国が内輪で争えば

2014年3月16日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

マルコによる福音書3章20節〜27節

▼繰り返し読んではおりますが、何度読んでも、大変難しい箇所でありますので、とにかく、順に読んでまいります。
20節。
 『イエスが家に帰られると』
 家とは、所謂イエス様の実家のことではなく、カファルナウムにあったと想像されるイエス様ご自身の家・即ちガリラヤ伝道の根拠地と考えられます。ここが、今日の出来事・論争の舞台であります。
 出来事も論争も、それが何処で行われたかということは、大変重要なことであります。
 例えば、教室や会議場で、ここでは、神学的な議論が行われ、時には、強い口調で互いの理屈を論破しようとするかも知れません。
 同じような、互いに譲らない議論を家庭の中でするようになったら、かなり深刻な事態であります。
 しかし、家族だからこそ、身内しかいないから、許されること、理屈も、非難もあるかも知れません。
 場所が教会だったら、当然、そこでは、教室や会議場、家庭の場で行われるものとは違うでしょうし、違わなくてはなりません。
 何より、祈りをもって、始められ、祈りを持って終えることが出来なければ、そんな議論は、教会ではしない方がよろしいでありましょう。

▼20節。
 『群衆がまた集まって来て』
 『群衆』、ここでは、またしてもオクロスという字が使われています。ここ数週の説教で、既に申しましたように、オクロスが使われるのは、衆愚というような意味合いを持っている場合が多く、単に大勢の人という意味ではありません。こんなにも大勢の人々がイエス様を支持していたと、素直に読むことも出来ますが、どうもそれだけではありません。
 この箇所でも、20節、
 『群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった』
 『食事をする暇もないほど』、直訳では、パンを食べることさえできないとあります。
 パンを食べることは、マルコによる福音書に於いて、特別の意味を持っています。大抵は、復活のイエス様と共にいただく神の国の食事=真の礼拝の意味を持つのでありますが、ここで、そこまで明瞭に意図しているかどうかは不明であります。
 しかし、マルコによる福音書には、群衆のために説教が邪魔される、礼拝の尊厳が損なわれるといった表現は頻繁に出てまいります。
 この箇所も、間接的ながらも、イエス様の宣教活動が邪魔されたと言っているのであります。

▼この出来事、この論争が何処で行われたかが問題だと申しました。
 こういう場所で行われたのであります。群がった群衆のために説教が邪魔される、礼拝の尊厳が損なわれるといったような場所なのであります。
 しかも、そこは、イエス様が帰られるべき場所、イエス様の家、教会なのであります。
 決して、御言葉を求めて、救いを求めて、まして哲学的な問を携えて人が集まっている場所ではありません。
 しかし、そこがイエス様が帰られるべき場所、イエス様の家、教会だったのであります。
 だからこそ、これが教会の理想の姿だと言いたいのではありません。宣教の始まりの時から、教会は、このような戦いと混乱の場所だったのであります。
 むしろ、だからこそ、教会なのあります。つまり、事業は、祈りをもって、始められ、祈りを持って終えることが出来なければ、そんな集会や、事業は、教会ではしない方がよろしいでありましょう。

▼次に21節。
 『身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである』
 『身内の人たち』とは誰のことでしょうか。
 31節を見ます。
 『イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた』
 21節と31節とが連続していますので、かえって解釈が難しくなります。
 『身内の人たちは』と『イエスの母と兄弟たち』と、同じ人でしょうか。同じなら何故言い換えたのでしょうか。
 断定するのは困難であります。

