神の国を垣間見る

2014年3月30日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

マルコによる福音書9章2節〜10節

▼いきなり私事です。必要最小限に抑えてお話しします。
 大学受験浪人をしていた年の夏、モーリアックの『イエスの生涯』を読みました。モーリアックのもので文庫本になっているものは全部読んでしまいましたので、仕方なしに、その題名からして敬遠していた『イエスの生涯』に手を出しました。大きい本ではありません。その日のうちに読み終え、その日のうちに本屋さんに新約聖書を買いに行きました。当時の私の知識では、旧約聖書は古いんだから読まなくても良いだろうぐらいに考えていました。

▼その日徹夜して、新約聖書を読み終え、次の日に教会に行きました。お話ししたいのは、その時のことです。教会の前まで行くと、体がぶるぶると震え、どうしても門をくぐることが出来ません。そこで、友人を誘い、この友人は、後に東洋大学の仏教科を経て、病を得てから、東京リハビリ学院に学び、今ではその方面の専門家、医学博士号を持っています。
 余計な話でした、必要最小限に絞ります。
 私は、彼に抱きかかえられるようにして、教会に入り、牧師に面会を求め、その日以来、礼拝と聖書研究祈祷会そして掃除の奉仕を、欠かすことなく続けました。

▼この時の体の震え、これが私の信仰生活の原点であります。私は初めて、教会に向かい合った時に、体が震え、止まらなかったのであります。そもそも、初めて新約聖書を読んだその晩、体が震え、止まらなかったのであります。
 少し遡ってお話ししますと、高校生の時から、偶然、キリスト教文学には親しんでいました。
 アンデルセンから始まって、トルストイ、ワイルド、これは児童文学への関心です。それが、ロマン・ロランやヘッセにつながり、その文学的流れから、シュテファン・ツヴァイクを知り、モーリアックへ、気付いたら、キリスト教文学にはまり込んでいたのであります。

▼しかし、聖書そのものは読みませんでした。多分、心の奥底で恐れ、警戒していたのだと思います。それが、『イエスの生涯』によって、堰を切ったように、聖書へ教会へと流れて行ってしまったのであります。
 『イエスの生涯』の中に、決定的な言葉がありました。
 『汝らは、羊の門より入ることは叶わぬであろう。何故ならば、汝らは羊の門より入ることを望まぬであろうから』
 羊の門とは、エルサレム神殿に入る門のことであり、イエス様自身のことであります。要するに、救いに至る門であります。
 当時の私の知識では、そんなことを理解できるはずはないのでありますが、しかし、何故か分かったのであります。
 そして、自分は文学を志しているのではない、救いを求めて藻掻いているのだと、思い当たったのであります。

▼チャールズ・ディケンズが大好きでした。自分のつまらない人生を逃げ出して、ディケンズの物語の中に逃げ込みたいとさえ思いました。今時の、若者が、ネットやゲームや、お宅文化の中に逃げ込むのと同じような、心情であります。
 しかし、『イエスの生涯』によって、聖書に出会い、教会を知ったのであります。
 その時に、体が震え、止まらなかったのであります。

▼9章5~6節。
 『ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
   仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6:ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。
 弟子たちは非常に恐れていたのである。』
 弟子たち特にペトロは、『非常に恐れてい』て、戸惑い、何をしたら良いのか、何を言ったら良いのか、分からなくなっていたのであります。この恐れとは、恐怖ではなく、むしろ畏怖でありましょう。

▼当然であります。弟子たちは、『イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3:服は真っ白に輝』くのを見ました。『エリヤがモーセと共に彼らに現れ』るのを見ました。不思議・奇跡を見ました。しかし、それだけではありません。彼らは、神の国が開けるのを見たのであります。
 『イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝』く場所、『エリヤがモーセと共に彼らに現れ』る場所は、神の国であります。
 弟子たちは、神の国を垣間見たのであります。

▼さて、『何を言ってよいか、わからなかった』のなら何も言わなければよろしいのでありますが、ペテロと言う人は、何か言わないでは済みません。まあそう言う性格であります。他の場面でもそうですが、良く考えないで兎に角反応し行動してしまいます。ハンドルだけでブレーキが無い車のようであります。そういう人はいます。

▼本人が 『何を言ってよいか、わからなかった』のなら、私たちがこの言葉の意味を考える必要はないのかも知れませんが、しかし、無視出来ないことのように思います。
 先週の箇所の、ここを思い出していただきたいと思います。
 32~33節であります。
 『すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、33: イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サ タンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。』
ペテロはまたも人間的に考え過ぎているのであります。『小屋を三つ建てましょう』とは、モーセ・エリヤをこの場所に止めると云うことでしょう。時間を止めるということにもなりましょう。無意識であったかも知れませんが、またもイエス様の十字架を回避しようとしているのであります。勿論、その結果は、復活をも回避することになります。

