からし種一粒の信仰が

2014年2月9日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂に豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。そのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の取りが巣を作れるほど大きな枝を張る。」

マルコによる福音書4章21節〜31節

▼30~32節からご覧下さい。30節。
 『更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。
  どのようなたとえで示そうか。』
 『何にたとえようか』『どのようなたとえで示そうか』、神の国を比喩で表現すれば、これが前提であります。比喩されている『からし種』の何かしらが、神の国と重なるのであります。
  31~32節。
 『それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
  32:蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、
  葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る』
 ここは、文字通りに受け止めて良いと考えます。今は小さいけれども、今の姿形からは想像出来ない程に大きくなる、それが芥子種であり、神の国であると述べられています。

▼芥子種についてとかくの注釈する必要は全くないと思います。『どんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る』と記されていることが実際かどうかも関係ありませんし、まして、現在の植物では何がこれに相当するか、無用の詮索であります。
 とにかくに、神の国は、現在は芥子種程に小さく、目には見えないようだが、時が来れば、信じられない程に生長し大きくなる、このように述べられているのであります。
 このことは4章20節に記されていることとも合致致します。
 神の国は、今は見えない程に小さいかも知れないが、しかし、大きくなる、これだけが、比喩の内容であります。

▼ 次に、26~28節。
 『また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。
  人が土に種を蒔いて、
  27:夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、
  どうしてそうなるのか、その人は知らない。
  28:土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、
  そしてその穂には豊かな実ができる。』
 この譬えでは、農夫が全く関与しないままに種が成長して行くという所に、先ず強調点があります。
 30節以下と共通するのは、僅かなものが大きなものに変えられるということであります。この譬えにも、その要素が含まれます。
 特に、今は目に見えないけれども、確実に生長していき、見えるようになる、このことに共通点があります。
 目に見えないとは、言い換えれば、理解出来ないと言うことであります。

▼【見えない、理解出来ない、しかし、】これが比喩の共通点であり、強調点であります。神の国も、教会も、私たちの目にはなかなか【見えない、理解出来ない、しかし】、そこに神さまの御心があり、私たちの知らない所で、私たちの目には見えないようだけれども、確実に『芽を出して成長する』のであります。
 何も見えない、何も分からない、何も効果が見えない、どうしたら良いのか分からない。そのように考えると、空しいように思いますし、無力感に陥ります。
 しかし、私たちがなすべきは、ここにはっきりと記されているように、『種を蒔く』ことであります。

▼そして、29節。
 『実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』
『刈り取る』ことであります。何も見えない、何も分からない、何も効果が見えない、どうしたら良いのか分からない。けれども、黙々と蒔き続け、刈り続けるのであります。

▼間のことはどうでも良いのか、雑草を取らなくて良いのかとか、肥料はやらなくては良いのかとか、これは無用な心配であり、無用な解釈であります。
  少なくとも、この比喩の意味する所とは関係がありません。
 一番肝心なことは神さまが自らして下さる、与えて下さると信じて、なすべきことをなす。これで良いのであります。
 教会の業は本当にそうでありましょう。一番肝心なことは神さまが自らして下さる、与えて下さると信じないでは何事もなし得ないのであります。神さまに信頼する者だけが、自分の役割を担うことが出来るのであります。

▼24~25節については、飛ばして読んだ方が分かり易いかも知れませんが、最低限のことを申します。
 『また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。
  あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
  25:持っている人は更に与えられ、
  持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」』
 24節の後半は、マタイ7章2節では、人を裁いてはならないと言う全く別の文脈で語られています。
 7章の1~3節を読みます。
 『1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、
  自分の量る秤で量り与えられる。
 3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
  なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。』
 この方が正直理解しやすい気がします。
 25節も、マタイによる福音書25章29節の全然別な文脈の方が理解しやすいものになっています。
 『29:だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、
  持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』
 文言はあまり変わりませんが、これは所謂タラントの譬えの結論部分であります。
 マタイによる福音書では、バラバラに、全然別な文脈で出て来るのでありますが、この方が、オリジナルかも知れません。

▼いろいろと申しましたが、要するに、マルコ福音書では、26節以下、30節以下の譬えと、『増える、増えない』と言う共通点があると言うことで、ここに編集されたものでありましょう。
 一見、後の二つの比喩とは無関係に見える比喩が、ここに編集されていると言うことが、かえって、他の比喩を理解する手がかりになります。これらに共通していることは、『増える、増えない』と言う、この一点にしか存在しないからであります。
 そして、『増える』或いは『増えない』ものが何であるのか、今まで、神の国と説明して来ました。神の国、神の支配する領域であります。しかし、ここでは、より具体的には、一人ひとりの心に蒔かれた種、つまり、信仰の芽のことでありましょう。

