主イエスと共に乗る舟

2014年3月2日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

マルコによる福音書4章35節〜41節

▼繰り返し読む箇所であります。どうしても前回前々回と重なりますが、1節づつ順に読んでまいります。
 35節。
 『その日の夕方になって』
 『その日』とは、4章1節以下の種蒔きの譬えが語られた日ということになります。種蒔きの譬えつまり、神の国の譬えが語られた後で、この出来事が起こりました。
 この出来事は、神の国の教えと、無関係ではありません。
 しかも、33~34節を踏まえれば、この出来事は、今までは隠されていた神の国の神秘が、弟子たちの前に明らかにされるような出来事なのではないかと考えるのが自然であります。

▼33~34節を読みます。
 『イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34:たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。』
 『御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された』
 このことと、今日の出来事とが重なるのであります。今日の出来事は、神の国の神秘が明らかにされるような出来事なのであります。

▼同じ35節。
 『イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた』
 『向こう岸』とは、本来、向こう側の意味であります。その大部分が、ヨルダン川またガリラヤ湖、谷の向こう岸という意味で用いられているので、向こう岸と訳されています。
 特にマルコ福音書では、特別の意味合いを持って使われる言葉であります。大胆に言い切れば、『向こう岸』とは、神の国であります。
 少なくとも、今そのことが暗示されているのであります。
 向こう岸は、群衆全員が従い行くところではありません。神の国の神秘をすべてを説明された弟子たちが、イエス様と共に行くところであります。

▼『向こう岸に渡ろう』の『渡ろう』は、極めて用例が少なく、この訳が当てられるは、ルカによる福音書の並行記事の他には、使徒行伝に1カ所あるのみであります。
本来は、通り過ぎる、到達する、という意味なのでありますが、ここでも、特別の意味が暗示されています。
 矢張り、神の国が強く意識されているのであります。

▼日本語で、此岸、彼岸と言います。此岸はこの世、彼岸はあの世であります。これと一緒にすることは出来ないかも知れません。しかし、共通性があります。
 今、イエス様は、此岸から彼岸へ渡る舟旅をなさろうとしているのであります。此岸、彼岸、更にはこれを隔てる三途の川の話をしたら、妙なことになるかも知れません。
 しかし、単なる船旅ではなく、神の国へと向かう旅なのであります。

▼36節。
 『そこで、弟子たちは群衆を後に残し』
 いろんな機会に申しますように、『群衆』は、マルコ福音書では、特別の意味合いを持っています。単に大勢の人々という意味ではなく、むしろ、衆愚であります。衆愚政治の衆愚であります。
 奇跡的な出来事に魅せられて、イエス様を大預言者として礼賛します、しかし、十字架の場面では、『十字架につけよ』と、叫ぶのが、オクロスであります。マルコ福音書は、『群衆』=オクロスを、そういった存在として描いています。

▼『後に残し』は、単語であります。去らせる、暇をやる、放棄する、軽視する、顧みない、という用例が目立ちます。
 以上のことを重ねて読めば、「群衆は棄てて置いて、特別の弟子を船に乗り込ませて、どうしても行くつかねばならぬ目的地に向かった。」という解釈が生まれます。
 船即ち教会と取れば、解釈はまた格別の意味を持って来ます。
群衆のために開かれた教会というような思想は、聖書解釈としては一面的に過ぎます。その逆の面が確かに存在するのであります。
 教会は全ての人に開かれたところであります。しかし、同時に、神の国に向かう狭き門であり、イエス様に招かれなければ、イエス様の声を聞かなくては入ることの出来ないところなのであります。
 この船には、沢山の荷物を積み込むことは出来ません。積み込んでも何の役にも立ちません。それどころか、沢山の人間を乗り込ませることも、出来ないのであります。乗ることが出来るのは、十字架を担う覚悟を持った人間であります。

▼それだけの覚悟がなくて、舟に乗ってしまい、後悔する人があります。
 教会は出入り自由、田舎のバスみたいに何時でも、何処ででも乗り降り出来ます。だから、この舟が何処に向かうのか、何のために、漕ぎ出したのかを忘れてしまう人があります。
 それでは、舟に乗っていても、本当には、神の国へと向かってはいないのであります。
 教会という舟は、目的地を持たず、乗ることそのものが楽しみなお座敷列車ではありません。

▼『漕ぎ出し』も単語であります。受け取る、迎え入れる、連れ去るという意味が普通で、投獄する、信じると翻訳される場合もあります。
 教会を襲う様々な悪魔的力に、今、向かっていくのであります。嵐を承知で漕ぎ出して行くのであります。
 嵐の向こうにある場所を、目的地を目指すのであります。

▼37節。
 『激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった』
 『激しい突風が』、原文を直訳すると、大きな風の嵐がとなります。
所謂シロッコでしょうか。
風とプニューマが同一視されることから解るように、風は神が起こすものと考えられていました。風は、大きな恵みをもたらしますが、時に、大災厄をもたらします。
 教会という船も、この世の嵐を免れ得ないのであります。
 それは、目的地を目指す旅であれば、避けられないことであります。嵐に遭うことのない舟旅は、遊覧船の旅であります。同じ波止場から出て、同じ波止場に帰って来る遊覧船に過ぎません。
 教会を、日曜日という波止場から出て、同じ日曜日という波止場に帰って来る遊覧船と間違えてはなりません。

