心は燃えていても

2014年4月13日主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

マルコによる福音書14章32節〜42節

▼繰り返し読む箇所であります。また、繰り返し読まなくてはならない出来事であります。
 聖書の中で、何処の箇所がより重要で、他はそれ程でもないと言うことはできませんが、ゲッセマネの園での祈りは、繰り返し読み、心に刻むべき、出来事であります。

▼今日の箇所の修養登場人物は、イエス様と使徒ペトロとであります。この二人だけで物語が展開することは、少なくありません。
 イエス様の十字架と復活を巡るドラマに於いて、他の弟子たちと比較して、圧倒的に登場回数が多いのが、使徒ペトロであります。セリフも絶対的な分量は、多いとは言えないかも知れませんが、他の弟子と比べたら、矢張り、圧倒的に多いと言えます。
 何より、彼の性格・人柄が伝わってくるようなエピソードが、沢山残されています。

▼しかし、彼は、あくまでも、弟子たちの代表であります。むしろ、典型として描かれていると言った方が良いかも知れません。弟子たちの中に、ペトロというユニークな人が居ました。個性豊かなキャラクターの持ち主で、故に、彼の登場する場面が多く、セリフも多いという話ではありません。
 そうではなくて、ペトロはあくまでも、弟子たちの代表であります。弟子たちの代表として、かのヒィリポ・カイザリヤの告白、『あなたはメシア生ける神の子です。』という告白も、なされたのであります。もしこれがペトロ個人の信仰告白だったならば、余り価値はありません。あれが、弟子たちを代表する告白だったから、聖書に記録され保存される値打ちが存在したのであります。
 そのことに、どうして拘るかと申しますと、今日の箇所を読む上で、絶対に忘れてはならない大前提だからであります。

▼29節をご覧下さい。
 『するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、
  わたしはつまずきません」と言った。』
 弟子たちの代表である筈のペトロが、ここでは、それから外れたことを言います。『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』「私は他の弟子とは違います。」と言います。
 本当ならば、ここにいる者は誰も躓きませんと答えるべきでありましょう。もし本当にペトロが、弟子の代表ならばであります。
 例えば、牧師が、玉川教会の者が皆躓いたとしても、私は躓きません。
 それは、一大覚悟を、立派な決心を述べているようでいて、実は、教会を裏切っている言葉であります。

▼『「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言』う人には、実は、皆を代表して、『あなたはメシア生ける神の子です。』という告白をする資格も、自覚もありません。
 ここが、聖書一流の逆説であります。
 その後の躓きは、ゲツセマネの園や大祭司の庭で暴露した彼の弱さは、彼個人のものではなくて、弟子たちのもの、つまり、教会のものなのであります。
 その躓きは、『「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言』った時から、既にして始まっているのであります。

▼ペトロの躓きは、自分が口にまでした決心・覚悟、告白を最後まで貫き通すことの出来ない弱さであります。この弱さを、マルコ福音書はしつこい程、詳しく描き出しています。
 先ず、ゲツセマネの園では、睡眠欲。人はどんなせっぱ詰まった局面でも、眠い時は眠いのであります。眠ったら死んでしまうという時でも、睡眠欲には勝てません。
 ナチスに、人を眠らせないという拷問がありました。例えば、水滴がポツンポツンと額に落ちて来る、しかも、一定間隔ではなくて、落ちて来る。そうすると、眠れません、しかし、眠い、これがついには、狂気に陥る程の拷問になるのだそうであります。それ程に、眠いということは、どうにもならない人間の弱さなのであります。
 今一つ描かれている人間の弱さは、恐怖であります。これは、説明するまでもありません。マルコ福音書14章50節、恐怖の故に、
 『弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。』のであります。

▼更に、14章54節と67節以下を見ます。
 『ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、
下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。』
 『ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。
「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
68:しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、
わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。
そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
69:女中はペトロを見て、周りの人々に、
 「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
70:ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々が
ペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。
  ガリラヤの者だから。」
71:すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、
 「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
72:するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、
あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた
  言葉を思い出して、いきなり泣きだした。』
 寒かったのであります。恐怖のために一度は逃げ出したペトロが、それでも残った勇気を振るい起こして、大祭司の庭にやって来ます。明るい所では、正体がばれてしまうのに、あまりに寒くて我慢出来ず、火に当たり、案の定、弟子であることを見破られます。そして、寒さと恐怖に震える声で、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と言ったものですから、ガリラヤのお国なまりで、ばれてしまったのであります。実に、情けない惨めな姿を暴露するのであります。

▼人間誰しも持つ弱さが、ペトロの言動に凝縮されて描かれているのであります。ここでも、ペトロは弟子たちを、そして教会を、代表しているのであります。
 そして、何よりも、肝心なこと、一番深刻な躓きがここに存在致します。
 その躓きは、『「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言』った時から、既にして始まっているのであります。
イエス様の十字架に従い行くということは、己の覚悟や決心でなせる業ではありません。己の覚悟や決心でなそうとするから、必ず、躓くのであります。むしろ、己の覚悟や決心でなそうとすることが、既にして、躓きなのであります。全ては、イエス様の御心で、イエス様のご計画に基づくことなのであります。

▼この箇所に於いて、人間の躓きは、弱さという形で現れています。しかし、その弱さの背景に存在するものは、欲であります。我であります。人間が肉体に閉じ込められている限り、絶対に免れ得ない、欲、我、そして弱さなのであります。その総称が罪でありましょう。
 罪人たる人間の、決心・覚悟など何程のものでもありません。罪人たる人間の、決心・覚悟などに頼ってはならないのであります。