▼2節に戻ります。
 『六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。』
『ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて』何度も申し上げておりますように、3と言う数字は、十字架と復活と結び付いてしばしば用いられます。
 十字架は3本、イエス様は午後3時に息を引き取り、3日の後に甦りと言う具合で、3と言う数字は、十字架と復活の符牒のようなものであります。
 そして『ペテロ、ヤコブ、ヨハネ』この顔触れは、十字架と復活を巡って大事な事が起こる時にそこに居合わせる特別な弟子であります。ゲッセマネの園に連れていかれたのもこの3人であります。十字架と復活の神秘に関係する顔触れであります。
つまり、今から起こる出来事は、十字架と復活の神秘に直結する出来事であり、それ以外の文脈では理解出来ないし、理解してはならないのであります。
 弟子たちは、神の国を垣間見たのであります。

▼今一つここで述べられていることは、モーセがシナイ山で十戒を授けられた時の出来事と重ねられていると言うことであります。十戒を授かったモーセの顔がまぶしくて人々には直視出来ない程に光り輝いていたと言うことが述べられています。これはマタイ福音書の平行記事の方が詳しいのでありますが、マルコ福音書でも本質は何も変わりません。
 この出来事は、十戒の出来事と重ねられて理解されなければならないのであります。
 弟子たちは、神の国を垣間見たのであります。

▼4節。
 『すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。』 3節で申し上げ通りであります。この出来事は、十戒の出来事と深い関連が存在するのであります。マルコ福音書自体が、6章で、誰が読んでもシナイの出来事を連想させられるパンの奇蹟を描き、8章でもう一度それを繰り返し描き、しかも、その直後に『あなたこそキリストです』と言う最初の信仰告白について触れ、そうした準備の元に、この『山上の変容を』を描いているのであります。
 『エリヤがモーセと共に彼らに現れ』とは、何より、旧約聖書の歴史・預言の成就として、この出来事が起こったということを表現しています。逆に言えば、旧約に預言されるキリストが問題になっているのであって、旧約に預言されるキリストが今ここに現れたということが問題になっているのであって、キリストが何者か、旧約聖書の預言者はキリストをどのように描いたかということと関係ない所では、今日のこの出来事は意味をなさないのであります。

▼7節。
 『すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。』
 イザヤ書42章1~4節を引用致します。
 『わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしは わが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。2:彼は叫ぶこと なく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、3:また傷ついた 葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめ す。4:彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はそ の教を待ち望む。』
 ここには、来るべき、真のイスラエルの王の姿が描かれています。真のキリストが描かれています。

▼8節。
 『彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。』
この出来事が実際に起こったものなのか、それとも幻想なのか、議論しても意味はありません。マルコがこの場面を幻想的な場面として描いているのですから。事実か幻想か、何れにしても、ここでイエス様が真のイスラエルの王であること、十字架は、新しい真の王の座るべき玉座であることが述べられているのであります。
 
▼9節。
 『一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。』
 ここでも、「山上の変容」と復活とが関係付けられています。そのことに先ず私たちは注目しなければなりません。
また、例によって、この不思議は、限られた者にだけ、教会にだけ、信仰を告白した者にだけ示され、他の者には秘密にされます。それは、或る意味で、今日でも同じであります。「山上の変容」のような出来事は、信仰を持って受け止めるべき事柄であって、そうでないと唯のオカルトになってしまうのであります。

▼さて、弟子達は、十字架の出来事が起こることも、その意義も理解していません。10~11節。
 『彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことか と、互に論じ合った。そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エ リヤが先に来るはずだと言っているのですか」。』
9節以下は、一応別の記事であります。だからでしょうか、内容的にも後退しています。今弟子たちが論じているのは、一般論のようなものであります。
これに対して、イエス様は答えられます。

▼12節。
 『イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめら れると、書いてあるのはなぜか。13:しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。』
イエス様は、ここで初めて明確に、ご自分の身の上に起こったことと、キリスト預言とを重ねて語られました。この部分は、解説的な部分であって、マルコのオリジナルではないと言う人もいますが、何であれ、単なる解説と読むのでは足りないと考えます。

▼あなたは、『山上の変容』を目撃したか、と問われているのであります。真にイスラエルの王として即位された方の、お姿を見たかと問われているのであります。勿論、主の十字架と復活に出会って初めてそのことが分かるのでありますが、その逆もまた成り立つのであります。イエス様をイスラエルの王・キリストとして告白する者に、復活の主は声を掛けてくださるのであります。
『これはわたしの愛する子である。これに聞け』

▼讃美歌21の306番、5番まで全部、最後は、「わたしはふるえてくる」と歌います。
 黒人霊歌らしい、純朴な信仰であります。十字架を見上げて、「わたしはふるえてくる」のであります。
 震えるような思いをもって、十字架に向かい合う人は、神の国を垣間見たのであります。

▼この頃、私たちの悲しみに寄り添って下さるキリスト、一緒に歩いて下さるキリストという面が強調されます。勿論、聖書的な根拠もありますし、大事なことだろうと思います。しかし、その反面も、忘れられてはなりません。「わたしはふるえてくる」、そういう思いで、十字架を見上げることなしには、私たちには、本当の救いはありません。
 友なるイエス、この讃美歌の信仰は正しいでしょう。しかし、十字架の栄光に包まれた神が、罪人に過ぎない人間の友となって下さる、この逆説にこそ、救いが存在するのであります。 

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