▼一人ひとりの心の中の信仰が増える増えないというのは、妙な表現であります。信仰は量ではないと言えば、正にそうであります。芥子種一粒の信仰のあるなしが問題であります。しかし、そこが比喩であります。
 ここでは、信仰的な姿勢を持っていて、聞くことをするものは、信仰が増し加えられ、そうでない者、懐疑的な者は、持っている信仰までも取り上げられると、このように説明されているのであります。
 
▼ 21~22節について。
『また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、
  升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
  22:隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。』
 ここでは、ともし火(あかり)が何を比喩しているのかが問題であります。ともし火(あかり)、マタイによる福音書の5章15節も、6章22節も同じ字でありまして、ともし火、あかり、灯火、ランプなどと訳されています。蛍光灯などの明るさを表すルックスと言う語の語源であります。

▼この灯りを升の下に置くとは、どういうことでありましょうか。升の上になら分かります。升を台にして置くことはあったかも知れません。実は、升はランプの火を消すために用いられました。部屋が狭く窓が小さいので、芯を吹き消すだけだと、煙と匂いが充満するからであります。
升が用いられるのは、灯りを消すためですが、それは勿論、ランプに火を灯すことに本来の目的があるので、升で消すことに目的性があるのではありません。

▼22節の『隠されている』も同じような比喩で用いられています。つまり、戦争などの際に、町そのものの存在を隠すため、ランプの火を隠さなければならない場合があります。灯火管制であります。しかし、隠すことに本来の目的性はありません。
 隠されているものは、何時か明らかにされるために一時的に隠されているのに過ぎないと言う意味で、以上の二つの事柄が比喩的に語られています。
 それでは、隠されたともし火とは、イエス様が語られた譬えそのもののことか、それとも、神の国のことか。これが問題であります。

▼ 手がかりは、この場合にも、後の比喩との共通点を見ることであります。
 この場合は、『増える、増えない』と言うよりも、『見える、見えない』と言った方がよろしいでありましょう。
 神の国が見えないという現実と、しかし、神の国は確実に近づいている、否、既に来ているという現実とが、平行して述べられているのであります。
 ここで初めて、神の国の譬え全体の主題が見えます。つまり、『増える、増えない』『見える、見えない』といったこともまた、比喩でしか無いのであります。神の国は、見えないようだが見えており、存在しないようだが存在している、この逆説こそが主題なのであります。

▼こういう事柄を、約束の確かさによる現実と、上手いことを言った人がいます。約束・希望は、未だ実現していません。しかし、神の約束は、そして信仰による希望は、その確かさの故に、既にして現実なのであります。それは、芥子種の一粒と同様であります。目には見えない小さな種の中に全てが詰まっているのであります。後の豊かな実りが確実なものとして約束されているのであります。そして、約束・希望に生きる者にしか、これは実現しないのであります。

▼教会についても同様のことが言えます。教会は教会でしかありません。所詮は罪に染まった人間の集まりかも知れません。しかし、神の贖いの約束の確かさ故に、教会は既にして、神の国の実現なのであります。教会は既に神の国の姿を持っているのではありません。しかし、神の国の種であり、全てのものが既にここに詰まっているのであります。

▼ 最後に、残された23節と、33~34節。
 『聞く耳のある者は聞きなさい』
 『聞く事柄に注意しなさい。』(何を聞いているかに注意しなさい。)直訳に近い訳になっています。『何を聞いているか』ところが、ルカによる福音書8章18節の並行記事では、(いかにという関係代名詞が用いられています。このことだけでも、意味合いが違ってまいります。ルカによる福音書は、マルコによる福音書に若干手を加えただけでほぼ並行しています。但し、この後は神の国の譬えではなく、全く別な展開となります。
 33・34節。
 『イエスは、人々の聞く力に応じて、
  このように多くのたとえで御言葉を語られた。
  34:たとえを用いずに語ることはなかったが、
  御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。』
 『自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを説明された』のは何故か、ここでも、弟子たちにだけ、全てが明からされていて、つまり、秘密が授けられていて、他の者には閉ざされている。何故か、それはこの弟子たちの群れ、つまり教会が、先程述べた理由で、神の国の実現したものだからであります。教会に於いて、既に神の国が実現しているからであります。
 教会は既に神の国の姿を持っているのではありません。しかし、神の国の種であり、全てのものが既にここに詰まっているのであります。

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