種蒔く人の譬え

2014年2月16日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

マルコによる福音書4章1節〜9節

▼今日、イエス様の譬えについては、研究が進んでおりまして、特に今日の箇所に関しましては、以下のことが、ほぼ定説化しています。
 つまり、この話は、その口伝伝承の初期、つまり未だ文章の形にはならずに、人の口から耳へと伝えられていた時には、種を蒔く人、蒔き続ける人が主人公でありました。
 いかに困難な仕事に見えようとも、怠りなく続けるならば、神が必ずそれに報いて下さる。その結果、当人も予想出来なかったような、豊かな収穫を見る。神の国とその宣教についても同様であって、怠りなく宣教を続けるならば、必ず、私たちが想像も出来なかったような、素晴らしい実りがある。以上のような話でありました。

▼それが、人から人へと伝えられていく途中で、主役が、種を蒔く人から、蒔かれる地面の方、つまり、宣教を聞き、受け止める人間の方に移ってしまいました。
 マルコによる福音書4章13節以下に記される解釈は、これを前提としています。勿論、この部分全体が、後代の教会の挿入でありまして、イエス様に直接起源を持つ記事ではないということになります。
むしろ、ルカによる福音書ですと13章18~19節、マルコによる福音書の方がもっと詳しくて、4章26~32節に収録される「種の譬え」、その前後の譬え話をも併せて、「天国の譬え」が、オリジナルに近い形をで残しているということになります。

▼以上おおざっぱに申し上げたような研究成果というものを背景にして、更には、このようなことが言われます。
イエスの譬え話を研究すれば、それがイエスのオリジナルのものではなく、教会の宣教の事情がそこに反映され、強調点が移され、時には、全く別の主題を持ったものに変えられてしまっていることが分かる。だから、聖書の譬え話を、鵜呑みに理解することは危険なことであって、そこから、実際のイエスの言葉を、拾い上げる作業が不可欠である。

▼うーんと唸ってしまいます。言っていることが理解出来ないではありません。特に、今日の箇所の譬え話をオリジナルのものまで遡ると、どうなるかという点については、説得力を感じます。
しかしながら、この記事は、マルコ、マタイ、ルカの3つの福音書が、大きな異同もなく、共通に記している物語なのであります。そしてこの3つの福音書が記された時代と、オリジナルの物語を口伝伝承した教会との間に、どれ程の隔たりがあると言うのでしょうか。
 年数にすれば、30~40年程度、或はそれ以下であります。年数以上に神学的、教会論的な違いがあると言うのでしょうか。もしそれが厳として存在するとして、今日、直截には聖書に収録されていない、他にも、直截にはどんな形でも残っていない、ただ、新約聖書の中に資料として埋もれてしまっているものを、3つの福音書の神学、教会論を退けてまで、読み取らなければならない、そうしなければ、正しくイエス様の御言葉を聞くことが出来ないというのでしょうか。

▼今日の箇所をどのように読み、イエス様が私たちに語っておられる所を聞くという肝心なことから、脱線して、その前の神学的なというか聖書学的な話に終始してしまっています。ご容赦下さい。
 今日の教会にとっては、避けることの出来ない議論であることも確かでありますし、「神の言葉として聖書に聞く」という私たちの教会の根本姿勢に対する挑戦でもありますから。
私たちは、学問的な研究成果というものを一切無視する、非科学的な信仰論に立つものではありません。しかし、聖書が神の言葉であり、しかも、時を超えて、現代の私たちの教会に語りかけて下さるものであるというのは、我々の原則的な立場であります。これを科学的に証明しろと言われても、ちょっと無理ですが、しかし、絶対に譲ることの出来ないものであります。

▼仮に、新約聖書学者による研究成果、種蒔きの譬えに関する研究成果を100%容認したところで、3つの福音書を生み出した教会によって伝承され、今日の形に編集された結果としての、現在の記事を、私たちは、決して捨てることは出来ません。
むしろ、初代の教会が現実に直面した時に、イエス様の言葉として伝承して来たものを、反芻し、今、自分たちの教会に、自分たちの現実に答えて下さっている、神の言葉として、これらの記事が編集されたとすれば、そのこと自体が、大変に意義深いことではないでしょうか。私たちが受け取るべき神の言葉とは、埋もれている源資料でしょうか。そうではなくて、教会を通して、教会の宣教を通して、今、私たちの教会に、私たちの現実に語って下さるもの、現在の形の聖書ではないでしょうか。

▼さて、以上が前置きで、これから、肝腎の中身に入るということになります。今日のテキストは、あくまでも、マルコによる福音書4章1~9節であります。10節以下は今日のテキストではありませんから、解き明かしの部分にも絶対的に拘る必要は無いと考えます。
 しかし、その際にも、11節12節が、重要なものとして浮かび上がってまいります。これは、各福音書に共通で、それこそオリジナルの譬えに結び付いて、初めから存在していたものと考えられています。

▼ 3つの福音書とも、イザヤの預言に触れて、この説明を行っています。これが、何とも、難解なものであります。誰が読んでも、哲学的な深みを感じる、そういう印象ですが、別な言い方をすれば、禅問答染みています。本当に理解出来るかと問い詰められれば、答えに窮します。皆さんそうではないでしょうか。
譬えというのは、簡単に定義すれば、或る事柄の内容を、別の事柄に擬して、説明し、分かり易くするという目的を持っている話となります。
どうも、この定義には当て嵌まりません。むしろ、隠喩とか暗喩とかの定義を持って来た方が、未だ、近いように思います。つまり、直接には表現することをためらわれるような事象を、別の言葉、表現をもって表すこと。ヨハネ黙示録などは、この隠喩に満ちています。しかし、これも、ちょっと違います。

