事を目撃した律法学者は、『「子よ、あなたの罪はゆるされる』と言われたイエス様の言葉を聞いて、このように呟きます。
 『「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。
  神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」』
 イエス様と律法学者とのやり取りによって、イエス様のなさった業の、いわば性質が、明瞭になります。それは、『罪の赦し』の業なのであります。奇蹟、神癒に違いないのでありますけれども、それよりもなによりも、『罪の赦し』なのであります。
 つまり、私たちが本当に問題にしなければならないのは、どのような信仰的美徳を持っていれば、奇蹟に与ることが出来るかではありません。そうではなくて、どうすれば罪を赦していただけるか、救いに与ることが出来るかなのであります。
 この時には、自分にはどのような信仰的美徳があるかなどと、問うことさえ愚かなのであります。

▼2章9節以下もご覧下さい。
 『中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
  10:人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
  そして、中風の人に言われた。
  11:「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」』
ここでこそ、この物語の本来的な意味が何処にあるのかが分かります。この出来事は、罪の赦しの問題を扱っているのであります。罪の赦しを得るために、つまり、救いを得るために何をしたら良いのか、何をしなければならないのか、これが主題なのであります。

▼そして、問いに対する答えは、必死になって救いを求めること、なのであります。結局、最初に申し上げたこと、つまり、…彼はイエス様に救いの望を託し、熱心に願い求めた。そして救われた。彼の熱心さが彼を救った。… 結局ここに戻るのであります。結局一番単純な読み方で正しいと考えます。必死に求める者を、イエス様はむげに退けることはなさらないのであります。
 しかし、念のために申しますと、熱心さというものを信仰的美徳と考えるならば、話はややこしくなります。信仰的美徳のようなことではなくて、切羽詰まった者の切実さなのであります。

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