試練と誘惑の時

2014年3月9日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 それから、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
 
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

マルコによる福音書1章12節〜15節

▼最初に、『それから』と記されています。『それから』とは、洗礼を受けられてからということであります。イエス様が、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、『それから』、一番最初になさったことが、ここに記されています。
 『それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した』
 厳密に言えば、一番最初になさったことではなくて、一番最初にさせられたこととなるかも知れません。

▼霊とは、旧約聖書では、預言者を召し出し、宣教の地へと導き出す力として描かれています。この霊が、擬人的に表現されています。でありますから、神さまによって、宣教の地へと送り出された、その地とは、『荒れ野』だったということになりましょうか。

▼普通、荒野の誘惑という記事から、私たちは、イエス様が宣教活動を始められる前に、その備えとして荒野で過ごされた、言わば修行されたというような受け止め方をします。それで間違いではないでしょう。しかし、荒野の誘惑の出来事があってから、洗礼を受けられ、宣教活動を始められたのではありません。
 でありますから、荒野で過ごされたこと、荒野に赴かれたこと自体が、宣教活動の始まりだと受け止めることが出来るかと思います。

▼初代教会の伝道は、そうしたものだったと思います。初代教会の伝道者たちが赴いた先は、信仰の荒野であります。
 今日では、例えば神学校を卒業した者が、何れかの任地に向かいます。そこには、教会という建物があり、人数が多くはないかも知れませんが、教会員がいます。しかし、初代教会の伝道は、何の根拠地もない、他に働き人もいない所に向かったのであります。

▼13節。
 『イエスは四十日間そこにとどまり』
 40という数字は、旧約聖書に於いて特別の意味を持ちます。この数字は、試練に結び付いて語られます。
 ノアの洪水では、40日間雨が降り続き、40日間地上は水で覆われます。出エジプト記で、ユダヤ人たちが荒野をさまよったのは、40年間であります。
 モーセがシナイ山で神から律法を与えられるまでが40日、約束の地を偵察期間したのも40日、他にも、いろいろと例を挙げることが出来ます。旧約聖書からも、新約聖書からもであります。
 
▼『サタンから誘惑を受けられた』
 サタンとは何者なのか、なかなか簡単ではありません。神の敵対者というイメージもあります。しかし、ヨブ記等では、神に仕える存在であります。
 民間信仰では、かつては天使であったが、そこから堕落した存在と考えられています。これも、聖書的根拠のない話ではありません。
 限定して、この箇所ではどのような存在でありましょうか。
 マタイ福音書、ルカ福音書では、この誘惑の内容が詳しく描かれています。しかし、マルコには存在しません。マルコに欠けている記事を、マタイ福音書、ルカ福音書で補って読んだとしたら、それは、マルコ福音書を読んだことにはなりません。むしろ、初めっから、マタイ福音書かルカ福音書を読んだ方がよろしいでしょう。

▼何も書かれていないのですから、書かれてあることをだけ読むべきでしょう。
 つまり、内容は詳しく描かれていませんが、誘惑を受けられたのであります。
 つまり、イエス様の最初の宣教の地である荒野は、サタンの誘惑がある場所なのであります。
 そして、このことは初代教会にも、私たちの教会にも当て嵌まります。
 私たちの宣教の地にも、サタンの誘惑が存在するのであります。詳しく描かれていませんから、却って、いろいろな誘惑の存在を考慮しなくてはなりません。確かに、いろいろな誘惑が存在するのであります。
 サタンは、今日でも、私たちの教会を誘惑しているのであります。し続けているのであります。これに、乗ってはならないのであります。

▼サタンとは本来、告発人、敵の意味を持ちます。教会を、教会の宣教を告発するのであります。敵対するのであります。
 私たちも、荒野に向かいます。私たちの伝道の地は、神の国ではありません。そこは荒野であり、そこには、サタンがいるのであります。絶えず私たちを監視し、隙あらば告発し、私たちの間に分裂を引き起こすのであります。
 
▼『サタンから誘惑を受けられた』
 ちょっと脱線して、ヤコブの手紙1章を見ます。
 1章12~15節。
 少し長い引用になります。
 『12:試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、
神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
13:誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、
また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
14:むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、
誘惑に陥るのです。
15:そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。』