▼イザヤの引用句は、丁寧な説明が必要かと思いますが、そうすればする程、今日の箇所、今日の主題からは離れてしまいそうです。イザヤそのものを学ぶ中で取り上げたいと思いますので、今日は触れません。
 やはり決定的に重要なのは、『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される』というこの表現だと思います。『あなたがた』と呼ばれている者を、教会と取ることはごく自然だと思います。
 『神の国の秘密』は、教会に対して開かれているので、他の者には、隠されている、こういう表現であります。
『秘密』とは、新共同訳聖書に用いられているように、「奥義」であります。勿論、教会の聖礼典を指す言葉と同じであります。

▼もう、この箇所の解釈は明らかであります。神の言葉は、イエス様・キリストによって教会にもたらされ、教会の働きによって、教会の働きによってだけ、宣べ伝えられ、そして、実を結ぶのであります。
『聞く耳のある者』つまり、信仰をもって聖書に向かい合う者にだけ、この言葉は開かれているのであって、それ以外の意図・それ以外の関心で向かい合う者には、閉ざされているのであります。
神によって、信仰を与えられ、教会に数えられた者に、その奥義・秘密は、明らかにされるので、教会と離れた所では、つまり、礼拝、聖礼典の場ではない所では、それは、閉ざされているのです。

▼さて、極端に長い前置きを終えて、ここから1節から順に読みます。
 『湖のほとりで』
 当然、ガリラヤ湖のことであります。4章1節までで、既に『ガリラヤ』が4回、『湖=海』が5回、『湖のほとり』が3回、用いられています。イエス様の活動拠点がガリラヤにあったから当然というだけではなく、ガリラヤという言葉が、神聖な響きを持っています。
 この箇所がそうであるように、湖のほとりとは、思索・祈りの場であり、神の言葉が語られるのにふさわしい場であった。そういう風に描かれているのであります。

▼同じく1節。
 『おびだだしい群衆』
 群衆は、オクロスであります。最近はポピュリズムという言葉が使われるようですが、昔は、オクロクラシー=衆愚政治と言いました。その衆愚、オクロスであります。ここ数週続けて読んでるマルコ福音書に共通していることであります。ここでも群衆は、宣教を受け入れず、阻害する者として描かれています。
その一方で、これも既に見ましたように、イエス様は、にも拘わらずこの群衆の救いのために働き、そして語られるのであります。
 『群衆は皆、湖畔にいた』
 直訳すれば、「群衆は皆、海に向かって陸の上にいた」。この描写の通りであります。階段教室のような構造になりますから、声が通ると言われています。野外の舞台は、このような構造を持っているのが普通であります。

▼湖に浮かべた船の上で語られた言葉が、本当に良く聞こえるのでしょうか。実験してみなくては分かりませんが、強調点はそういうことにはないと考えます。以前にも、申し上げましたように、イエス様の群れ、つまり教会と、群衆つまりこの世との位置関係・距離が象徴されているのではないでしょうか。
 教会は、この世の中に閉じ込められてしまってはなりません。少し距離を置くのであります。しかし、己の中に閉じこもってしまうのではなくて、この世に向かって語るのであります。
 現代の教会は、この世の中の価値観にがんじがらめに捕らわれてしまっています。そのくせ、教会はこの世に対して語るものを失い、内部のこと、内部の争いで終始してしまっています。残念ながら、今日の箇所とは、全く逆の様相を呈しています。

▼2節3節は、10~12節との関連で既にお話ししました。

▼4節。
『蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。』
 『道端』『道路のほとりに』、『ほとりに』は、「湖のほとりに」という時と同じであります。道とは畦道のことで、種蒔きを終えてから耕し、畦を作るので、道に蒔かれた種が出る可能性があるというような解説がなされますが、そのような農耕の方法は現実的ではありません。
『ほとりに』は、道路の側の意味かも知れません。「道路に向かって」と取れば、道路の上に種がこぼれる可能性はあります。何れにしても、譬えの作者が意図していないことまで解釈するのは無意味であります。

▼5~6節。
『ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。』
 『石だらけで土の少ない所』
 これで一字であります。石地、または岩地。石の混じる土壌と言う意味でありましょうか。それとも岩の上の浅い土壌か、不明であります。ここも、詮索は無意味でありましょう。
 『土が深くないで』
 直訳すれば、土を多く持っていなかったので。後の根を持たないのでと、全く同じ表現であります。
 『根』は、根の他に、根元から出る芽生え、ひこばえの意味を持ちます。

▼7節。
 『ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、
  実を結ばなかった』
 実は、カルポス。日本語と同様に、実、果実の他に、産物、結果を意味します。
新約では、殆どの場合、信仰、信仰の実としての愛の意味で使われています。
 その実が『結ばなかった』、つまり、信仰の結実が無かったのであります。
 
▼8節。
 『また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった』
 種と収穫物を比較すれば、むしろ控えめな数字と言えます。

▼9節。
『そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた』
 耳を持つ者は。先の土、根と全く同じ表現が取られています。

▼もう、この箇所の解釈は明らかであります。神の言葉は、イエス・キリストによって教会にもたらされ、教会の働きによって、教会の働きによってだけ、宣べ伝えられ、そして、実を結ぶのであります。
「聞く耳のある者」、つまり、信仰をもって聖書に向かい合う者にだけ、この言葉は開かれているのであって、それ以外の意図・それ以外の関心で向かい合う者には、閉ざされているのであります。
神によって、信仰を与えられ、教会に数えられた者に、その奥義・秘密は、明らかにされるので、教会と離れた所では、つまり、礼拝、聖礼典の場ではない所では、それは、閉ざされているのです。

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