▼群衆、一般の人々は、イエス様を癒しの奇蹟を起こす人としか理解していません。そういう期待しか持っていません。
 それでは、身内の人たちはどうだったのか。6章3節にイエス様の兄弟の名前の一覧があります。ルカ・ヨハネのクリスマス記事に準拠するならば、弟達ということになります。ヨセフの連れ子即ち兄たちとするローマ・カトリックの見解は、マリア処女説を守るための解釈でありますが。ナンセンスとしか言いようがありません。
 身内とイエス様の関係については、他の機会3章31節以下での説教に譲ります。
 さて、身内の人たちはどうだったのか、イエス様の側にいたから、イエス様を正しく理解していたのか。そうではありません。それどころか、『あの男は気が変になっている』、(エクセステー、気が狂った、現在も狂っている)。こんな失礼なこと、冒涜的なことを言います。イエス様の側にいても、むしろ、側にいたからでしょうか、全然理解などしていないのであります。

▼一般の人々はイエス様を正しく理解していない、身内の者は『気が変になっている』と捉えた、更に、聖書・宗教の専門家である律法学者たちは。
 22節。
 『エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。』
 これまた、酷いことを言います。
 群衆、身内の者、律法学者、三者三様の仕方で、イエス様を否定するのであります。
 そして、繰り返しますが、この出来事、この論争が、今、教会の中で起こっているのであります。そして、現代の教会でも、全く同じことが起こっているのであります。
 だだ、奇跡と癒しを求める人々、地上的な幸福を教会に求める人、自分を発揮する場所だと思っている人、本気で信仰する者を『気が変になっている』と冷笑的に見ている者、イエスをキリストとは認めない聖書・宗教の専門家である律法学者たち、それぞれに三者三様に、イエス様を否定しているのであります。
 そういう人で、教会が溢れているのに、『食事をする暇もないほど』、直訳では、パンを食べることさえできないほど、つまり、復活のイエス様と共に神の国の食事=真の礼拝をいただくことが出来ないのであります。

▼『ベルゼブル』、新約聖書ではサタンの別名、悪魔の首領とされます。旧約の「バアル・ゼブブ(エクロンの神、列王記1章2節)」に由来すると考えられています。
 元来はバアル・ゼブル(高き住居の王)であり、シリアの最高神の称号だったものを、故意にバアル・ゼブブ(蝿の王)と読み替えて、サタンの別名としたものと考えられています。
 『サタン』 は、旧約では、超人的存在であっても、神に敵対する存在ではありません。ユダヤ教では、ベリアル(無益)、マステマ(敵意)の方が一般的でありました。
 クムラン宗団でも、闇の天使の謂で、ベリアルが頻出します。また、後期ユダヤ教の黙示文学に於いて初めて、ベリアルと似通った意味でサタンが用いられるようになります。ここには、ゾロアスター教に似た二元論的宇宙観そして終末理解が前提に存在すると言えましょう。

▼新約聖書のサタンは、サタンの他に、悪魔(ディアポロス)、試みる者(ホ ペイラゾーン)、悪い者(ホ ポネーロス)など多数用いられていますが、概ね後期ユダヤ教と同様に、神に敵対する勢力からの誘惑者としてサタンを描いています。また、ヨハネ福音書ではクムランのように光と闇、善と悪の二元論の前提に立っています。

▼先を読みます。23節。
 『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう』
 『たとえを用いて』 24~26節は、イエスがサタンの陣営ならサタンを追い出す筈がないいうことで、一応論理は成り立ちます。ここの箇所は理解出来るように思えます。
 しかし、27節。
 『また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ』
 27節だけを見れば、分からないでもないのでありますが、24~26節との関連が理解出来ません。

▼ここは、22節に記された律法学者の批判の内、後半の「悪霊の力で悪霊を追い出している」という批判に答えたものであります。つまり、イエスの奇跡は、邪悪な力を利用したものだという批判に対して、もしそうだと仮定しても邪悪な力を制した者だけが、その力を利用出来るのだとして、彼らの論理を逆手に取り、邪悪な力を制した者への信頼をアピールしているのであります。
 先を読みます。
 28節。
 『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される』
 『人の子ら』ここでは単純に人間、普通の人と読んでよろしいでありましょう。『人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。』
 律法学者の批判の根底には、以下のような考え方が存在致しました。病人・罪人は、罪とその刑罰の結果として苦しんでいるのだから、彼は癒されるベキではない。そのような論理が存在したのであります。イエスは癒されるベキではない人間を癒している、こういう批判であります。これに対して、神の恵みは全ての者に及ぶ、神が望まれるなら誰でも赦されると、イエス様は反駁しておられるのであります。
 