▼イエス様が、洗礼を受けられたのは何故か、私たちがその後に続いて洗礼を受けるためであります。イエス様が、誘惑を受けられたのは何故か、私たちがその後に続いて誘惑を受けるためであります。そして、イエス様が誘惑を退けられたから、私たちも、誘惑を退けるのであります。誘惑を退けることが出来るのであります。
 ヤコブの手紙が言うように、私たちは、『試練を耐え忍ぶ』のであります。
 『試練を耐え忍ぶ』ことが出来るのであります。

▼『試練を耐え忍ぶ』ことが出来ないとはどういうことでしょうか。ヤコブの手紙が言うように、『自分自身の欲望に引かれ、唆されて』その結果であります。
 大胆に言えば、サタンは私たちの心の中にこそ、住み着いているのであります。それを少しでも甘やかすと、放置すると、私たちの心を食い破って外に出て来るのであります。
 正に、ヤコブの手紙が言うように、『欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます』。このようになってしまうのであります。

▼山月記…略。
 粗筋…虎に変身した李徴。
 私たちも、心の中に獣を飼っているのであります。むしろ、養い育てているのであります。

▼『その間、野獣と一緒におられた』
 野獣は、ユダヤ教の終末論の中に頻繁に出て来ます。野獣が人間に仕える終末の日の様が描かれています。
 ここでは、二重の意味を持っているのではないでしょうか。
 一つは、荒野には野獣がいるということであります。私たちの宣教の地である荒野にも、野獣がいるということであります。
 不用意ではならないのであります。務まらないのであります。
 もう一つの意味は、イエス様がこの『野獣と一緒におられた』、野獣がいる荒野には、イエス様がおられるのであります。

▼『その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた』
 これも同じことでありましょう。
 荒野には天使がいるということであります。私たちの宣教の地である荒野にも、天使がいるということであります。
 私たちは、荒野で獣を見ることが出来るし、これに食い殺されてしまうかも知れません。
 一方で、私たちは、荒野で天使を見ることが出来るし、これに助けられるかも知れません。

▼『野獣』について、このことも言わなくてはなりません。
 創世記1章に依りますと、アダムは、あの禁断の木の実の出来事が起こる以前、獣たちと共にあり、彼らを支配していました。
 創世記1章27~28節。
 『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。 男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」』
 これが、原初、神さまの作られた地上の秩序であります。

▼パウロの書簡では、Ⅰコリント15章、ローマ書5章と、キリストとアダムが結び付けられている箇所があります。
 長くなりますので引用は省略致します。
 つまり、『野獣』のことが記されているのは、必ずしも、恐ろしい不毛の場所で苦しみに遭われたという意味ではなく、むしろ、神聖な場所におられたという意味にも取れるのであります。

▼『野獣』についてはまた、イザヤ書の預言を忘れてはなりません。
 即ち、イザヤ書11章6~10節の、不思議な預言であります。
 6節7節を読みます。
 『狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち
/小さい子供がそれらを導く。
 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく
干し草を食らう。』
 これは、禁断の木の実の出来事が起こる以前の、エデンの園が回復されるという預言であります。究極の平和が実現されるという預言であります。

▼私たちの教会にも、私たちの伝道の地にも、このことが全く当て嵌まります。
 神さまは、この玉川の地に、教会を立てられました。玉川はサタンが住む地であり、獣が済む地であり、しかし、天使がいる地なのであります。
 教団の宣教委員長の張田牧師は、鳥居坂教会が立てられている六本木を、昼は東洋英和の子どもたちが通う天使の町、夜はサタンの町と表現していました。良く、分かります。六本木という土地は、天使の顔と悪魔の顔を持っているのであります。
 玉川はどうでしょうか。昼は玉川学園の生徒が通う天使の町、歓楽街があるわけではありませんから、夜は悪魔の町に変身する訳ではありません。しかし、玉川の町も、玉川教会も、そして私たち一人ひとりも、サタンが住む地であり、獣が済む地であり、しかし、天使がいる地なのであります。
 この地に、この教会に、そして教会員一人ひとりに、私たちは、神の国の福音を語るのであります。

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