▼一方の、イエス様のお姿を見て下さい。36節。
 『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。
この杯をわたしから取りのけてください。しかし、
  わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』
 シモーヌ・ヴェイユを引用します。
 「みこころの行われますように」ととなえるたびに、起こりうる可能性のあ る不幸を何もかも全部、思いうかべていなければならない。」
『わたしが願うことではなく、みこころのままに』私たちは、主の祈りで、『御心のなりますように』と祈ります。
 しかし、これは、とんでもなく、大変な祈りなのであります。イエス様は優しい方だから、まさか、私に不利益なことはなさらないだろう、そう言う前提で私たちは祈っています。それは、厳密には、『みこころのままに』ではないのであります。条件付きなのであります。
 そして、29節の、ペトロの覚悟は、『みこころのままに』ということさえ否定しているのであります。

▼イエス様が、『わたしが願うことではなく、みこころのままに』と仰った意味は、十字架のことであります。私たちも、『わたしが願うことではなく、みこころのままに』と祈るならば、十字架のことを念頭に置いていなければならないのであります。

▼ペトロは、イエス様のことを思って言いました。しかし、その直後に、イエス様のために祈ることの出来ない姿が描かれています。
 私たちは、イエス様に向けて祈ります。助けて下さい。憐れんで下さい。祝福を下さい。しかし、イエス様のためには祈らないのであります。
 私たちが必死になって祈るのは、孤独に追いやられた時だと考えます。イエス様に頼り、すがるしかない時であります。
 そのような時に、『わたしが願うことではなく、みこころのままに』と祈っているのでしょうか。出来ないのであります。
 しかし、イエス様はそのような私たちの罪、私たちの弱さ、私たちの欲望を、ご存知なのであります。それを承知で、承知だから、十字架へと赴かれたのであります。

▼教会学校では、献金に際して、讃美歌64番を歌います。
 「まごころこめ、ささげます。このたからと、このわたし、主なる神よ」
 大好きな讃美歌であります。しかし、厳密に言えば、捧げる宝なんてあるかどうか、捧げることの出来るのは、「このわたし」だけなのであります。

▼この『わたし』をほろほすこと」が出来るのなら、何の苦労もありません。また、讃美歌のように、「このわたし」を「まごころこめ、ささげる」ることが出来るのなら、何の問題もありません。それが出来ない人間のために、それが出来ない人間のためにこそ、イエス様は、十字架に架けられたのであります。

▼先月、仙台で行われた東日本大震災の国際会議に出た時に、酷い歯痛に襲われました。二日間殆ど眠れないような状態で、予定を早めて帰り、歯医者さんに飛び込みました。
 私だけではないと思います。人間歯が痛いというだけで、もう、他のことは考えられなくなります。他のことはどうでも良い、他人のことはどうでも良い、そんな思いになってしまいます。
 何か、心配事がある時もそうであります。人間苦しいと、自分のことで精一杯であります。

▼そして、思います。神さまは、どうしてこの痛みから、この悩みから救って下さらないのだろうと。神さまは何をしておられるのだろうと。そして、神さまは、所詮何十億人も居る人間の中で、この私になど関心を持ってくれないのだと。神さまにとって、この私など、どうでも良い存在なのだろうと、そういう、思いに陥るのであります。
 
▼ゲッセマネの祈りの記事には、今、お話ししたことと、真逆のことが記されています。
 イエス様が、眠れない夜を過ごされたのであります。弟子たちに、私のために祈って欲しいと仰ったのであります。それ程、苦しい時を過ごされたのであります。
 しかし、弟子たちは、眠くて、イエス様のことなど考えられなかったのであります。祈る余裕などなかったのであります。
 
▼この事実こそが、私たちの救いの根拠なのであります。イエス様が私たちを忘れたのではありません。私たちがイエス様を忘れ、裏切ったのであります。
 それが、私たちの救いの根拠であります。 
 それが、十字架の出来事であります。

▼話は、ペトロに戻りますが、イエス様が、十字架に架けられたのは、我が罪のため、我が躓きのためであったことを悔いて泣き、告白し、感謝することは出来ます。そうして、その罪の現実を、宣べ伝えることは出来るのであります。ペトロがしたことは正にそういうことなのであります。
 ペトロの躓きの場面は、他の場面に比べて、随分詳しく描かれています。つまり、ペトロの恥であることが、随分詳しく描かれています。書いたマルコは、ペトロの弟子であります。ペトロが初代教会の集会で自分の罪をつまびらかに告白し、また、マルコに強いて記録させた結果ではないかと言われております。私もそう考えます。

▼己の罪の姿を告白し、そのような者を十字架に架かって救って下さったイエス様への感謝を歌うこと、それが、本当の意味での、「まごころこめ、ささげます。このたからと、このわたし、主なる神よ」ということではないでしょうか。 

▼今まで申し上げたことを、約めて言えばこうなります。私たちが本当の意味で神さまに捧げることが出来るのは、悔い改め、罪の告白だけであります。それ意外のものは、捧げることが出来ません。何故なら、私たちの宝は、初めから神さまのものだからであります。
 文語の交読文15番。
 『汝は供物を好みたまわず、もし然らすば我これをささげん、汝また燔祭をもよろこびたまわず。神の求めたもう供物は砕けたる魂なり、神よ、汝は砕けたる悔いし心を軽しめたもうまじ。』

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