▼同じ28節の、『冒涜の言葉』、(ブラスフェーメオーで動詞、汚す)。汚す言葉にも汚す者にも、この動詞形を元にした名詞形が用いられてます。
冒涜する・汚すには、悪意ある批判、呪いというような意味合いがあります。つまり、人間に対する批判・敵意は、赦される時が来れば赦されるが、神の愛・恵みを拒む者には、再度の機会はないということであります。

▼29節。
 『しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』
 人間に対する批判・敵意は、赦される時が来れば赦されるが、神の愛・恵みを拒む者には、再度の機会はない。救いをもたらす神の力を否定する者には、救いの可能性はないのであります。

▼30節。
 『イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである』
ここを一番簡単に読めば、なんぼなんでも、これは駄目だよとなりますでしょうか。

▼以上のことを、もう一度まとめてみます。
 押し寄せる群衆も、イエス様の側にいた身内の者も、そして聖書の専門家である律法学者も、真にイエス様のことを理解することが出来ません。それどころか、それぞれの仕方で、イエス様の宣教活動を否定するのであります。しかし、イエス様がその宣教活動の対象とされているのは、救いの業の対象とされているのは、群衆なのであります。
 群衆が、イエス様の宣教活動を理解したからではありません。受け入れたからでもありません。勿論手助けになったからでもありません。イエス様は、イエス様の宣教活動を理解せず、受け入れず、勿論手助けになもならない者を救われるのであります。
 唯一、最後まで救いから除外される者は、このような神様の御心を否定する者だけであります。聖霊の働きを否定する者だけであります。あんな奴が救われる筈がないと言って、人を裁く者であり、救いなんてないと言って、神の救いの業を否定する者だけであります。

▼最後に、ベルゼブルについて、もう一度申します。
 『ベルゼブル』、新約聖書では悪魔の首領。(蝿の王)。
ノーベル文学賞作家のゴールディングに、『蝿の王』という小説があります。第3次世界大戦後の近未来世界で、無人島に漂着した少年達の物語であります。ヴェルヌの『15少年漂流記』とは全く逆で、希望が失われ、恐怖・猜疑・絶望に捕らわれていく少年達の醜い姿を描き出します。その少年達が、腐った豚の頭を中心において、恍惚となって踊る場面が、この小説の主題を表しています。腐った豚の頭には、蠅が真っ黒になる程たかっています。
 『蝿の王』=悪魔、それは、人の心に巣くって、一切を空しいと思わせ、一切を腐らせるものであります。
ゴールディングによる。この『蝿の王』=悪魔の定義は全く正しいと思います。

▼私たちは、イエス様の救いに与る希望・喜びをもって、イエス様の御言葉を皆で一緒にいただき、聖書を真ん中に置いて、一緒に讃美する群れであります。 この群れから、救いの希望が失われるならば、恐怖・猜疑・絶望に捕らわれていき、一切を空しいと思わせ、一切を腐らせるもの、蠅が真っ黒になる程たかった腐った豚の頭を真ん中にして踊る群れ、『蝿の王』=悪魔の群れとなってしまうのであります。
恐怖・猜疑・絶望、これは『蝿の王』=悪魔の誘惑がもたらすものなのであります。これを退ける戦いをしなければなりません。闘う力は、喜び・感謝であります。それ以外に確かな武器はありません。御言葉に聞き、祈り、感謝し、喜ぶならば、『蝿の王』=悪魔を退けることが出来るのであります。

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