▼38節。
 『しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた』
 直訳は、「しかし、彼は枕で眠って船尾に居た」であります。
『眠る』は、普通に睡眠を意味する時に使われる言葉であります。死を意味する眠りは、別の単語であります。
この言葉=καθευδωに相当するヒブル語は多数あるそうです。眠ることは良いことであり、眠らないこと眠れないことは、悪いことと結び付いて語られています。
ここでも、安らかに眠ることは、神への信頼であり、信仰のあかしであります。
 つまり、せっかく船の中、つまり、教会の中に居ながら、この世の嵐におびえてはならないということであります。
 教会だけが静かで安全ならばそれで良いということではありませんが、世の嵐に左右されていてはならなりません。

▼38節後半。
 『弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った』
 『溺れる(溺れ死ぬ)』は、普通は滅ぼす、殺すと訳されます。
 『かまわない』は、気に掛ける、関心を持つの否定であります。
 神は私たちを殺すのか、見殺しにするのか、こういう意味合いであります。

▼飛躍するようでありますが、ゲッセマネの園の出来事を思い出して下さい。十字架を前にしたイエス様が、ペトロたち3人の弟子だけを連れて、血を流すように祈りの時を持たれました。
 しかし、3人の弟子たちは、疲れから、眠りこけてしまいます。
 今日の出来事の裏返しであります。
 イエス様が同じ船の中におられるのであります。その船が沈む筈がありません。もし、沈むとしたら、イエス様と一緒に沈み、神の国へと向かうのであります。そこに不安も恐れも要らないでありましょう。
 
▼確かに、理屈はそうであっても、不安と恐れに駆られるのが、人間の現実であります。
 そして、十字架を前にしたイエス様が祈っておられる時に、そこで一緒祈ることの出来ないのが、人間の現実であります。
 最初の場面では、不安と恐れで心が一杯であります。
 次の場面では、疲労で心が一杯であります。
 何時でも、自分のことで精一杯で、神さまの御旨を思わないのが、人間の現実であります。

▼38節で、イエス様と弟子たちとは、真逆の存在として描かれているのであります。神に信頼して一切を委ね、風も嵐も全てを受け入れるイエス様と、『私たちを殺すのか』、誰も何も信じることが出来ない弟子たちとが、全く正反対のものとして描かれているのであります。
 信じられないのは、船の中に救い主が一緒に居て下さると言うことが信じられないのであり、また、この船が、辿り着くべき向こう岸を持っていると言うことが信じられないのであります。
 ひいては、『向こう岸に渡ろう』というイエス様の言葉が信じられないのであります。
 それでは、船に乗る意味がありません。

▼39節。
 『イエスは起き上がって、風を叱り、』
 『叱り』は、非難(叱責)する、怒鳴りつける、激しく訓戒すると訳されます。
37節で触れたように、風を支配するのは神であります。故に、このイエス様の行為は、彼が神の権威を持つしるしとなります。
湖(海)に命令されたことも同様であります。
 『すると、風はやみ、すっかり凪になった』
 風は止み、大凪となった、訳文の通り、原文も風の行為として表現しています。つまり、風は、主イエスの命令に服したのであります。
 イエス様は、この世の力にも命令される神であります。でありますから、この世の力を恐れる必要はありません。

▼逆に言いますと、今、嵐が吹き荒れているとしても、それはイエス様の意志と無関係に起こっているまではありません。
 私たち人間の理解を超えていても、その意味は、神さまがご存知なのであります。

▼40節。
 『イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」』
 怖がるは、臆病という字であります。心を激しく動揺させるのは、神の業に対する信頼の欠如であることが表現されています。
 『信じないのか(信仰がないのか)』、直訳すれば信仰を持たないのかとなります。持つは、身につくくらいの意味合いで用いられます。
 信仰が身に着かなくてはなりません。借り物の信仰では仕方がないのであります。信仰は晴れ着ではありません。普段着でなくてはなりません。

▼41節。
 『弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った』
 『非常に恐れて(恐れおののいて)』、この場合の恐れは、恐怖というよりも畏怖であります。故に、ここに描かれているのは、弟子たちの不信仰ではなく、むしろ、弟子たちの目が開かれたということであります。

▼『風も湖をも支配される方だ』、つまり、神だということを間接的に言わせています。
 弟子たちは、漸く、イエス様の力を知ったのであります。
 それは、何はともあれ、一緒に、船旅をしたからであります。嵐の海を、一緒に乗り越えたからであります。
 不信仰が露呈するような、惨めな船旅立ったかも知れません。しかし、イエス様と一緒に、船旅をしたのであります。嵐の海を、一緒に乗り越えたのであります。
 私たちの教会の、13年度の旅も、嵐の海を行くようなものでありました。
 しかし、イエス様と一緒に、船旅をしたのであります。嵐の海を、一緒に乗り越えたのであります。

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